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金曜20時、高架下にて待ち合わせ。〜元ヤン幼馴染は18歳の母〜  作者: 伊達ジン


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第6話 夜の散歩とカメラの少女

 昼間の熱が抜けきらないアスファルトの上を、初夏の夜風がゆっくりと這っていく。

 午後9時。夕食を終え、風呂で汗を流した慎太郎は、薄手の長袖シャツを羽織って実家の玄関を出た。

 休日に公園でみどりと湊に会って以来、慎太郎の生活にはほんのわずかだが変化が訪れていた。相変わらず昼間は部屋にこもりがちで、太陽の光を浴びながら外を歩くことはできない。だが、夜の散歩の足取りからは、数日前までの泥の中を歩くような重さが消えていた。

 あの小さな熱い手の感触が、まだ右手の中に残っているような気がした。肩書きも何もない、無精髭を生やしたただの男。それを評価も否定もせず、ただ真っ直ぐに見つめてくれた純粋な眼差し。

 腹の底から湧き上がった自然な笑い声の余韻が、今も微かに胸の奥に留まっている。


 今日は金曜日ではない。高架下の居酒屋に向かう理由もないため、慎太郎は駅の方角とは逆、町外れを流れる河川敷へと向かって歩き出した。

 街灯の少ない土手沿いの道は暗く、草の青臭い匂いがむせ返るように鼻をつく。遠くに見えるバイパスの高架下だけが、オレンジ色のナトリウムランプに照らされて不自然に明るかった。

 川のせせらぎと、虫の鳴き声だけが響く静寂。ここには、人間が作り出した狂騒や、分刻みで誰かを急き立てるようなノイズはない。ただ、自然の営みが淡々と繰り返されているだけだった。

 舗装されていない土手道をゆっくりと歩く。足元で砂利が擦れる音だけが一定のリズムを刻んでいた。


 ふと、前方で小さな光が瞬いた。

 暗闇の中で、カシャッ、という微かな機械音が聞こえる。

 慎太郎は足を止めた。目を凝らすと、少し先の土手の斜面に、うずくまるような姿勢でしゃがみ込んでいる人影があった。手元で青白く光っているのは、デジタルカメラの液晶モニターだ。


「……こんな時間に」


 思わず口から漏れた声は、自分でも驚くほど低かった。

 人影がビクッと大きく肩を跳ねさせ、弾かれたように立ち上がった。振り返ったその顔に、薄い月の光が落ちる。

 まだあどけなさの残る、10代の少女だった。

 黒髪のロングヘアが夜風に揺れ、大きめのグレーのパーカーの袖から、華奢な指先が覗いている。彼女は首から提げた一眼レフカメラを両手で抱え込むようにして胸に押し当て、数歩じりじりと後ずさった。

 その瞳には、明確な恐怖と警戒心が浮かんでいた。唇は固く引き結ばれ、今にも背を向けて逃げ出しそうなほど全身が強張っている。暗がりで、長髪に無精髭の成人男性に突然声をかけられれば無理もない。


「あ、いや……すまない。怪しい者じゃない。驚かせて悪かった」


 慎太郎は慌ててその場に立ち止まり、両手を胸の高さに上げて敵意がないことを示した。これ以上距離を詰めれば、彼女は間違いなく悲鳴を上げて逃げ出すだろう。

 少女は瞬きを数回繰り返し、慎太郎の足元から顔までを素早く観察するように見た。慎太郎がそれ以上近づいてこないことを確認すると、少しだけ肩の力を抜いたが、カメラを抱え込む手は緩めなかった。


「……」


 声は出さず、ただじっとこちらを見据えている。


「散歩をしていただけだ。こんな暗いところで、何を撮ってたんだ?」


 慎太郎が努めて穏やかな声で尋ねると、少女は数秒の沈黙の後、足元の草むらに視線を落としたまま、微かに唇を動かした。


「……星」


 消え入りそうな、か細い声だった。


「星?」

「……はい」


 少女は小さく頷いた。

 慎太郎は空を見上げた。今夜は月が雲に半分隠れ、代わりに無数の星が初夏の夜空に瞬いている。空気の澄んだこの町ならではの景色だ。

 しかし、河川敷とはいえ、バイパスの明かりも届くこの場所で、星空の写真を撮るのは難しいのではないだろうか。


「今日はよく見えるな。でも、バイパスの光が明るすぎないか」


 慎太郎が言うと、少女はハッとしたように顔を上げ、手元のカメラの液晶モニターに視線を落とした。


「……やっぱり、そうですよね」


 独り言のように呟いた彼女の声には、落胆の色が混じっていた。


「私のカメラじゃ……光、拾いすぎちゃって。うまく、撮れない」


 少女は液晶画面を見つめたまま、ため息をついた。自分の技術や機材の限界に対する、純粋な悔しさのようなものが伝わってくる。

 慎太郎はゆっくりと両手を下ろし、数歩だけ歩み寄った。少女は身を固くしたが、今度は後ずさりはしなかった。それでも、まだ十分に距離はある。


「見せてもらってもいいか?」


 慎太郎が尋ねると、少女はビクッと体を震わせ、カメラの液晶を手で覆うように隠した。


「……下手くそですから」

「笑ったりしない」


 静かなトーンで告げると、少女は恐る恐る顔を上げ、慎太郎の目を見た。数秒の葛藤の後、彼女は警戒を解ききらないまま、カメラの液晶画面が慎太郎の方から見えるように、ほんの少しだけ角度を変えた。

