二十話
クローゼットの奥から淡い桜色を取り出す。マキシ丈のプリーツがかったスカート。買ってから一度も履けていないスカート。
「上はブラウスでいいかな……」
レースが可愛い白のオープンショルダーを合わせる。これも一度も着ていない。着れなかった。
「髪が重いな……」
黒髪が浮いたように重い。縛った髪をほどいて少し水でぐしゃぐしゃにした。くせっ毛はすぐにハネかえる。さっきよりはマシになる。
鏡に映しても自信を得ることはできない。何も似合わない自分が映るだけ。でも気持ちはなんだか浮ついている。
「靴は……いっか」
裸足でも痛くはなかった、何より気持ちがいい。
鏡に映る自分は相変わらず、浮いているように見える。気のせいなのかもしれないし、そうなのかもしれない。ずっとそんな鏡。普段はこのままでは出掛けない。けど、今日は――違う。
「よし、大丈夫!」
あのときのように、鏡に手を。
…………。鏡はただ手のひらの熱を奪うばかりで何も変わらない。
ダメ、かな。
――『人はなぜ鏡に姿を映すのでしょう』――
なんて答えたんだっけ?
――『できるのは鏡に映った姿を覗き込むくらい』――
誰が言ったんだっけ?
記憶にないはずの声が聞こえた。誰かの質問、誰かの言葉。そんなうろ覚えだらけが頭に浮かんでくる。浮かんだ言葉のまま。
もう一度〝私〟を覗き込んだ。
――冷たっ!
何かが全身を駆け巡る。気付くと、私はまた〝私〟から離れていた。
「で、できた。……どうして……」
視線がそれまで部屋にはなかった方位磁石を捉える。
「今日はいらない、な」
方位磁石、何故だか私の行きたい場所を示してくれる相棒。こいつはお留守番。今はどこかへ行きたい訳じゃない。何も持たなくていい。
「行ってきます!」
〝私〟に告げた言葉は前より弾んだ。
扉を当たり前にすり抜け、私を知らない世界へ飛び出す。
――空気が濃い。そんな気がする。体が軽い、そんな気がする。
そんな気分まかせの感情が新鮮。
辺りに当たり前に無秩序に生い茂るいつもの日常に無かった木々や草花。視覚からの錯覚なのか森の中にでもいるようなむせ返る空気を感じる。
この〝いつも〟にはなかった木々や草花は植物なのだろうか。光合成など、しているのだろうか。そんなことを考えてしまうほどにはもう慣れていた光景。
日常ではない状態。異質のない異常。
昼間だからか、前に見た景色とはどこか印象が違う。恐怖や不安は感じない。
いつもの街が木々の青々とした緑に包まれて、草花が彩花を添えている。
少し霞みがかった空は陽光をぼんやりと輝かせている。
モノクロにさえ感じていた世界が色づいて見える。
いつ以来だろう、ちゃんと春を見たのは。春はこんな色だったんだ。
ずっと忘れていた。知っていたはずの色。
靴を履いてないせいか、なんだか足が軽い。気持ちが軽い。歩幅がだんだんと、大きく。一歩一歩がタンタン、弾んでしまう。
通りに出て回ってみよう。人通りは少なくない。でも、何も気にする必要もない。
歩調が弾む。
下手なスキップ擬き。
――たん、たん、たん――たんたん、た――ん、たたん、たん、たん、たん。
気分に任せたステップで人通りを縫い、大きく回転してみた。
はらはらはらっと、お気に入りのプリーツがきれいに波打つ。
私は桜色。春の気分。
どこへ行こうかな。どこへでも行ける気分。
気付いたら足は駅へ向かっていた。無意識は慣れた道を選んだみたい。
いや、違う。アスファルトと靴の日常。私の日常だったもの。それがどんな景色に見えるか、見てみたいと思ったんだ。
木々の根で隆起する道にも慣れ、苔で滑ることも少なくなった。が、人の多い場所に行くにつれ木々も多くなっていく、ような。小学校の近くを通ったときと同じだ、明らかに緑が集中している場所がある。
「この木たちは一体なんなんだろ……」
見た目は植物だが現実には目視できない異常な存在。通常、人の多い場所、栄えている場所などは利便性の都合から木々や緑地は整備されて少ない。それがこの木々たちは人の多さなどお構いなしで、無
秩序に茂り、群生している。
駅が目に入る前に大樹が姿を現した。遠くからも認識できたが近付いて初めてその迫力に気圧される。周辺の空を埋めているオフィスビルや商業施設などの背の高い建物よりも大きい木もある。
「こんなのが駅前にあったら、普通大騒ぎになるよね……」
アスファルトと靴。そんな日常はどこにもないような、そこにあるものを捉えようと、気付けば上を向いていた。私の知らなかった日常がそこにはあった。
緑に埋まった都市。
「こんな景色も悪くない」




