第7話 太陽の保育士
午後2時過ぎ。網戸越しに聞こえる遠くの蝉の声をぼんやりと聞きながら、慎太郎は実家の居間で薄い文庫本のページを捲っていた。
活字を目で追ってはいるが、内容はほとんど頭に入ってこない。ただ、何もせずに天井の木目を数えているよりは、いくらか精神衛生上マシだった。古びた扇風機が首を振るたびに、生温かい風が前髪を揺らして通り過ぎていく。
ふいに、廊下を歩く鈍い足音が近づいてきて、開け放たれた襖の向こうから父親が顔を出した。
「慎太郎、起きてるか」
「……ああ。どうかしたか」
慎太郎が文庫本を伏せると、父親は少し困ったように首の後ろを掻いた。
「さっき、松井のじいさんから電話があってな」
松井。その名前に、慎太郎は無意識に背筋を伸ばした。
「みどりちゃんが、昼飯食った後に急に熱出して倒れたらしい。夏風邪こじらせたんだろうな。で、じいさんの方は工場の機械がトラブってて、どうしても手が離せんそうだ。それで、悪いが湊の保育園の迎えに行ってやってくれないかって」
慎太郎は瞬きをした。
みどりが倒れた。その言葉の響きが、うまく頭の中で処理できなかった。夜の居酒屋で、あるいは休日の公園で見た彼女は、常に毅然としていて、疲労の色は見せても倒れるような隙は決して見せなかったからだ。
父親は慎太郎が休職中であることを知っているが、日中はほとんど外に出ようとしないことも理解している。だからこそ、頼みにくそうにしているのだろう。
「……わかった。俺が行く」
慎太郎が立ち上がると、父親は少し驚いたように目を丸くし、それから「すまんが、頼む。住所と時間は紙に書いて玄関に置いとくから」と言ってそそくさと奥へ引っ込んだ。
クローゼットから薄手の長袖シャツを取り出し、袖を通す。
休日に公園で湊と触れ合った日以来、日中に外に出ることへの強烈な恐怖感は少しだけ薄れていた。それでも、まだ心臓の奥に小さな鉛が転がっているような重さはある。
だが、みどりが倒れたという事実が、その重さを押し退けていた。
あの危ういほどの強がりが、限界を超えてしまったのだろうか。無意識に早まる足取りを抑えながら、慎太郎は玄関の扉を開けた。
父親のメモを頼りに、住宅街を15分ほど歩く。
容赦なく照りつける初夏の日差しに、じわりと背中に汗が滲んだ。アスファルトの照り返しに目を細めながら歩いていると、やがて色鮮やかな遊具が並ぶ園庭と、平屋の真新しい建物が見えてきた。
『ひまわり保育園』と書かれた丸みを帯びた看板がフェンスに掛かっている。
門には電子ロックがかかっていた。インターホンのボタンを押し、用途と名前を告げると、スピーカー越しに「松井湊くんのお迎えですね、お待ちしてました」と明るい声が返ってきて、カチャリと鍵の開く音がした。
中に入ると、床は転んでも痛くないよう柔らかいクッション材になっており、あちこちから子供たちの甲高い声が響いている。壁には手作りの折り紙や、クレヨンで描かれた似顔絵が所狭しと貼られていた。
色鮮やかすぎるほどの空間と、絶え間なく響く子供たちの歓声。今の自分の静かな生活とは対極にあるその活気に、慎太郎は居心地の悪さに肩をすくめながら、指定された1歳児クラスの部屋を探した。
廊下の突き当たり、開け放たれた引き戸の向こうに、十数人の幼児たちが集まっているのが見えた。
部屋の隅、ブロックのおもちゃが積まれたマットの上。
赤い車のプラスチック製おもちゃを手に持った湊が、入り口に立つ慎太郎の姿に気づいた。
一瞬、不思議そうに首を傾げた後、湊の丸い瞳がパッと見開かれた。
「あー!」
湊は手に持っていた車を放り出し、少し危なっかしい足取りでとてとてと駆け寄ってきた。慎太郎は慌ててしゃがみ込み、膝のあたりに突撃してきた小さな体を両手で受け止めた。
「……迎えに来たぞ。わかるか」
慎太郎が言うと、湊は「うー」と唸りながら慎太郎のシャツの襟を掴み、そのまま顔を押し付けてきた。ベビーパウダーと微かな汗の匂いが鼻をくすぐる。
「あれ、湊くん、今日はおじいちゃんじゃないの?」
ふいに、頭上から声が降ってきた。
顔を上げると、エプロン姿の女性が立っていた。
目を引くほど華やかな顔立ちだった。健康的に日焼けした肌に、少し悪戯っぽい愛嬌のある大きな瞳。背が高く、ゆったりとした保育士のエプロン越しでも、スラリと伸びた長い脚と女性らしいスタイルの良さが隠しきれていない。一つに束ねた髪が、彼女が動くたびに元気よく揺れる。
彼女は慎太郎の顔と、彼に抱きついている湊を交互に見比べた。
「えっと、松井さんの……お知り合いですか?」
「あ、ああ。近所に住んでいる、武田です。母親が熱を出したらしく、代わりに迎えを頼まれました」
慎太郎が立ち上がりながら名乗ると、彼女は「あ、やっぱり!」とポンと手を打った。
「連絡帳に『近所の武田さんが行きます』って書いてあったんですけど、てっきり年配の方かと思ってました。私、湊くんのクラス担任の野村です」
奈緒子と名乗った彼女は、人懐っこい笑顔を向けてきた。相手を値踏みするような視線や、警戒心は微塵も感じられない。
奈緒子は慎太郎の足元から頭の先までを、あっけらかんとした視線で観察した。
「……武田さん」
「はい」
「なんか、すごい顔色悪いですね」
