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十八話

 穴に落ちるように。どこかへ落ちるように。剥がれていく。落ちていく。


 ダメだ。そう思った。気付いたときには旦那さんの腕を掴んでいた。掴むことができていた。


「起きてください!!!」


「うっ、ううう……」


「聞こえますか!!!」


「あ、ああ……キミは……」


 声が届いた。


「すみません、勝手に入ってしまって」


「僕はいったい……わっ、なんだこれは!」


 旦那さんはテーブルに伏した自身の姿を見ながら事態を飲み込めずにいる様子。私自身も説明できる言葉を持っていない。とりあえず、自分がここにいる経緯だけでも話そうと「落ち着いてください」と言ってから私の話へ誘導した。


「商店街で旦那さんを見かけて……気になって来てしまいました。随分と気を落とされている様子だったので……」


「そうですか……それは、お恥ずかしい所お見せしたようですね……」


 聞きたいことは沢山ある。けど、依然、状況を飲み込めていない旦那さんに続けざまに問いを投げることはできない。


 少しだけ沈黙を待ってから言葉を向けた。


「あの、どうなさったのですか?」


「妻が……体調を崩しまして。熱が下がらないので数日入院することになったんですよ」


「あの、検査の結果……よくなかったんですか?」


 立ち入ったことだろうけど、それでも。


「入院の件とは別で、はっきりしたこともまだわかってないのですが……認知症の可能性がある、と。……以前からそうではないかと疑っていて、ある程度は覚悟をしていたんですけどね……」


 予兆はあったのだろう。それでもわかってしまいたくないもの。認めてしまいたくないもの。自分の中の不安を否定してほしかったのだろう。


「彼女、自分のことより、僕の心配をするんですよ……。たかが数日の入院くらいなのに『私がいなかったら大変でしょう?』なんて、同じことを何度も」


あの奥さんらしい……優しい言葉。


「僕は妻がいなければ……僕は……僕は……」


 旦那さんの背中が震えている。支えた手の置き場がわからない。私では支えられない。余程辛いのだろう。直接的な死を伴う病ではなくとも、認知症とは、記憶、認識の〝死〟と言ってもいい。誰かから思われる、だから自分は存在している。他人による認知こそに自分がある。そんな言葉を言った旦那さんにはとても辛い現実。それが最も身近で自身を思ってくれる奥さんなら尚のこと。


「しっかりしてください! 奥さんもつら……いや、奥さんは、もっと不安なはずです! そんなとき旦那さんが隣にいてくれないのはもっと、もっと不安なはずです!」


 部外者。他人。そんな私の言葉など届かないかもしれない。何かを言う資格もないはずだ。でも、崩れそうな背中を支えたい。届かなくても、手を伸ばしたい、伸ばそうとしていたい、そう思った。


 気付くと旦那さんの震えは止まっていた。


「そうだ、僕が……僕がしっかり……僕が、しっかりしなくなくちゃいけない」


 私に向けた言葉じゃない。自分の中へ、心の奥へ向かう言葉。決意、なのかもしれない。


「僕が守らなければいけない!」


 立ち上がった旦那さんが〝旦那さん〟に引き寄せられていく。帰る場所を得たように。


「戻ってくれた……」


 旦那さんが剥がれたとき、私はとても嫌な感覚に陥った。ダメだ、ダメだ、と。その状態になってしまうことがよくないと思った。でも、私は、……。私自身の状況にはあまり何も感じていない。そんな矛盾が少しだけ気持ち悪く感じた。


 雲が晴れたのか、隠れていた月が店内を淡く照らし出す。一瞬、戻る旦那さんに何か、巻き付いてるようなものが見えた気がした。


「んっ、んん、いたたた、……僕は一体……なんでこんな所で……」


 旦那さんが目を覚ました。混乱しているのか今までのことを覚えていない様子。


「大丈夫ですか?」


 私の声はもう届かない。旦那さんは事もなく部屋の電気を付け、次の日の準備らしい作業を始めていた。


 何事もないならこれでいい。私も帰ろう。


 そろそろ自分の心配もしなければならない。部屋の鍵もしてきてはいない。

 この方位磁石は優秀なようで、帰りは来た道の逆を指してくれていた。こんなの、と言った先の失言を取り消さなければならない。――ごめんね。


 気持ちが通じたのか方位磁石は機嫌よく一回りして見せた。


「やっぱり不安」


 頼りない気分屋の相棒に悪態をつく。


 帰りは迷うことなくすぐアパートに辿り付けた。鍵の開いている扉をすり抜け、「ただいま」と〝私〟に告げる。


「私はどうしたら戻れるの?」


 テーブルには散らかった書類、履歴書……開いたままのノートパソコン……送り状……アイロン台に放りっぱなしのシワになったスーツ……カレンダーの書き込み……。


 えっと、明日の予定は、と――面接。


 面接!?!?


「忘れてた! すっぽかす訳にはいかないなぁー 明日必着のエントリーシートもまだできてないし……んん……」


 焦りと混乱でそわそわ足踏みをしていると一昨日の出来事が甦ってきた。自身が原因で招いた迷惑。


――駅での貧血――面接のすっぽかし――病院――。あと、何か、誰か――


 記憶の最後がもやもやした。


 迷惑はかけられない。


 戻らなきゃ。


――途端、急な眠気に襲われる。――起きていられない。

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