二十一話
遠回りで帰ろう。あまり使わない道を歩こう。知らない路地に入ってみよう。
駅から逆方向へと舵をきる。疲れはない、まだ気持ちがふわふわしている。
もう一つの行きたい所、それは喫茶店の奥さんの入院している病院。私もついこの間お世話になった、駅からは少し距離のある総合病院。
知識に乏しい私の未熟、偏見だけど認知症という言葉に正直、気が引けてしまう。覚えて貰えているだろうか……なんて、今すぐどうにかなるものでもないとわかっていても、自身の存在に消極的な私は不安になってしまう。
直接お見舞いに行って『どなた?』などと言われるのではないかと思うと怖い。だから、今の見えないを理由に足を向かわせる。
病室の場所だけでも確認して、あとでちゃんとお見舞いに来よう。
院内の一階、受付前はお年寄りの集まりになっていた。
顔なじみ同士が談笑していて、病院というより集会所。
あちこちの話声が勝手に耳に入ってきた。
「――さんの娘さん、離婚するんですって」
「まだお子さん小さいのに――」
「――とこのおじいさん、また自転車で――」
「――さんがこの間――」
どれも、自分でも、目の前にいる相手でもない誰かの話だった。
どこにでもある噂の話。
ここに表のような木々は少なく、代わりに、尖った葉を付けた蔓や蔦のような植物が辺り一面に幾重にも絡み付いていた。外は兎も角、室内まで植物に侵食されているといよいよ気味が悪い。まさに日常ではありえない光景だ。さらにここは病院。私のたくましい妄想は植物に侵食され廃病院さながらの夜の院内を勝手に想像してしまう。想像力に圧し潰されそうだ。固まってしまいそうな体を何とか別の思考で和らげる。
入院病棟は三階か。……。
迷わずエレベーター前に来てしまったけど、当然押せはしない。
乗れない。――誰かに乗せてもらうしかないと気付く。
幸いエレベーターの利用は頻繁のようで、二機とも同時に一階に着いた。片方からはパジャマ姿の小さな女の子に手を引かれたお母さんが、もう片方からはカートを押した看護婦さんが降りて来た。看護婦さんの乗っていたエレベーターは少し広い。機材やら車椅子の人を想定した作りなのだろう。今の自分を忘れて邪魔にならないよう小さい方のエレベーターに迷わず入った。しばらくして五階のランプが点く。降りたい階などお構いなしに上階に上げられる。乗ってきたのはおじいさんとおばあさん。押した階は地下一階。
これから私はしばらくの間エレベーターに囚われることになる。どうやら五階はラウンジになっていて、丁度帰るタイミングが重なったらしい。五階と一階または駐車場のある地下一階を何度も往復させられた。
この病院に神などいない。
もうここに住もうかな。
三階に用のある人なんていないんだ。
四角い箱の隅っこで膝を抱えていたら気弱になっていく。
諦めがエレベーターの住人を生み出そうとしていた。
何度目の往復だろう。一階で数秒止まっていたらパジャマ姿の女の子がお母さんの手を引いて戻ってきた。
「危ないからねぇー、気を付けてねぇー」
「うん!」
手に小さなビニールの袋を持ち上機嫌な女の子。売店に行ってきたのだろうか。
「あ、だめ! まいがおすの!」
「はい、はい、何階かわかるかなぁ?」
「さんかーい」
「せいかーい」
――救世主が現れた。
この箱からようやく解放される。
やっと目的の三階に着くことができた。エレベーターホールの前はナースステーションになっていた。
「どこに行って来たのー?」
上機嫌な女の子にナースステーションから看護婦さんが声をかける。
「おかいものぉ……」
お母さんをリードしていた女の子はすぐ後ろに隠れてしまった。人見知りさんだったみたい。
「ありがとね。ばいばい」
私は小さな救世主に手を振った。
入院病棟はそこまで広くないので一つ一つの部屋をみて確認することにした。
「名前くらい聞いとけばよかったな……」
部屋を確認するにしてもほとんどがカーテンで閉め切られている。そこを覗くのは気が引けた。
「今朝退院された患者さん――」
「こないだ検査で入院してた患者さんですか?」
「そーそー、意識はすごくしっかりしてるのに、認知症の疑いですって」
看護婦さん同士のひそひそ話が耳に留まった。
「まだ、そんな年には見えませんでしたけど」
「そうね。でも、女は見た目じゃわかんないから――それにしても付き添われてた旦那さんが紳士って感じで素敵だったのよ」
「珈琲のいい香りがしてたって、先輩言ってましたもんね」
