第8話 泥だらけの週末
容赦のない初夏の日差しが、河川敷のグラウンドを白く乾かしていた。雲ひとつない青空の下、遠くのバイパスを走る大型トラックの排気音が、くぐもった重低音となって響いている。風が吹き抜けるたびに、河川敷を覆う丈の長い草が波打つように揺れた。
「はい、武田さん。これ使ってください!」
目の前に突き出されたのは、持ち手が木製の、使い込まれた小さなシャベルだった。
慎太郎は、目の前で満面の笑みを浮かべる奈緒子と、その手にあるシャベルを交互に見比べた。
「……BBQをやると聞いていたんだが」
「もちろんやりますよ! でもその前に、メインイベントの芋掘り大会です。地域の農家さんが畑の端を解放してくれてるんです。ほら、湊くんもやる気満々ですよ。武田さんも、日光浴びて健康的に汗流しましょう!」
奈緒子の足元では、すでに赤いプラスチックのバケツを持った湊が「あー!」と声を上げながら足踏みをしている。その頭には、少し大きめの麦わら帽子がちょこんと乗せられていた。
慎太郎は短く息を吐き、無言でシャベルを受け取った。
周囲には十数組の親子連れが散らばり、土にまみれて歓声を上げている。ブルーシートの周りでは、父親たちが額に汗を浮かべながら炭火を起こし、母親たちはクーラーボックスから食材を取り出して手際よく準備を進めていた。
慎太郎はため息を一つ飲み込み、チノパンの裾を足首の少し上まで捲り上げて、湊の隣にしゃがみ込んだ。土を直接触るのなど、小学生の時の図画工作や理科の授業以来かもしれない。少なくともここ数年間は、指先に泥がつくことすら徹底的に避けて生きてきた。無菌室のような環境を好み、少しでも汚れたものは遠ざける。それが、大人の、社会人のあるべき姿だと思い込んでいた。
「しんちゃん!」
湊が小さな手で泥を掴み、慎太郎の膝にペチリと押し付けた。
ネイビーのチノパンに、くっきりと黒い手形がつく。一瞬だけ眉をひそめたが、湊の無防備で屈託のない笑顔を見ると、怒る気にもなれなかった。
「……わかった。掘ればいいんだろう」
慎太郎は諦めて、土にシャベルを入れた。
乾いた表面の土をシャベルで避けると、下からは少し湿った、冷たい感触の土が現れる。土の青臭い匂いと、草の根が切れる微かな音が鼻と耳をかすめる。這いつくばるようにして根元を探り、傷つけないように周りの土から少しずつ崩していく。
最初は服や靴が汚れないように気をつけていたが、やってみると意外と力のいる作業だった。硬い土の塊を指先で崩していくと、微かに湿り気を帯びた層に行き当たる。そこを慎重に掘り進め、土の中に隠れている赤紫色の塊を探り当てる。
「あ、武田さん惜しい! もう少し右です! そこ、大物がいそうな気がします!」
ジャージ姿の奈緒子が、別の子供の面倒を見ながら声を飛ばしてくる。彼女の額にも汗が光り、頬には泥が少し跳ねていたが、それがかえって彼女の健康的な魅力を引き立てていた。首に巻いたタオルで無造作に汗を拭う仕草すら、絵になっている。
慎太郎はシャベルを置き、両手で直接土を掘り始めた。
爪の間に黒い泥が入り込み、手のひらがざらつく。少し前までなら、除菌シートを探して即座に拭き取っていただろう。だが今は、それが不思議と不快ではなかった。土の冷たさが、体内に蓄積していた奇妙な熱をゆっくりと奪ってくれるような気がした。指先で土を掘り起こすたびに、不思議な充実感が胸の奥に広がっていく。
土を掘り、芋を見つけ、湊のバケツに入れる。ただそれだけの、極めて単純な反復作業。頭を使う必要はない。論理も効率も計算もいらない。ただ目の前の土と向き合い、指先に伝わる確かな手応えを感じるだけだ。
ふと手を止めて額の汗を手の甲で無造作に拭った時、自分がここ数日、頭の中でずっと反芻していた「東京での挫折」や「焦燥感」を、この1時間まったく思い出していなかったことに気づいた。
頭の芯が、心地よいほどに空っぽだった。
「取ったー!」
湊が、自分の顔と同じくらいの大きさの不格好なサツマイモを両手で掲げて叫んだ。途中で折れてしまっているが、立派なサイズだ。泥だらけの顔は誇らしげで、小さな口を大きく開けて笑っている。
