十六話
次の日、私は切らしていた市販の常備薬を求めに駅前の商店街に足を運んだ。
四月の半ばを過ぎても夕暮れ時は寒い。
上着を着てこなかったことを後悔しつつ、行きつけのドラックストアへ向かう。
胃薬と鎮痛剤、この二つが私の生命線。胃腸薬の効能と金額を見比べて、結局は常用の薬をカゴに入れた。あと、もしものときの風邪薬と考えたが、こいつはあまり役に立ったことがないと思い躊躇ってしまった。が、無いよりはマシと苦しみを思い出すことでカゴへ放った。
一人暮らしの病気ほど備えがなければ地獄なのだ。
後悔先に立たず、この教訓は後悔が教えてくれたこと。後悔から学ぶべきことは押しなべて多い。痛みや苦しみは繰り返したくないものだから嫌にも考えて学ぶのだ。
夕日はまだ街並みを燃やしていた。駅の方角から徐々に人が増え、駅前の商店街はあっという間に買い物客や帰宅を急ぐ人々で溢れた。
中に見知った顔を見つける。喫茶店の旦那さん。
昨日のお礼をと思い、声を掛けようとしたが俯き(うつむ)がちの背中にかける言葉が見つからないまま見送ってしまった。
どうしたんだろう……。
家に着いてからも旦那さんの姿が頭からなかなか離れない。
人混みの中、俯き、見えなくなった背中……。
――『自分が何者か、よくわからなく』――
――『透明になってしまうような』――
あの姿が、そんな言葉を思い起こさせる。
理解できてしまう弱さ。自分行き場の無さ、置き場の無さ。
なんだか落ち着かない気持ちから不安に支配されそうになってくる。
ふと、夕日が部屋の中で何かを跳ね返した。光源を探すと姿見が何かを光らせているようだ。それが夕日を弾いている。
光ったのはアイロン台の下の辺り。脱ぎっぱなしのスーツを拾い上げ、辺りを探ったが何もない。
でも確かに何かある。鏡は依然として間接的な夕日を反射している。
見当たらない。鏡がおかしいのかと、覗き込み、確かめようと鏡に触れた瞬間――水のような冷たさが指先から全身に走った。
「冷たっ!」
思わず後ろに飛び退き、その勢いで何かを蹴飛ばした。
これって、……方位磁石? なんでこんなものが私の部屋に……。
そこにあったのは簡素で飾り気のない方位磁石。壊れているのか指針が落ち着かずゆらゆらと定まっていない。
なぜ、こんなものが私の部屋に、という疑問は残ったがようやく反射の原因を見つけられたことに満足する。方位磁石から意識を逸らした――途端、異変に気付く。
――――〝私〟がいる。
鏡ではない。
そこには〝私〟が倒れているのだ。
なんで!?!?
思わず鏡で自身を確認。
――――いない。
鏡に私は映らない。しかし、私は確かにここにいる。
意識だけ離れてしまった?
「――ゆうれい? に、なっちゃった?」
驚くべき状況の中、妙な既視感が冷静さを辛うじて保たせている。
スマホ、スマホ。誰かに連絡しなきゃ。
頭の悪い考えだと自覚しつつも咄嗟に探してしまうほど頼もしい。
目当てのものはすぐ見つけることができた。――が、触れられない。勿論画面も反応なし。
スマホはおろか、倒れている〝私〟にすら触れられない。ダメもとで重なってみるが、双子のお笑い芸人を思い出してすぐやめた。
やっぱりダメか……。何にも触れない……。でもさっき……。
そうだ、方位磁石。方位磁石には触ることができた。
転がっていた方位磁石は容易に拾うことができたが相変わらず指針が定まらずゆらゆらするばかり。
「幽霊……」
実体のない存在。
――『透明に』――
また、あの言葉が過ぎった。
「透明になっちゃったのかな……私」
こんな状況でも、なぜだか自分のことより人のことが気になっていた。
消え入りそうな小さな影。
旦那さん、何かあったのだろうか――。
すると、方位磁石が息を吹き返したように回り、南西の辺りを指し示した。
「やっぱり壊れてる。北じゃないし」
あっちは小学校の方……喫茶店の……そうだ、喫茶店に行ってみよう。
旦那さんのことも気になる。何より、何もできないなら、ただこうしていても仕方ない。
棒やコインに未来を託すのと変わらないか。と、なんとなくで行先を方位磁石に決めさせた。
〝私〟はどうやら息はある。とりあえずは無事? なんだと思う。
待っていて、すぐに帰ってくるから。
「行ってきます」
そう〝私〟に告げた。
そういえば、外は少し寒かった、コートを……触れられない。靴を履こうと玄関に向かうが案の定履けない。部屋の鍵も気になりつつ外へ。扉は役割を果たさずにすり抜けた。
方位磁石は依然として南西、つまりは喫茶店のある方角を指している。
目的は決まった。当てにならない行先決めに使った指針を「こんなのでも無いよりはマシか」と、ポケットに押し込めた。




