二十二話
荷物を置いて喫茶店へ向かおう。
着替えようかとも思ったけど、似合わないと思っていた服はなんだか見慣れてしまっていた。
「このままでいっか」
本当、人の認識なんて曖昧だ。似合わないと思っていた服でも一度慣れてしまえばこんなものかとも思ってくる。存外悪くもないとも思ってくる。
財布とスマホだけバックに入れて家を出た。黒のショートブーツ。今の服には重いかと思ったけど髪の色と相性がいい。
通りは無秩序に木々が生えていないだけでとても歩きやすい。整備され、整った並木には、あの世界の生い茂った植物の影はどこにもない。
あの世界を見て以来、私はどちらが本当なのかわからなくなることがある。あの植物たちが何なのかはわからないけど、見えない、触れられない、でも、おそらく今もある。きっとある。そんな気がする。
見えないから知らない。触れられないから無い。ではない。あの植物以外にもそんなものはいくらでもある。例えば心や感情、人の気持ちなんてまさにそのものだと思った。表出するものなんて極一部、多くが他人には認識できないもの、持ち主である本人ですら自覚ができないことも少なくない、それを無いと言う者はいないだろう。
言葉、これもそうなのかも知れない。
下校時間のようだ、小学校の周りは子供たちで溢れ、お迎えのお母さんたちの井戸端と子供の声が喧騒になっていた。
この様子ならもしかしたら喫茶店は混んでいるかもしれない。
小学校を過ぎ、住宅地の路地へ。少し入り組んだ道を通った先に喫茶店はある。蔵造りで黒塗りの外観、昨夜は闇に溶け入っていたが、今はその外観が周囲から店を際立たせている。
すると、喫茶店の中から四人組の女性と店の旦那さんが出てきてドア先で談笑していた。
「息子の迎え行かなきゃ」
「アタシも買い物行かなきゃ」
「一日なんてあっと言う間よ」
「マスター、奥さんによろしくね」
「ありがとうございます。またお越しください」
まさに台風一過。騒々しさが過ぎたあと、旦那さんは私を見つけて挨拶をしてくれた。
「パワフルな方たちですね」
「ええ、常連さんたちで、この時間帯はよく来て頂いているんですよ」
常連? このお店は最近オープンしたものと勝手に思い込んでしまっていた。その理由である奥さんの『最近越してきた』というのは認知症の影響による誤認だったんだろうか。
「この間はごちそう様でした。あの味が忘れられなくて、また来ちゃいました」
「いえいえ。そうですか、さあ、どうぞ中へ」
相変わらず暖色の灯りが心地いい。邪魔にならない静かなジャズ。この空間は時間を緩やかにしてくれる。さっきの常連さんが最後だったのか店内は私の貸切状態。少し得をした気分。
「オリジナルブレンドとチーズケーキをお願いします!」
違うものを試したいと思いつつも、一度嵌ってしまうと同じものを注文してしまう。いつものこと。
「かしこまりました。少々お待ちください」
普段、お店なんかに行ったとき、カウンター席は緊張するから苦手で避けていたのだけれど、このお店の、ここの席はあまり緊張しない。それどころか珈琲を抽出する動作や砂時計の砂を見ているのがとても落ち着く。
「奥さんのご様子はいかがですか?」
お店の空気に気が緩んで、口にしてからハッとした。まず昨日の様子から旦那さんは私が奥さんの認知症を知っているということを知らない。何より、自分の気になっていることを相手の感情など無視して一方的に音にした言葉。こんな不躾な質問はない。
「ええ、熱も引いたので、今朝退院して――あれ、妻のこと、どこかでお話しましたっけ?」
「いえっ、あのっ、……はい」
自身の軽率さに唇を噛んだ。
「おじさんにこんなこと言われて気持ち悪いでしょうが、昨日の夢にあなたが出てきたんですよ。僕は情けなくも取り乱していて、あなたに励まされたおかげで、立ち直るんです。僕がしっかりしなきゃいけないってね、夢の話です」
やっぱり夢だと思っている。
「夢でも何か力になれたならよかったです……」
なんだか間の抜けた返しになってしまう。でも昨夜のことをどう説明していいかわからない。
――ガタン!