「すごいな、お前」
慎太郎は思わず口角を上げ、泥だらけの手で湊の頭を撫でた。
昼前になり、ようやく芋掘りが一段落した。
河川敷の端にある水道で念入りに手と顔を洗い、泥を落とす。蛇口から勢いよく出る冷たい水が、火照った皮膚に心地よい。爪の間に入り込んだ泥までは完全には落ちなかったが、気にしても仕方がない。持参したタオルで顔を拭きながら振り返ると、土手の上から見覚えのあるシルエットがゆっくりと下りてくるのが見えた。
みどりだった。
いつもの油まみれの作業着ではなく、くすんだオリーブ色のロングスカートに、黒のノースリーブというラフな格好だ。上に薄手の白いカーディガンを羽織っている。
足取りは少し重そうだが、顔色は悪くない。熱はすっかり下がったようだ。風が彼女の薄いカーディガンを揺らし、そのたびに柔らかなシルエットが浮かび上がる。足元はいつもの安全靴ではなく、歩きやすそうな白いスニーカーだった。
「みどりちゃん、来た!」
奈緒子が大きく手を振り、湊が「まんま!」と一直線に駆け出していく。
みどりはしゃがみ込んで湊を受け止めると、その泥だらけの顔を見て目を丸くし、それから笑った。
「あんた、顔も服も泥んこじゃん。誰の子供かと思った。せっかく着替えさせたのに」
文句を言いながらも、湊をひょいと抱き上げたまま、みどりが慎太郎の方へ歩いてくる。湊はみどりのカーディガンが汚れるのも構わず、嬉しそうに彼女の肩に顔を擦り付けていた。
その視線が、慎太郎の膝についた泥の手形と、泥跳ねだらけのスニーカーに止まった。
「……しんちゃんも。何その格好」
「見ればわかるだろ。芋掘りだ」
慎太郎がぶっきらぼうに答えると、みどりは口元を手で覆い、肩を震わせて吹き出した。
「やば。東京のサラリーマンが、地元で泥んこになってるとかウケるんだけど」
「笑い事じゃない。そこの保育士が強制的に俺を巻き込んだんだ」
慎太郎は少し離れた場所でBBQの炭火を準備している奈緒子を指差したが、みどりはまだ笑いをこらえきれない様子だった。
「熱は、もういいのか」
慎太郎が尋ねると、みどりは小さく頷いた。
「うん。金曜と土曜、丸2日寝てたから。じいちゃんが、たまには湊の顔でも見てこいって」
「あ、武田さーん! みどりちゃーん!」
遠くから奈緒子が叫んだ。
「お肉焼けるまで、もう少しかかります! みどりちゃんも病み上がりなんだから、あそこの木陰でデートでもして休んでてください! 湊くんは私が他の子たちと一緒に見とくんで!」
奈緒子はそう言うと、有無を言わさず湊の手を引いてブルーシートの方へ連れて行ってしまった。湊も、同年代の子供たちとおもちゃで遊ぶ方が楽しいのか、「まんま、ばいばーい」と手を振りながらすんなりとついていく。
「はぁ!? ちょっと奈緒子ちゃん!」
みどりが声を上げたが、奈緒子は振り返らずに親指を立てて見せただけだった。
取り残された慎太郎とみどりは、顔を見合わせた。
「……行くか」
「うん。あの人、言い出したら聞かないから」
二人は河川敷の端、大きな桜の木が落とす濃い日陰へと歩いた。
少し古びた木製のベンチが1つだけ置かれている。
慎太郎が先に行き、持っていたタオルでベンチの座面の砂埃をサッと払った。みどりが小さく「サンキュ」と言って腰を下ろす。慎太郎も一つ分だけスペースを空けて座った。頭上の葉が擦れ合う音が、波のように寄せては返していく。
遠くから子供たちの声と、炭火で肉を焼く匂いが微かに風に乗って運ばれてくる。ここだけが、周囲の喧騒から切り離されたように静かだった。
「何か飲むか。冷たいもの」
「あ、うん。じゃあ、お茶」
慎太郎は立ち上がり、少し歩いたところにある自動販売機で冷たい缶の麦茶を2つ買ってきた。戻ってきて、1つをみどりに手渡す。
「……ありがと」
みどりはプルタブを開け、ごくりと一口飲んでから小さく息を吐いた。喉仏のない滑らかな喉が動く。
「なんか、変な感じ」
「何がだ」
「だって、いつも夜の居酒屋でしか会わないじゃん。こんな明るい昼間に、しかも外で並んで座ってるのって、なんか……」