 画面に映し出されていたのは、ピントの甘い、ざらついた星空の写真だった。確かに技術的に優れているとは言い難い。ノイズが走り、星の光もバイパスの強烈な光源に負けて弱々しく滲んでいた。


「……全然、だめです」


 少女が自嘲気味に呟く。


「いや」


 慎太郎は写真を見つめたまま、静かに首を振った。


「ノイズは多いが、悪くない」

「……え?」

「構図がいい。真ん中の一番明るい星の周りに、見えにくい小さな星が散らばってる。光の強い方ばかりに目が行くが、本当は暗い方にもちゃんと星があるってわかる。……俺は好きだ」


 それは、お世辞でも気休めでもなかった。写真の技術的なことは全くわからない。ただ、直感的にそう感じた。

 少女は驚いたように目を丸くし、慎太郎の顔と液晶画面を交互に見た。


「……本当ですか」

「ああ」


 少女は短く息を吸い込み、カメラを大事そうに胸に抱え直した。固く引き結ばれていた唇が少しだけ緩み、警戒に満ちていた瞳に、安堵のような弱い光が宿ったのがわかった。


「……他にも、何か撮るのか」


 慎太郎が少しトーンを落として尋ねると、少女は躊躇うようにうつむき、それから、小さく頷いた。


「……風景とか」

「見てもいいか?」


 少女は再び無言になり、長い時間迷っているようだった。他人に自分の作品を見せることへの抵抗と、先ほど写真を肯定された安堵感がせめぎ合っているのがわかる。

 やがて彼女は、ゆっくりとカメラの再生ボタンを押し、液晶画面を慎太郎の方へ少しだけ向けた。

 画面に、1枚の写真が映し出される。

 夕焼けに染まる河川敷の、錆びたガードレール。

 少女の指がボタンを押し、次の写真が表示される。

 アスファルトの隙間から生える、名もなき雑草の花。

 さらに次の写真。

 雨上がりの水たまりに反射する、住宅街の電柱と雲。

 どれも、この町のごくありふれた、見慣れた風景ばかりだった。わざわざカメラを向けるような特別な場所ではない。だが、彼女のレンズを通すと、それらの景色がひどく瑞々しく、静謐な美しさを湛えていた。

 そこに、意図的な演出はない。誰かに評価されたい、認められたいという作為や計算が見当たらない。ただ、彼女自身が日常の中で美しいと感じた瞬間を、ひたむきに切り取っただけの写真だった。

 慎太郎は黙って画面を見つめ続けた。

 ここ数年、彼が見てきたものは何だっただろうか。利益率、売上予測、契約書、他人の顔色、役員の評価。すべてが数字や損得で測られ、常に他人との比較の中にあった。自分の内側から湧き上がる「美しい」という純粋な感情だけで何かを見つめたことなど、一度もなかった。

 だが、この少女の写真は違う。

 ただそこにあるものを、あるがままに肯定し、静かに受け入れている。


「……すごいな」


 慎太郎は素直に感嘆の声を漏らした。


「どれも、静かだ。見ていて落ち着く。いい写真だ」


 少女はカメラを握る手にぐっと力を込め、それから、ふっと表情を和らげた。


「……よかった」


 消え入りそうな声で呟き、彼女は少しだけ口角を上げた。

 その笑顔には、一切の打算がない。ただ純粋に、自分の好きなものを他人に肯定してもらえた安堵だけが浮かんでいた。

 初夏の夜風が、二人の間を通り抜けていく。

 川のせせらぎが、いつの間にか心地よい音になって耳に届いていた。


「俺は、武田だ」


 慎太郎が静かに名乗る。自分でも驚くほど、自然に出た言葉だった。肩書きも何もない、ただの名前。

 少女は少し驚いたように慎太郎を見上げ、瞬きをした。そして、カメラのストラップをぎゅっと握りしめながら、小さな声で答えた。


「……木下。木下篤子、です」

「そうか。木下さん、いいものを見せてもらった。ありがとう」


 慎太郎が軽く頭を下げると、篤子は慌てて首を横に振った。


「いえ……私の方こそ。見てくれて、ありがとうございました」


 それ以上の言葉は、必要なかった。

 完全に警戒が解けたわけではないだろう。篤子の足は、まだいつでも逃げ出せるように少し後ろに引かれている。それでも、夜の暗闇の中で偶然出会った見知らぬ二人の間に、ほんのわずかな、しかし確かな静寂が共有されていた。


「夜は冷える。そろそろ帰ったほうがいい」


 慎太郎が促すと、篤子は「はい」と短く返事をした。


「……おやすみなさい」


 篤子は小さく会釈をし、土手の斜面を小走りで駆け上がっていった。暗がりの中に彼女のグレーのパーカーが溶けて見えなくなるまで、慎太郎はその場に立ち尽くしていた。

 右のポケットの中で、スマートフォンが短く振動した。

 画面を確認すると、カレンダーの通知だった。明日の日付。


『金曜 20:00』


 文字だけが光る画面を見つめ、慎太郎はスマートフォンの電源ボタンを押して画面を暗くした。

 夜風が再び草を揺らして通り過ぎていく。

 慎太郎は顔を上げ、さっきまで篤子が見上げていた星空をもう一度だけ見上げると、ゆっくりと家路につき始めた。

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