初対面の相手に対するあまりに直球な言葉に、慎太郎は思わず言葉に詰まった。
「……そう、ですか」
「そうです! なんだろう、蛍光灯の下でずっと暮らしてる深海魚みたいな色してますよ。ちゃんとご飯食べてます? 日光浴びてます?」
奈緒子は屈託なく笑いながら、湊のリュックサックや着替えの入った手提げ袋を素早い手つきでまとめている。
その悪意のない距離感の詰め方に、慎太郎は完全にペースを乱されていた。
「……少し、仕事の休みをとっていて。家にいることが多いので」
「なるほどー。お疲れなんですね。でも、人間、お天道様の光浴びないと駄目になっちゃいますよ。光合成、大事です!」
奈緒子はまとめた荷物を慎太郎に渡し、湊の頭をポンポンと撫でた。
「みどりちゃん、大丈夫ですかね。いっつも無理してギリギリまで頑張っちゃう子だから、心配してたんですよ」
奈緒子の声のトーンが、少しだけ真剣なものに変わった。
「あの子、弱音吐かないじゃないですか。だから武田さんみたいに、代わりに頼める人がいてよかったです。本当に」
真っ直ぐに向けられたその言葉に、慎太郎は居心地の悪さを感じて視線を逸らした。
「俺は、ただ時間が余っているだけで……別に、頼りになるような人間じゃありません」
「えー、そんなことないでしょ。湊くん、こんなに懐いてるし」
奈緒子は湊の頬を指でツンと突き、それから思いついたように顔を上げた。
「そうだ! 武田さん、今度の日曜って暇ですか?」
「日曜……? いや、特に予定はないですが」
「じゃあ決まり! 今度の日曜、保育園の親御さんたちと近くの河川敷でBBQやるんです。みどりちゃんも誘ってたんですけど、この調子じゃ無理そうだし。武田さん、湊くんの保護者代理として来てくださいよ!」
「は……?」
あまりの飛躍に、慎太郎は聞き返した。
「いや、俺はただの近所の人間で、そんな行事に参加するような立場じゃ……」
「いいからいいから! 暇ならちょうどいいです。外で肉焼いて食べて、子供たちと走り回れば、深海魚みたいな顔色も一発で治りますから。強制参加でお願いしますね!」
奈緒子は有無を言わさぬ笑顔でそう宣言すると、「じゃあ湊くん、また明日ねー!」と大きく手を振った。
断る隙を一切与えない嵐のような勢いに、慎太郎は反論の言葉を飲み込むしかなかった。湊が奈緒子に向かって「あー!」と元気よく手を振り返すのを見て、慎太郎は小さくため息をつき、保育園を後にした。
帰り道。
慎太郎の右手には、小さな湊の左手がしっかりと握られている。自分の手のひらの半分もないその手は、相変わらずストーブのように熱かった。湊の歩幅に合わせてゆっくりと歩く。時折、道端の石や雑草に興味を示して立ち止まる湊を、慎太郎は急かすことなく待った。
「BBQ、か」
ぽつりとこぼすと、湊が不思議そうに見上げてきた。
昔から、大勢で集まって騒ぐような場は得意ではない。BBQと聞いて、反射的に断りの口実を頭の中で探そうとした自分が少しだけおかしくなる。
何の見返りも求めず、ただ「日光が足りてないから」という理由だけで巻き込んでくる人間など、これまでに出会ったことがない。あの奈緒子という保育士の裏表のないエネルギーは、今の慎太郎にとってひどく眩しく、そして少しだけ厄介だった。
みどりの家は、工場のすぐ隣にある平屋の母屋だった。
入り口の引き戸には鍵がかかっておらず、少し開いた隙間から、隣の工場で金属を削る甲高い機械音が響いてくる。みどりの父親はまだ作業中のようだ。
「お邪魔します」
短く声をかけて玄関を上がり、居間を覗く。
カーテンが閉め切られた薄暗い部屋の中心で、みどりがタオルケットを被って丸くなっていた。
慎太郎が近づく気配に気づいたのか、タオルケットがもぞもぞと動き、みどりがゆっくりと顔を出した。
ひどく熱っぽい、虚ろな目だった。普段の彼女が纏っている、あの張り詰めたような強さはどこにもなく、ただ年齢相応の頼りない少女の顔があった。
「……しんちゃん。悪いね、わざわざ」
掠れた、小さな声だった。
「気にするな」
慎太郎がそう言うと、湊がみどりの顔を見つけて「まんま!」と飛びつこうとした。慎太郎は慌てて湊の腕を掴み、引き留めた。
「こら、お母さん風邪引いてるんだ。うつるぞ」
湊は不満そうに声を上げたが、みどりは弱々しく笑い、タオルケットの中から手を出して湊の頭を撫でた。
「ごめん。じいちゃんの手、止めさせたくなくて……しんちゃんしか、頼めなかった」
「いい。水は飲んだか」
「うん……そこに」
枕元のペットボトルは、すでに空になっていた。
慎太郎は台所へ向かい、冷蔵庫から新しいスポーツドリンクを取り出して蓋を開け、枕元に置いた。それから、落ちていたタオルケットを拾い上げ、彼女の肩までしっかりと掛け直した。
「……ありがとう」
「寝てろ。湊は俺が少し見てる」
みどりは何か言いかけたが、重い瞼に抗えなかったのか、やがてゆっくりと目を閉じた。
規則正しい、少し熱を帯びた寝息が聞こえ始める。
慎太郎は、その無防備な寝顔を静かに見つめた。
薄暗い部屋の中で、首を振る扇風機の音だけが一定のリズムを刻んでいる。慎太郎はみどりの熱を確かめるように、タオルケットの端をそっと握り直した。