店の奥で物音がした。旦那さんが「ちょっと、すみません」と言ってカウンターを離れ、奥へ行ってしまった。
しばらくして、旦那さんに補助されながら杖をついた奥さんが出てきた。
「今日は送ってくれてありがとうございます」
「え、あ、いえ……」
一昨日のことを混同しているのだろうか。
「あら、綺麗なお洋服。お花が咲いたみたい、とってもお似合いだわ」
思わぬ外見の指摘に恥ずかしくなって縮こまる。
「これ、よかったら食べてください」
「あっ、ありがとうございます」
注文していたチーズケーキは予想とは別の形で提供された。
望んでいたものだが、どのように対応していいのかわからない。困り気味に旦那さんを見遣ると、申し訳なさそうに頭を下げられた。
認知症のことはよくわからない。でも、人はこんなにも急に変わってしまうものなのか。奥さんは声こそはっきりしているが顔はどこか朧げのように見える。何より、介助や杖を必要とするほど足は悪くなかったはずだ。
「この人は私がいないと何もできないのよ。ふふふ」
「そうだね――僕は君がいてくれないとどうにもダメみたいだ」
少々会話が噛み合わなくても、昨日のことは覚えていなくても、奥さんは旦那さんのことを覚えている。素敵なことだと思う。
「ああ、すみません、お待たせしましたね。オリジナルブレンドです」
きた! きた! お目当ての珈琲!
「頂きます」
――ん? 酸っぱい? なんだろう。前とは味が違う。
私の思い込みを変えてくれた珈琲の味ではない。苦手なありふれた珈琲。さすがにどこかのチェーン店よりおいしいとはわかるのだけれど、苦手な味。
旦那さんが少しの間離れたせいか、とても丁寧とは言えない味と思った。
仕方ないのかも知れない。奥さんの介助をしながら喫茶店の仕事をするのは大変だと思う。相当な疲れもあるはず。
「お体、無理していませんか?」
「お気遣いありがとうございます。でも僕は以前よりもなんだか調子がいいんですよ」
確かに旦那さんは以前よりも少し明るくなったような印象。空元気や自身を無理やりに奮起させているだけにも見えたが、その言葉に陰りは一切ない。
「チーズケーキのお味はいかがですか?」
店の奥から車椅子に座った奥さんが顔を出してくれた。
「とってもおいしいです」
「お口に合ってよかった! 喫茶店を開くって決めたときね、この人と珈琲に合わせるメニューを必死に考えたんですよ。この人の珈琲はおいしい。でも、ただ甘いお菓子じゃダメだと思ったの」
私は意味がわからなかった。旦那さんの珈琲ならどんなお菓子でも合うんじゃないかと、どれもきっとおいしいし、合うと思った。
想像によだれが溜まってしまう。
「お菓子と珈琲ってどんなときに食べて、飲むかしら? 甘さでいっぱいになったお口直し? 苦みを和らげる添え物? 私はどちらかが口直しや添え物であってはほしくないと思ったのよ。珈琲とお菓子、どちらかの添え物ではなく〝珈琲〟と〝お菓子〟として味を楽しんでもらいたいと思ったの。せっかくお店をやるんだからこれくらいの拘りいいでしょう? ふふっ」
確かに珈琲とチーズケーキ、もちろん合わせてもおいしいがそれ自体の満足度が確かにあった。
奥さんのはっきりした言葉に朧さはどこにもない。
添えものではなく〝珈琲〟と〝菓子〟か……。
今日の珈琲はちょっと苦手な味だけど、旦那さんの珈琲はそれだけで気持ちをホッとさせてくれる。チーズケーキも甘さの中にあるレモンの爽やかな風味が余韻を感じていたいと思わさせた。




