第9話 みどりの強がり
午後4時半。西日がアスファルトの上に長い影を落とし始めた頃、慎太郎は実家を出て町外れの方へと歩いていた。生温かい初夏の風が、川の方向から湿った土の匂いを運んでくる。
河川敷でのBBQから数日が経っていた。爪の間に残っていた泥はすっかり落ちたが、あの時指先に感じた土の冷たさと、思考が完全に停止するような心地よい疲労感は、まだ微かに身体の奥に残っている。
日差しが傾き始めた時間帯なら、サングラスやキャップで顔を隠さなくても外を歩けるようになってきた。すれ違う近所の住人に軽く会釈を返す余裕すらある。
目的もなく歩くうちに、住宅街を抜けた先にある少し小高い丘の麓に出た。古びた石鳥居が立つ、地元の小さな神社だ。
運動不足の解消も兼ねて、苔むした長い石段をゆっくりと登る。木立に囲まれた境内は薄暗く、空気が一段冷たく感じられた。時折、風が吹き抜けるたびに、頭上の葉が擦れ合ってざわめく音がする。
手水舎を過ぎ、本殿の方へ向かおうとした時。
狛犬の横にしゃがみ込み、カメラを構えている人影が見えた。
グレーのパーカーに、黒髪のロングヘア。少し大きめのカメラを大事そうに両手で支え、ファインダーを覗き込んでいる。その横顔は、周囲の静けさに溶け込むように真剣だった。
「……木下さん」
慎太郎が少し距離を置いて声をかけると、彼女はビクッと肩を震わせ、慌てて振り返った。
木下篤子だった。
大きな瞳が瞬きを繰り返し、慎太郎の顔を認めた瞬間、警戒で強張っていた彼女の表情がふっと緩んだ。
「あ……武田さん。こんにちは」
少しだけ声が上ずっている。夜の河川敷で出会った時と同じように、彼女の足元はいつでも逃げ出せるように少し後ろに引かれていたが、カメラを胸に抱え込むような防御の姿勢はとっていなかった。
「こんにちは。また驚かせてしまったな。今日は星じゃないのか」
「あ……はい。夕方の、光の入り方が綺麗だったので。あの、ここの狛犬の背中に、少しだけ夕日が当たる時間があって」
篤子はそう言って、少しだけ恥ずかしそうに視線を落とした。
「見てもいいか」
慎太郎が尋ねると、篤子は小さく頷き、カメラの液晶モニターを慎太郎の方へ向けた。
画面には、風化して丸みを帯びた石の狛犬が映っていた。その苔むした背中のごく一部だけに、木漏れ日のような黄金色の光が落ちている。周囲の深い影と、その一筋の光のコントラストが、静謐な時間の流れを感じさせた。
「……いいな。静かだ」
慎太郎が素直な感想を漏らすと、篤子は口元を少しだけ綻ばせた。
「武田さんに、そう言ってもらえると……嬉しいです」
消え入りそうな声だった。彼女は大切そうにカメラを胸に抱き直し、もう一度、石の狛犬へと向き直った。
それから1時間ほど、慎太郎は境内で写真を撮る篤子に付き合った。
デートというような大層なものではない。篤子がレンズを向ける先を、少し離れた場所から一緒に眺めるだけだ。剥がれかけた朱塗りの柱、風に揺れるおみくじの紙、石畳の隙間に生える小さなシダ植物。
普段なら見過ごしてしまうような些細な景色が、彼女の足元で立ち止まると、途端に意味を持った美しいものに見えてくる。カシャッ、カシャッという静かなシャッター音が、境内に規則正しく響いていた。
「武田さんは、カメラとか、されないんですか」
ベンチで一息ついている時、篤子が横から控えめに尋ねてきた。
「しないな。俺には、そんな感性はない」
「そんなこと、ないと思います。武田さんは、ちゃんと写真を見てくれるから」
篤子は両手でカメラを包み込むように持ちながら、真っ直ぐに慎太郎を見た。その何の打算もない透明な視線に、慎太郎は思わず目を逸らしそうになった。自分の中にある後ろめたい何かを、彼女の瞳がすべて見透かしてしまいそうな気がしたからだ。
だが、篤子は何も聞いてこない。ただ、今ここで一緒に同じ景色を見ている「武田さん」として、彼を肯定してくれていた。
「……ありがとう。木下さんの写真のおかげで、少し落ち着くよ」
慎太郎の言葉に、篤子は顔を赤くして「いえ」と小さく首を振り、再びファインダーを覗き込んだ。
境内が完全に夕闇に包まれる前に、二人は石段を下りた。
駅の方へ向かう篤子と、実家へ戻る慎太郎。商店街の入り口近くで、足が止まる。
「あの、今日は……ありがとうございました。見ていただいて」
「こちらこそ。また、いい写真が撮れたら見せてくれ」
「はい。……あの、また」
篤子は名残惜しそうに何度か頭を下げ、それから小走りで去っていった。その小さな背中が見えなくなるまで見送り、慎太郎は実家の方角へと向き直った。
夕飯の買い出しを頼まれていたことを思い出し、バイパス沿いの大型スーパーへと足を向ける。自動ドアが開くと、冷房の効いた空気が汗ばんだ肌を冷やした。
夕方5時半のスーパーは、夕飯の買い物客でごった返していた。
カートのキャスターが床を擦る音と、特売を知らせる底抜けに明るい店内BGMが響いている。惣菜コーナーからは揚げ物の油の匂いが漂い、すれ違う人々のカゴには夕食の食材が山積みになっていた。慎太郎は頼まれていた豆腐とネギをカゴに入れ、レジの方へと向かった。
そこで、不意に立ち止まった。