みどりはそこで言葉を切り、缶の表面についた水滴を指でなぞった。水滴がツーッと線を引いて落ち、彼女の細い指先を濡らす。
「なんか、柄じゃないっていうかさ」
「そうだな」
慎太郎は自分の麦茶を一口飲み、正面の川面を見つめた。
「でも、悪くない」
みどりが少しだけ驚いたように顔を向けたのがわかった。だが、慎太郎は視線を合わせず、そのまま続けた。
「お前は、いつも一人で背負い込みすぎだ。湊のことも、工場のことも。たまにはこうして、何もせずに座ってる時間があってもいい」
「……別に、好きで背負い込んでるわけじゃないけどね」
みどりの声は少しだけ低く、拗ねたような響きを含んでいた。視線は膝の上に置かれた自分の手首に向けられ、指先がカーディガンの裾を所在なげにいじっている。どこにもぶつけられない苛立ちや不安を、そうやって必死に自分の中に閉じ込めているように見えた。
「わかってる。だから、こういう時くらいは休めと言ってるんだ」
慎太郎の言葉に、みどりはしばらく黙り込んだ。
木々の間を抜ける風が、彼女の赤みがかった髪を揺らす。シャンプーの甘い匂いが、微かに慎太郎の鼻をくすぐった。
「しんちゃんさ」
不意に、ぽつりとみどりが口を開いた。風が止み、周囲の音が少しだけ遠ざかったように感じられた。
「何だ」
「本当に、ただの休職なの?」
その問いには、無遠慮な詮索はなかった。ただ、純粋な気遣いだけが滲んでいた。
慎太郎は缶を握る手に少しだけ力を込めた。冷たいアルミの感触が、手のひらの泥のざらつきを際立たせる。
「……少し、糸が切れただけだ」
慎太郎は正面の川面を見据えたまま、静かに答えた。
「糸?」
「ああ。ずっと張り詰めていたものが、急に切れた。会社に行くことも、文字を読むこともできなくなった。それだけだ」
みどりはそれ以上、深くは聞いてこなかった。病名も、東京で何があったのかも。ただ「そっか」と短く返し、缶の麦茶をもう一口飲んだ。アルミ缶に爪が当たる微かな音が鳴る。
「よくわかんないけどさ。休めるんなら、気が済むまで休めばいいじゃん。別に誰に迷惑かけてるわけでもないんだし。あんた、真面目すぎんだよ」
「……お前は、逃げ出したいと思ったことはないのか」
慎太郎が問いかけると、みどりは少しだけ口角を上げた。
「私は、逃げる場所がなかっただけ。湊がいるし、じいちゃんの工場もあるし。逃げたら、全部終わっちゃうからさ」
そう言って笑う彼女の横顔から、慎太郎は黙って自分の足元へと視線を落とした。泥だらけになったスニーカー。つま先のキャンバス地には、しつこく泥がこびりついている。
「……俺が、逃げてきた場所だからか」
「え?」
「この町のことだ。お前にとっては逃げられない現実でも、今の俺にとっては、どうやらただの退屈な避難場所ってわけでもないらしい」
慎太郎は顔を上げ、青い空を見上げた。雲の輪郭が眩しいほど白く輝いている。
「さっき、泥だらけになって芋を掘っていた時、東京のことは一切頭になかった。ただ、目の前の土を掘るのが面白かった。……こんな感覚は、何年ぶりかわからない」
みどりは少し目を丸くして慎太郎を見つめ、それから、ふっと柔らかく笑った。
「そ。なら、少しはこっちの泥も役に立ってるってことだね」
「ああ」
「おーい! 二人とも、お肉焼けましたよー!」
遠くから、奈緒子の底抜けに明るい声が響いた。
みどりが「はいはい」と小さく呟いて立ち上がる。
「行こ。せっかくのタダ飯だし」
みどりが差し出した手を、慎太郎は見つめた。細く、至る所に小さな傷のある手。
慎太郎は自分の泥だらけの手をチノパンで軽く拭い、彼女の手を握ることはせず、ただ短く「ああ」と答えて自力で立ち上がった。
並んで歩き出す二人の間を、初夏の風が通り抜けていく。遠くでは、ブルーシートの上で湊が奈緒子に抱え上げられ、キャッキャと声を立てて笑っているのが見えた。肉の脂が炭火に落ちる香ばしい匂いが、風に乗って運ばれてくる。
慎太郎は小さく息を吸い込み、青い空の下へと足を踏み出した。