「そーなの。いい男って勝手に珈琲の匂いとかしてくるのかしら」
「わからないですけど」
「そ、れ、に、先生が先々の話として介護施設やケア施設の検討もって話をしたとき――『妻は僕が面倒看ますので』って言ったらしいわよ」
「なかなか言えるセリフじゃないですね」
「あー私もあんな紳士に面倒見てもらいたいわー」
「そんな人任せな幸せなんていいですから先輩はもう少し私の面倒を見てください」
「あんたも言うようになってきたわね――」
「はい、回診行きますよ!」
会話の内容から旦那さんと奥さんのことだろうと予想できた。
今朝退院……。
思い詰めたように呟いた旦那さんの『僕が守らなければいけない!』という言葉が蘇る。〝決意〟と言うよりも〝義務〟に責め立てられた言葉に聞こえた。
私の言葉がそうさせてしまったのだろうか。支えに伸ばしたはずの手が、誰かを突き落したのかもしれない。
なんだろ――言葉が心に絡まる。
私の言葉も、旦那さんの言葉も、なんだか不安になる。
奥さんを想った素敵な言葉だった。なんでもない――それなのに、どこか、どろりと、重く感じてしまう。奥さんへの思い、だけではない。旦那さんが抱いているであろう重い。
「帰ろ」
帰ってから、あらためて喫茶店を尋ねよう。チーズケーキを言い訳に足を運ぼう。世間話をきっかけに話を聞いてみよう。
思考を無理やり切り替えることにした。
帰りは階段で降りることにした。エレベーターは危険だ。
階段という当然のもう一つの選択肢、それが来たときには思い浮かばなかった。習慣だろうか、大きな建物ではその便利を当たり前に利用してきたから、慣れた行動を取ってしまった。そこにはほとんど
思考など存在しない。
〝当たり前〟に慣れた行動を当てはめただけ、それほど習慣や慣れは人の行動や判断に影響を与える。
早々に病院をあとにした。元々病院は苦手だけど、蔓や蔦の絡み付いた光景は普段感じる圧迫感ではなく、底気味の悪さを感じた。明確ではない、けど、何かに絡められる感覚。
「ただいま……」
無事に家に戻っては来れたものの、問題がもう一つ。
さて、どうやって戻ろうか。
偶然成功した前例にかまけて、戻り方については全く考えていなかった。確か、昨日は面接をすっぽかす訳にはいかない。そう思ったら戻れたような……。
「面接、面接、面接……」
必死に面接のことを考えてみた。……が、胃の辺りキリキリ痛むばかりで戻れそうにない。
「あとは何かあったかな」
予定……面接……迷惑……。
ああ、そうだ。迷惑をかけてはいけない、って、そう思ったんだ。
そんなのどうやって……。
――――ピンポーン
玄関の呼び鈴が鳴った。
「誰だろ、新聞の勧誘かな?」
――――ピンポーン
「宅配便でーす」
その言葉で一気に心当たりを突き止める。実家から荷物を送ると言われていたことを思い出した。バタバタしてたせいですっかり忘れてしまっていた。
「ど、ど、どうしょう!」
心当たりのある荷物。宅配の人には何度か再配送の手間を掛けさせたことがある。中には自分勝手な居留守もあった。そういう迷惑かけたくない。ああ、早くしないと行ってしまう。どうにかしなきゃ。
あたふた焦る気持ちと体を連動させていたら、急に〝私〟に戻された。
よかった! 戻れた!
「す、すみませーーん! 今開けまーーす!」
いろんな角や物に躓きながら玄関の扉を開けることができた。宅配のお兄さんは帰ってしまうところで、私の扉を開ける音に気付くと「おっ、よっかったぁ」と、笑顔で引き返して来てくれた。
「こちらにサインかハンコ、お願いします!」
「出るのが遅くなってすみません」
「いえいえ、大丈夫ですよ」
いつ頃からだろうか、「宅配便です」と言ってくれるようになったのは。
一人暮らしは意外にも訪問が多い。いろいろな心当たりのない訪問。
心当たりのない呼び鈴の音が怖かったときもある。だから、「宅配便です」その言葉だけでも少し安心する。
「ありがとうございます! それでは!」
「ありがとうございます。お気をつけてください」
ご苦労様です、と言いかけて、止めた。誰かが『目上の人には失礼だ。』なんて言っていたのを思い出して控えてしまった。でも、相手を思い遣って出た言葉に失礼なんてあるのだろうか。
決まりきった言葉、まかり通っている決まり事、ルール、それらをただ間違わずに当て嵌める。そんなものに言葉の意味は存在するのだろうか。
〝ご苦労様です〟ああ、これも決まりきった言葉の一つか……。