少し先の袋詰めの台の脇で、くすんだ紺色の作業着を着た背中が見えた。
みどりだった。
足元には湊がいる。どうやら買い物を終えた後のようだが、様子がおかしかった。
「痛いじゃないの! いきなり飛び出してきて」
みどりの前に立つ、60代半ばほどの小綺麗な身なりの女性が、甲高い声を上げていた。女性の足元には、買い物カゴから落ちたと思われるパックの卵が転がり、中身が割れて床を汚している。
湊が、みどりの足に泣きそうな顔でしがみついていた。どうやら、走り回った湊が女性のカートか足にぶつかり、その拍子に女性が卵を落としてしまったらしい。
「すいません、本当にすいません……。怪我は、ありませんか」
みどりは何度も深く頭を下げていた。作業着の背中を丸め、女性の鋭い視線を真っ向から受け止めている。
「怪我はないけどね。卵、割れちゃったじゃない。今日特売で、わざわざ並んで買ったのに」
「弁償します。すぐ、新しいのを買ってきますから」
みどりが財布を取り出そうとすると、女性は大きなため息をつき、みどりの作業着と、足元の湊を舐め回すように見た。
「もういいわよ。……まったく。これだから若いお母さんは。そんな汚れた格好でスーパーに来て、子供から目も離して。父親が見てないから、こうやってしつけもできないのよ」
最後の一言は、明らかに意図的な悪意を持った独り言として放たれた。
周囲の客が、ヒソヒソと耳打ちをしながら遠巻きに事態を眺めている。
慎太郎の足が、無意識に動いていた。
高校生の頃の彼女なら、間違いなく相手を怒鳴りつけ、胸ぐらを掴みかかっていたはずだ。理不尽な言葉には決して屈しない、剥き出しの刃のような少女だった。
だが今、みどりは一切言い返さなかった。
唇を血が滲むほど強く噛み締め、ただ「すいませんでした」と、もう一度深く頭を下げただけだった。その肩が、微かに震えているのが見えた。波風を立てれば、息子である湊がどう見られるか。彼女は感情を殺し、ただ嵐が過ぎるのを待つように頭を下げ続けていた。
慎太郎は足音を消して歩み寄り、女性の足元に転がっていた割れた卵のパックを拾い上げた。
「俺が同じものを買ってきます。少々お待ちを」
低く、しかしよく通る声で告げる。
突然現れた長身の男に、女性はビクッと肩を震わせた。みどりも驚いたように顔を上げる。
「しん、ちゃん……」
慎太郎はみどりの顔を見ず、ただ女性に向き直った。
「お怪我がなくて何よりです。ぶつかったのはこちらの不注意ですが、先ほどの個人的な事情に関する発言は、少々見過ごせません。弁償はさせていただきますので、それでこの件は終わりにしていただけますか」
声を荒らげたわけではない。ただ、感情を完全に排した冷徹なトーンと、一切の隙がない視線だった。
女性は気圧されたように数歩後ずさりし、それから「……もういいわよ! 弁償なんて結構!」と吐き捨てるように言い、カートを押して逃げるように去っていった。
周囲の野次馬たちも、慎太郎の冷たい一瞥を受けて、そそくさと散っていく。
清掃員に事情を話し、床の汚れの処理を頼んだ後、慎太郎はみどりの元へ戻った。
「……怪我は」
「ない。湊も大丈夫」
みどりはうつむいたまま、短く答えた。その声は、ひどく掠れていた。
スーパーを出た後、二人は少し離れて並んで歩いていた。
完全に日が落ち、街灯の光がアスファルトを白く照らしている。時折、帰宅を急ぐ車がヘッドライトで二人の影を長く伸ばして通り過ぎていく。みどりは右手で湊の手を引き、左手で重そうなレジ袋を提げていた。袋の中からは、ネギの青い部分が少しだけ顔を出している。
「余計なことしなくてよかったのに」
しばらくの沈黙の後、みどりが前を向いたまま口を開いた。
「ああいうの、慣れてるから。私みたいなのが子供連れてると、ああやって何か言いたくなる奴はどこにでもいるし。いちいち突っかかってたら、キリないからさ」
平坦な声で言い放つ。だが、レジ袋を握る左手は、関節が白くなるほど力が込められていた。
「湊に『そういう目』が向くのが一番嫌なの。私が頭下げて済むなら、それでいいし」
「……」
慎太郎は何も答えなかった。ただ、彼女がレジ袋を握りしめる左手の関節が、痛々しいほど白く浮き出ているのを見つめていた。
慎太郎は無言のまま、みどりの左手に手を伸ばした。
「えっ、ちょっと」
みどりが驚くのも構わず、彼女の指から重いレジ袋を強引に奪い取る。
「しんちゃん、いいって。持てるから」
「俺が持ちたいだけだ」
慎太郎は短く言い捨て、レジ袋を自分の右手に持ち替えた。
少しだけ歩調を緩め、みどりと湊の歩く速度に合わせる。
みどりは奪われた自分の左手を不思議そうに見つめ、それから、隣を歩く慎太郎の横顔を見上げた。
「……なんか、しんちゃんっぽくない」
「そうか」
「うん。もっとこう、理屈っぽくて、スマートな感じだったじゃん」
「今はただの休職中の無職だ。スマートに立ち回る必要もない」
慎太郎が答えると、みどりはフッと短く息を吐いて笑った。
「そっか。じゃあ、荷物持ちよろしく」
彼女の張り詰めていた肩の力が、ほんの少しだけ抜けたのがわかった。
初夏の夜風が、ゆっくりと歩く彼らの間を通り抜けていく。遠くで、ローカル線の重い金属音が響いていた。




