二十八話
――カラン、カラン
静まり返った店内。さっきまで見ていた禍々しく唸りを上げていた木、凄惨な事故の記憶、奥底に隠れてしまった記憶。そのどれもが全て幻のように感じてしまう。見えない、それだけで。
「言葉の木……今でもそこにあるんだよね? 見えないってだけで……」
私のつぶやきにまたメモに文字が走る。
――ありますよ。今は落ち着いています――
「なんで、今の私には見えないんですか……。言葉が見えたら、ちゃんと気づけたら、傷づかず、傷づけずに済むことだって……」
人の心。気持ち。そういうものが見ることができたのなら、傷つける言葉なんかもなくなるのだろうか。自分の気持ちなんかも、何かしらの形になって見ることができたら、少しは自分が何なのかわかるのだろうか。
――あなたの言いたいこともわかります――
――例えば、わたしが膝を擦り剥いたとして――
――それを見たあなたは「大丈夫?」と声をかけ絆創膏を出してくれる――
――見えていればこのような対処ができるということですよね――
「はい……。ただの状況への対処であっても、できることがあると思って」
――それはどうでしょうか――
「でも、見えたら!」
――見える世界が必ずしもいいとは限りません――
何か反論、と考えたが、筆談との会話に躊躇いもあり、言い返さなかった。
そのまま静かな時間が少し流れ旦那さんが戻ってきた。
――カラン、カラン
「お待たせしました」
「お帰りなさい」
「誰かお店に来ましたか?」
「いえ、誰も来ませんでしたよ」
「そうですか。今、電気を点けますね」
気が付けば外は夕暮れ時、東の空が夜に染まり始めている。旦那さんは灯りを点けたあと、買い物袋ごとカウンター奥の厨房に入っていった。
「私も手伝います!」
「じゃあお願いできますか?」
「はい!」
「ビーフシチューに合わせるならパンと思っていたのですが、すっかり忘れてしまって」
「私はご飯でもおいしいと思いますよ?」
「では、ぼくはご飯の準備をするので野菜の皮むきをお願いできますか?」
「わかりました」
「実は昔ね、ビーフシチューを作るの練習したことがあるんですよ。妻が好物と知って喜んでもらいたくてね。でも妻は「料理は私が作るから」と言って結局作らせてはもらえなかった」
「奥さん、きっと恥ずかしかったんですよ」
「僕も妻も古い家庭で育ちましたから〝男が料理〟というのは、やっぱりそうなんですかね」
「えっ? いえ、そうじゃなくて。自分のために何かしてもらうことがむず痒くて恥ずかしかったんじゃないですか? 本当は嬉しいのに、気恥ずかしくて、気持ちが裏返って、本音を隠してしまう、とか」
奥さんの記憶、感情に深く入り込んだからこそわかる。あの誕生日のささやかなサプライズのように。自分に向けられた好意が嬉しくもむず痒くて、恥ずかしくて、何だか素直になれない感情。確かに初めは旦那さんに対して〝男らしさ〟みたいなものを求めていたのかもしれない。でも、奥さんは旦那さんを選んだ。
「そうですかね……僕は気が強い方ではないので男らしい所を見せることもできませんでした。その上、男が料理なんて、そんな所見たくないってことだと思っていました」
旦那さんも〝こうしなければ〟〝こうあるべき〟という思い込みに囚われているんだ。それが自分を否定させている。
「今日はおいしいビーフシチューを奥さんに食べてもらいましょう!」
「そうですね」
「皮むき終わりました。野菜切っちゃってもいいですか?」
「じゃあ玉ねぎはくし切り、ブロッコリーは小房に分けて、ニンジンとジャガイモは大きめに、二等分くらいに切って、こちらにください。」
「そんな大き目でいいんですか?」
