十七話
外は夕日が沈み、空の半分が夜に染まり始めている。
いつもの景色。
しかし、違和感が拭えない。靴を履いていないからか、意識だけになってしまったからか、単に心持ちの問題だろうか。
――違う。確かに、違う。
いつもの風景が確実に何か違う。
……この辺って、こんなに草木が生えていたっけ? こんなに緑が……。
駅からは少し離れた閑静な場所。元々、並木や多少の緑地はあったのだけれど、記憶を思い返してもここにこんな木々や植物のようなものは無かった。
ここにも、あそこにも。
日常を覆うように生い茂る草木がなんだか怖い。知っている姿をしているのにどこか得体の知れないものに見える。
人通りはそれなりにある。しかし、木々や植物を気にする人はどこにもいない。靴を履いていない私を不審がる人もいない。いないというよりも、認識すらされていないのだ。
いつもの風景が違うものに見える。
西側の空は焼けるような緋色を輝かせ、東の空からは夜が落ちてくる。
私は夜に向かい歩き出す。
私の知らない世界。――私を知らない世界。
「急ごう。暗くなる」
私の知らない日常は不安を掻き立てる。怖い。本当に何もない透明になったのだろうか。声を少し出してみた。「あ、――」振えたひと文字。それでも出すことで自分を確認した。小さく、それでもちゃんと声を出した。
「大丈夫、――私はここだ」
小学校に近付くにつれ木々が多くなってきたように感じる。喫茶店のある小学校の裏手は古い街並みと新しい住宅地とが混在していて路地が複雑。夜の薄暗さと木々のせいで森にでも迷い込んでしまったとすら錯覚させられる。
「この道、さっきも通った、かな?」
迷ってはない、はず。いくら複雑といっても知らない街ではない。でも、路地を一つ間違えたのかもしれない。そもそも、こんな同じような木々が生えているからいけない。ここは街であって森ではないのだ。
思わずその中の一つに八つ当たりで蹴りをいれた。
グッ――つま先に確かな感触。――痛い。
「私、靴履いてないんだった」
あれ、……でも、触れる。いまさらながら自分がものに触れられないことを思い出した。もう一度蹴ってみる。――痛い。ちゃんと木に触れる。なんでだろう、不可解である。
自分の状態を少し理解しようと思った。私は今、幽霊みたいな存在、なはず。だから、スマホやコートなどの物には触れないし、アパートの扉をすり抜けることができた、人からも認識されていない。
じゃあわざわざ道を歩かずに直線距離を透過して進めばいいのではないか。
「そうだ。それがいい。わざわざ道を通らなくても――」
なんて便利なんだ。部屋の扉のように塀を通り抜けよう。
方向を変え塀に向かう。
――ゴツ――頭に鈍痛。――痛い。
どうやら、すり抜けるものと、そうでないものがあるらしい。
違いが全くわからない。生物と無機物の違いだろうか、でも、自分にも触れられなかったわけで、通りですれ違う人にもぶつかりはしなかった。なのに、謎の木には触れられる。部屋の扉はすり抜けたのに、石の塀にはぶつかる。と、石の塀をよく見ると藻や蔦のような植物が覆っていた。そこで普段もこうであったかは定かではないが、一つの憶測として日常になかったものにのみ触れられるのでは、と行き着く。
わからない。元からあったものとそうでないもの。謎の植物。今、私の目に映るのはいつもの世界よりも多くが生い茂っている。見えていなかったものが形をもったような。
それでも、比較の対照が不確か過ぎて結論を出すことはできそうにない。異常であっても、異質なものなど、どこにもないのだ。
よくわからないことの結論を急ぐのはやめよう。よくわからないことはしないことにしよう。――痛いだけだ。
「あっ、方位磁石」
ポケットから取り出した方位磁石は今もゆらゆらどこかを指している。文字盤もない、いつ指針が変わるかわからない方位磁石など不安でしかないが、無いよりはマシとおおよその方角の参考にする。
私は踏み出す前に、触れられる木の枝を一つ、目印に少しだけ折った。迷わないように、と。木は簡単に折ることができた。
それからは意外なほど早かった。方向と来た道すら間違えなければちゃんと前に進める。そうしているうち、見覚えのある道に出ることができた。奥さんと歩いた道だ。まだ店は見えてこないが方位磁石は喫茶店の辺りを指している。
「意外とできる子だったか」
方位磁石の功績に感心しながら、指でちょっとだけ撫でてみた。あとは残り僅かな距離を歩くのみ。
喫茶店に灯りはなく、真っ黒な外観が夜の闇に溶けていた。
「気になって、勢いだけできちゃったけど……」
今の私じゃどうしようもできない。とりあえず、姿だけでも確認して安心を得よう。
あの消え入りそうな背中に言葉が出なかったことがもどかしい。
所詮は他人。すれ違った程度の繋がり。それでも言葉を交わした。心もとない気持ちを晒した。何かがわかった気がした。
私も、理解されたい、共感されたい。そんな傷の舐め合いがしたいだけの打算的な感情なのかもしれない。でも、それでも、わかってしまった。理解できてしまった。
私だけじゃなかった……。そんなこと。それだけのこと。
留守だろうか? 外灯はおろか、部屋の灯りも確認できない。店の様子を窺おうと近付く。――ガタン。中から何かが倒れる音がした。
「どろぼう?」
一瞬、怖気づいたが今の自分は人に見えないことを思い出し、ゆっくりと店に近付く。確かめるように通れる場所を探しつつ中へ。
「何もできなくても泥棒の特徴くらいなら……」
相手に見えないという優位性がおそろしく自分を大胆にしている。見えないからと言って泥棒を暴こうという考えに至るなんて、自分じゃないみたいだ。
すんなり入口をすり抜けて店に入ることができた。音がしたのは一階のフロアだろうか。見えないと自覚しながらも無断で侵入している罪の意識が体を縮こまらせる。暗くてよく見えない。
通りを走る車のライトが窓越しに店内を照らしていく。すると、誰か倒れているのが見えた。
――旦那さんだ。
フロアのテーブルに突っ伏したままの旦那さんの姿。音の正体はきっと隣で倒れている椅子だろう。
「大丈夫ですか!!!」
駆け寄り、思わず叫んだが私の声なんて聞こえるはずもない。
「奥さん、奥さんは――」
奥さんを探そうとしたとき、旦那さんから何かが落ちた――。
「ダメッ!!!」
旦那さんから〝旦那さん〟が剥がれ落ちたのだ。
穴に落ちるように。どこかへ落ちるように。剥がれて、落ちていく。




