二十三話
「けどね、難しいの、こうあるべきなんて考えは何かを台無しにしてしまうこともあってね、お茶の楽しみは人それぞれってわかっているつもりだけど」
〝こうあるべき〟何故だかその言葉を聞いた瞬間、胸の奥がざわざわした。自分でも知らない所に少し触れられたような、よくわからない不快感。
ちょっと、気持ち悪い。
「難しいですね……。す、すみません、お手洗いお借りできますか?」
「ええ、どうぞ、お化粧室はそこの奥に」
〝こうあるべき〟……なんだろう、私に言われた気がしてドキッとした。つい席まで立ってしまった。
〝こうあるべき〟私もそういう考えに行動や判断を委ねている。そんなものに左右されている。
誰に言われた訳でもないのに、自分を制限させたり、責めたりもする。この服のことだってそう。
トイレの鏡にはいつもと違う私。少し見慣れただけの服。こういう服、きっとこういう子じゃなきゃ似合わない、そう思ってしまい着れなかった服。
こうあるべき、こうじゃなきゃ、そんな考えに動けなくなる。
気付いたときには鏡へ手を伸ばしていた。――――スッと〝私〟が剥がれる。
「えっ? どうして? こんな――」
自覚のない行動だった。
「早く戻らなきゃ!」
なんでこんな所で! こんな急に! 迷惑になる!
焦りや迷惑という気持ちが駆け巡る。
いつもならこれで戻るはず。……なのに、どうして戻れないの!?
なぜ鏡に触れたのか、なぜ戻れないのか、混乱と焦りばかりが募っていく。
「落ち着け――落ち着け――落ち着こう――」
言葉で無理やり自分を落ち着かせた。
誰かに気付いてもらえれば何か変わるかもしれない。さっきだって宅配便の人の声で戻れた。とりあえずホールに戻ってみよう。
「危ないからね、僕につかまって、僕が支えるから」
奥さんが旦那さんに介助されて立ち上がっていた。
「大丈夫よ、私じゃないとここはわからないでしょ?」
旦那さんの手をかりて奥さんがカウンターの棚を何か探しているようだ。
が、異変にすぐ気付いた。――木が二人に巻き付いている。
何、あれ……。
え? なんなの? どうして?
光景の異常さに頭が追い付かない。どうしていいかもわからない。
おそらく、外で無秩序に生えていた実体を持たない木、だと思う。目の前の異常を冷静に飲み込もうとするが、人に木が巻き付くという異質さと異常さが状況を受け入れられないものにしている。
外では偶然か稀に木の辺りで躓いたような反応をする人はいても、実体があるような干渉を与えている様子はなかった。たぶん、害はないはずのもの。いや、でも、私はこの木についてわからないことが多すぎる。
「あの時も、あなたは『危ないから、僕につかまって、僕が支える』って、変わらないわね」
「桜を見に行った時のことかい? 懐かしいな。前の晩に雨が降ったせいで花びらがほどんど落ちて、道が滑りやすくなっていたから」
「カメラやらいろいろ、しっかり準備して行ったのに、当日カメラは忘れるし、道には迷うし、結局、着いても桜なんて殆んど散っていて」
「ああ、上手くいかないことばかり続いたね」
「でも狂い咲きの楓が綺麗で」
「ああ、季節外れに一つだけ真っ赤なのがあったね」
二人を取り巻く木は楓だろうか、茜色というには程遠い赤黒い葉が掌状に五裂している。二人が言葉を交わす度に木はゴゴゴっと唸りを上げ、葉がガサガサ音を立てた。
楓と認識できたのは葉の特徴と僅かな色味のみ。枝や幹は私の知る楓のものとは違い、上へと伸ばしたものではない。二人を囲うように、絡めるように、それが普通ではないとわかるほど、うねっている。赤黒い葉は不気味に光りを帯び禍々しさを放っている。
植物、木、と形容すべきか迷ってしまうほど何かの意思をもったような姿、どこか見たこともない獣のようにも感じる。
「あの子の手を、私がしっかり……私が……」
「止そう――あれは君のせいじゃない」
突然、暴風に曝されたように枝葉が騒ぎ出した。ザアザアと葉同士がぶつかり合い激しく揺れる。強い揺れに負けた葉がひとひら私の前に飛ばされてきた。
《――桜、残念でしたね》
葉に触れた途端、声がした。奥さんの消え入りそうな掠れた声。声のあとに知らない風景が浮かぶ。少し疲れた顔、若い男性、旦那さんにどこか似ている、なぜそんな悲しそうなのか、無理やりと、わかる笑顔。
《――あんな所に楓の木が……》
声のあと、瞬きのように一度閉じてから、また見知らぬ風景が浮かんだ。
――桜の並木道。殆んど散ってしまった花弁はあちらこちらで張り付いたり、渦になっていたり道には桜色に染まっている。その中に茜色が一つ。五裂の葉は空を仰いで地面で濡れていた。
《ごめんなさい……私が……ごめんなさい……》
風景が揺らぐ。涙。――だろうか、感情が溢れている。見ているだけの私にはその感情が何なのかわからない。苦しいのか、悲しいのか、悔しいのか、怒りなのか。ただ、『私が』そんな言葉が感情を受け止められなくしているのはわかった。この〝木〟は記憶、なのかもしれない。
奥さんに何があったのだろうか、旦那さんはなぜあんな顔をしていたのか、単純な好奇心から二人に近付いて次の葉に手を伸ばしていた。
《――――危ないからおてて! おててちょうだい!》
《――――やだ! ひとりであるくの!》
奥さんの声? だろうか、若い女性の声、反抗する小さな男の子、夕暮れ、膨らんだ買い物袋、前を先導するように歩く男の子、伸ばした右手、あと少し、あと少し伸ばせば。
グウォォォォン!!!
一瞬だった。音がした瞬間、突然目の前に車が現れた。
ガッシャァァァァァァン!!!!!!
けたたましい金属音。――視界が倒れた。起き上がれない。一変した景色の中、数メートル先の地面に投げ出された小さな掌は空を仰いだまま動かない。
《――い、や――、嫌、だれか――――》
体を引きずり、その手に近付こうとしたが意識が途切れてしまう。