「ここ数日、妻の調子があまり良くないので、喉に詰まらせないよう軟らかくします」
「喉に詰まらないように小さく、じゃないんですか?」
「小さく切ると調理時間は短くできますが、思うほど軟らかくはならなかったり、煮込みすぎて溶けてしまうんです。形はしっかり残したい、だってビーフシチューですから」
言われた通りに玉ねぎはくし切り、ブロッコリーは小房に分けて、ニンジンとジャガイモは大きめに切って渡した。すると旦那さんは玉ねぎをボールに入れ、ブロッコリーは沸騰した手鍋に、大きめに切ったニンジンとジャガイモは何やら、穴あきの落し蓋に足の生えたような器具と一緒に小さい炊飯器の中へ。
そのまま早炊きのスイッチを押してしまった。
「蒸し調理です。これは蒸し板といって、炊飯器が簡単に蒸し器になるんです。火加減や時間なんかを気にせず別のことに集中できるので便利ですよ」
良いことを聞いた。と、思ったがお店と違い普通の家庭では炊飯器は一つだし、その間ご飯は……と思い活用は難しい。
「そういえばお肉は……」
軟らかくするのが一番難しい食材。何かに漬け込むなり、煮込むなり、早い段階で調理をしなくてはいけないはず。
「お肉は挽き肉を使ってハンバーグにしよう思います。煮込む時間や調理法で軟らかくなるとしても少し不安でしたので」
そう言うと旦那さんはボールからくし切りの玉ねぎを少量取り出し、慣れた手つきであっという間に細かくみじん切りを作った。フライパンでみじん切りを炒めたあと牛乳、パン粉、卵を加え、炒めたみじん切りを冷まして牛挽肉と混ぜ合わせる。できたタネをフライパンで焼き、焼き色が付いたら返してくし切りにした玉ねぎを投入。玉ねぎがしんなりとした頃に水と赤ワインを加え、ひと煮立ちさせて灰汁を取る。次に既製品のデミグラスソースとローリエを加えたらウスターソースとケチャップで味を調え、さらに煮込む。
「味見をお願いできますか?」
「おいしいです! けど、私にはちょっと酸味が強い気が……」
「一応、生クリームも用意したのですが、じゃあお味噌を少し加えましょうか。お味噌を入れるとコクが生まれ、口当たりもよくなるんです」
「えっ? 洋食にお味噌ですか? 大丈夫なんですか?」
「意外ですか? でも、お味噌はいろんな料理の隠し味としてカドを抑え丸みを与えてくれるから優秀なんですよ。例えば、しょうが焼きや麻婆豆腐なんかにもお味噌は合うんです」
「そうなんですね! 洋食とか和食って勝手な思い込みでした」
「さっ、そろそろご飯と野菜もできる頃ですか、ね」
早炊き設定の野菜を入れた炊飯器ができあがりを知らせると別のもう一つの炊飯器もつられて鳴った。
「私、奥さん起こしてきます」
多分、奥さんは口入屋さんじゃないと起こせないと思う。そんな気がした。旦那さんが勘違いしてしまわないように起こしてもらおう。
店内へ戻るとカウンター上で開かれたままのメモに、がんばってください、と口入屋さんの文字が。
「あら……いつの間にか寝ちゃったのね」
「ご気分はいかがですか?」
「私ったらお客さんがいるのに、ごめんなさい」
「起きたのかい? じゃあ、食事にしょうか」
厨房から旦那さんが運んできたトレーには三つのライス。二人にビーフシチューを食べてもらいたいと思うばかりで自分の存在を忘れていた。ここに私はいらない。二人の思い出してほしい記憶に私はいない。
「では、私はそろそろ。お邪魔しま――」
「せっかくですから一緒に食べましょう」
「いや……でも目的が……お二人だけの方が……」
奥さんがいる手前、はっきりとは言えずに口ごもってしまう。
「最近、この人にご飯を作ってもらうんですけど、けっこう美味しいんですよ」
「じゃあ、お言葉に甘えて……」
