二十六話
「では、行きましょう。葉に直接触れるのではなく、木の幹から、ゆっくり手繰るよう、目を閉じて、自分の気持ちを静めてお落ち着かせてから集中して、言葉を探してください」
葉ではなく、幹に触れ、目を閉じ、ゆっくり、手繰るように、言葉を探す
――《おててちょうだい》――《私が……あの子の手を……》――《私が》
違う。そんな言葉だけじゃない。違う。もっと。
――《桜を見に行こう》――《そこでまた写真を》――《君のせいじゃない》――《僕がいる》
旦那さんの声がする。あの散ってしまって見ることのできなかった桜は旦那さんと奥さんの区切りだった。お子さんと一緒に見た桜の木、二人はあれからずっと見ることができなかった。それでも、前を向こうと、忘れるためじゃない、乗り越えるために。そう二人は決意した。……奥さんは一人じゃない。
もっと前。もっと! もっと!
――《喫茶店でもやりませんか?》――《…………》――《あのとき……》
よく聞こえない……奥さんは何て言ったんだろう。
もっと深く! もっと!
――《六時から予約していた……ですけど》――《ごめん、席譲ってもいい?》――《よかったら、僕らのをどうぞ》
所々に靄のかかった景色が見える。
ドアのガラスに反射した私は、……あれ、この人、誰? これって、もしかして、……奥さん?
どこかのお店の店内、ドアガラスには二十歳ぐらいの綺麗な人が映った。
随分と昔の記憶に辿り着いたよう。
レストラン、だろうか。受付で予約の確認をしている若い男性がいる。旦那さん、かな? 優しそうな、でも、どこか気の弱そうな青年。その奥で先客のカップルらしい男女二人が店の人と揉めている。男性の方が声を荒げて店員さんに詰め寄っている。どうやら予約した席が手違いで被ってしまっていたらしい。生憎本日は満席でして、というやり取りも聞こえた。予約の時刻より早く着いた私たちとは関係なさそう。
えっ――私、たち?
彼は私に『ごめんね』と言うと予約していた席を揉めているカップルに譲ってしまった。私たちの予約と被ったわけじゃない。何も関係ないのだからもう少し毅然としていてほしい。優しい人。好きな所ではあるけれど、もう少し頼もしさとか……男らしく、堂々とした所も見せてほしい。揉めていたカップルの男性くらい思っていることをはっきりと言ってもいいと思う。いつも本心をどこかに隠して笑う彼が少しだけ不満だ。
『ごめんね、違う店にしよう』
『大丈夫……私はどこでも……いいから』
週末のこの時間、お店なんてどこも混んでいるだろうな。
しばらく辺りを探したが、案の定どのお店も満席。やっぱりさっきのお店、譲らなければよかったんだ。
『本当にどこでもいいよ?』
『ああ、うん……』
結局、近くの喫茶店に落ち着いた。
けど、あーあ、喫茶店か……。今日、私、誕生日なんだけどな……。彼はきっと忘れちゃってるんだろうな。
――カランカラン
ドアの呼び鈴が静かな店内に響き、すぐに笑顔の店員さんが対応してくれた。
それほど広くはない店内。お客さんは疎らで、飾り気は少ない。でも、灯りは暖色で落ち着いていて、音楽が静寂とは違う安心を与えている。
赤いビニールレザーの椅子にようやく腰を落ち着かせ、メニューを眺める。すると、そこにあったのは私の大好物。
ビーフシチュー。
初めて食べたとき、世の中にはこんなにおいしい食べ物があるのかとさえ思ったほど、おおげさな衝撃を受けた。
運がないのか私が行く店にクリームシチューはあってもビーフシチューを出している所がほとんどない。
しばらく食べていなかった、私の大好物。
『私、これにするわ!』
注文は仕組まれているようにすぐ決まった。
――――……
それからは幸福な時間が流れ、喫茶店を出る頃には最初の不満なんてすっかり忘れてしまっていた。
ビーフシチューは期待を裏切らないおいしさ。お肉も野菜も具はみな大きく、しっかりと形を残したまま、とても柔らかかった。
私は『ねぇ、見て見て』と、はしゃいでしまって『ホントだ』と笑う彼にさっきまでの自分の子供じみた不満や幼さを恥ずかしく感じていた。
そんな私を食事のあとのケーキが驚かせた。ケーキ自体はチーズケーキで、誕生日らしさにはちょっと欠けていたのだけれど、添えられたクリームに細いロウソクが数本灯され、チョコレートでお皿にHappy Birthdayと書いてあった。さらに店員さんの計らいで店内の照明が消されると、彼と店員さん、居合わせた他のお客さんにまでバースデーソングを歌ってもらい。本当、顔から火が出るほどの思いをした。
あのときの私は上手く取り繕えない顔だったと思う。ただ、嬉しかった。
それでも、どこか恥ずかしくもあって、素直にもなれなくて、上手く言葉が見つからないまま〝ありがとう〟が言い出せなかった。
店を出てから妙に笑顔な彼。全部この人の思惑か……とそこで気付いた。
レストランのことは想定外だろうけど、他のお店とか下調べなんてしてくれていたのね。
それにしても私がビーフシチューを好きなんていつ知ったのかしら?
そんな話したことあったかしら? 私でもいつ言ったかさえ覚えていないこと覚えていてくれていたのね。
それなのに、記念日だからレストラン、なんて。
だから、じゃないから、で、勝手に不貞腐れていた自分が恥ずかしい。
私が気にしていたのは結局、ただの形。それに今思えばあのレストランだって、もしあのまま入ってしまっていたらあのカップルと揉めることになっていたかもしれない。必要のない罵声を聞いていたかも知れない。どんなに自分たちが正しくても相手がそれをわかってくれるとは限らない。
せっかくの誕生日にそんな聞きたくない言葉を聞かなくてよかった。
本当、――優しい人。
『ありがと』
まだ恥ずかしくて、小さく言った。
上手く言葉にできなくて、小さく言った。
『ん? どうかした?』
『いや、なんでもないわ――』
――――《聞こえますか?》――――《それ以上はいけません!》――――
なんだろう。声がする。彼のじゃない。誰だろう。女の人?
――《それはあなたじゃない!》――《戻ってきてください!》――
左手が熱い。声はここから? 私じゃない?
「戻ってきて!!!」
急に視界が狭まり何かに引き戻された。
あれ? ここは? 喫茶店? さっき出たはず……いや、違う、私は……。
「同調しすぎです。自分が誰なのか、わからないまま他人の記憶に閉じ込められてしまいますよ」
「すみません……」
「あれはあなたではない」
まだ、頭がボーっとしている。
私は、私だ。奥さんじゃ、ない。ちがう。