そもそも何をやっているんだ、私は。手段が目的になっていてその先をあまり考えていなかった。何かしたいと思っても、なかなか上手くいかないのはこういう所にある。こうなったら少し強引でも食事
中に話題を振って二人に思い出してもらうきっかけを作ろう。
「今日はビーフシチューにしてみたんだ」
「そういえばめっきり食べてないわね」
奥さんは眠る前より意識がずいぶんと明瞭であるように見えた。記憶の混濁も感じられない、顔つきもどこか戻ったようさえ感じる。
「奥さんテーブルまで遠くはないですか? 椅子に移りますか?」
「そうね、みんなと同じ椅子にしましょうか」
「どうぞ、つかまってください」
「ごめんなさいね、ありがとう」
私が慣れない手つきで奥さんの移動を補助すると、同時に旦那さんが座りやすいように椅子を少し引き、腰を庇いながら椅子へ誘導し、膝元にナプキンをかけた。
移動させるならまず椅子を先に引いておくべきだった。当たり前なことがなかなか気付けない。
「じゃあ、冷めないうちに食べようか」
「ええ、そうね」
「わあ、おいしそう……」
お店の丸テーブルを三人で囲む。
なんだか懐かしい、誰かと食事を一緒にするなんていつ以来だろう。
二人に思い出してほしい記憶があるのに自分が懐かしさを感じてしまっている。
「野菜がすごく軟らかい! とってもおいしいです!」
「野菜は茹でるより蒸した方が味も濃くなるし、甘みも増しますからね」
「やっぱりビーフシチューはこの大きい具よね! 私これが好きなのよ! あら、お肉はハンバーグ?
でも、――うん、おいしい!」
「バラ肉やスネ肉を煮込むとなると時間がかかるからね、ちょっと手抜きさ」
奥さんは好物にはしゃいでいるようだ。こちらまで明るくなる。
私も一緒にただ食事を楽しんでいるだけになっている。何か、何か、二人の思い出を呼び起こさせる話題を切り出さないと。
「そ、そういえばビーフシチューって意外と簡単に出来るんですね。私もっと時間のかかる料理かと思ってました」
「今回は市販のデミグラスを使いましたし、メインのお肉をハンバーグ、付け合せの野菜は別で調理したので簡単に出来たんですよ」
「本当においしいです! お店のメニューでも出してください! 〝喫茶店〟に〝ビーフシチュー〟いいですよね? ね? 私、食べに来ます!」
「はは、どうかなぁ……僕の手抜き料理だからなぁ」
「ビーフシチューなんて、本当、久しぶりだわ。私もいいと思う。ハンバーグも食べやすくておいしい。喫茶店でビーフシチューなんていいわね」
「そういえば君は昔『私は運が悪いの』なんてよく言ってたっけ『私の行くお店にだけビーフシチューが無い』ってめちゃくちゃなこと言って」
「あら? そんなことあったかしら? でも、あれは、どこだったか――二人で入った喫茶店は覚えてるわ」
「ん? 喫茶店? いつの話だい?」
「ずっと昔よ。結婚する前の話。私の誕生日を喫茶店で祝ってくれたの、覚えてない?」
「ああ、――懐かしいな。そんなこともあったっけ」
どうやら思い出してくれたみたい。あとは二人で。
二人が思い出話に夢中になっている間にそっとトイレに立った。
鏡に私を割れさせる。――〝私〟を透り、私は〝見えない〟世界から〝見える〟世界にまた入り込む。
店内に戻るとすぐに口入屋さんが寄ってきた。
「なぜあなたはまたこちらに! お話したはずです! 危険だと!」
「でも、このままじゃ二人が……」
あのまま私があそこにいたらダメな気がした。思い出してほしい記憶へは誘導できたけど、そのときの感情をもう一度甦らせるのは難しい。
「そうですね。ですが、もう少し様子を見てみませんか。二人だから話せることもあるはずです」
私は口入屋さんの言葉に従うことにした。




