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金曜20時、高架下にて待ち合わせ。〜元ヤン幼馴染は18歳の母〜  作者: 伊達ジン


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第5話 小さなキューピッド

 薄いカーテンの隙間から、初夏特有の強い日差しが畳の上に白い線を引いていた。

 午後1時。実家の居間には、壁掛け時計の規則正しい秒針の音だけが響いている。定年退職した父親は、朝から趣味の釣り仲間と出かけており、家の中には慎太郎しかいなかった。

 数日前までの彼なら、この時間はまだ布団の中で死んだように天井の木目を数え、ただ時間が通り過ぎていくのを持て余していただろう。他人の目がある明るい時間帯に外へ出ることなど、考えただけで動悸がした。

 だが、今日は違った。

 冷蔵庫から麦茶を出してグラスに注いだ時、窓の外から微かに聞こえる風の音が、妙に心地よく耳に届いた。

 金曜日の夜、高架下の赤提灯で過ごした1時間が、確かな熱を持って胃の底に残っていた。

 慎太郎は麦茶を飲み干し、洗面所へ向かった。

 相変わらず顎には無精髭が伸びていたが、冷水で顔を洗う動作には、ほんの少しだけ張りが戻っていた。クローゼットからゆったりとしたネイビーのニットと、履き慣れたチノパンを引っ張り出す。玄関でスニーカーの踵を踏み潰さないように指を入れて履き、日差しを避けるために黒いキャップを深めに被って外へ出た。

 目的のない散歩だった。

 顔見知りの近所の人間に会うのを避けるため、駅前や商店街ではなく、バイパス沿いから少し外れた住宅街の裏道を歩いた。

 10分ほど歩くと、視界が開け、木々で囲まれた中規模の公園に出た。滑り台とジャングルジム、そして砂場があるだけのありふれた公園だが、休日ということもあり、数組の親子連れが遊んでいる。

 子供たちの甲高い声が初夏の空気に溶けていく。かつての慎太郎にとって、こうした「休日の家族の風景」は、自分がいつか手に入れるべきステータスの一つとしてしか認識していなかった。しかし今、ただベンチに座ってその光景を眺めていると、それは自分とは切り離された、別の惑星の出来事のように遠く感じられた。

 公園の隅、藤棚の下にあるベンチに腰を下ろす。

 キャップのつばを下げて視線を落とした時、砂場の縁にしゃがみ込んでいる見覚えのある背中が目に入った。

 赤みがかった明るいウェーブヘア。普段の暗い居酒屋では見えなかったが、太陽の光の下で見ると、その髪は思いのほか柔らかそうに光を反射していた。

 みどりだった。

 いつも着ているくすんだ紺色の作業着ではなく、今日は洗いざらしの薄いブルーのデニムに、無地の白いTシャツ、そして肩から薄手のグレーのカーディガンを羽織っている。化粧っ気のない横顔は、夜の赤提灯の下で見るよりもずっと年相応で、ただのあどけない少女に見えた。

 彼女の視線の先には、プラスチックの赤いバケツとシャベルを持って砂まみれになっている、小さな男の子の姿があった。

 歩幅の短い、よちよちとした足取り。まだ頭の比率が大きく、動くたびに危なっかしくバランスを崩している。

 あの写真に写っていた、彼女の息子。湊だった。

 みどりは砂場に直接しゃがみ込み、湊が不器用に砂をバケツに入れるのを、手を出さずにじっと見守っている。時折、湊が「あー」と声を上げてバケツをひっくり返すと、彼女は少しだけ口角を上げて何かを応えていた。

 声をかけるべきか迷った。

 夜の居酒屋という特異な空間だからこそ成り立つ関係であり、明るい太陽の下、しかも彼女が「母親」としての時間を過ごしている場に踏み込むのは無粋に思えた。

 慎太郎がそっと立ち上がり、気づかれないように公園を後にしようとしたその時だった。


「あーっ!」


 不意に、甲高い声が公園の端まで響いた。声の主は湊だった。彼が振り回していた赤いプラスチックのシャベルが手からすっぽ抜け、弧を描いて砂場の外へ飛んでいった。それはコロコロと土の上を転がり、慎太郎の履いているスニーカーのつま先にコツンと当たって止まった。

 みどりが「あっ、こら湊。投げないの」と立ち上がり、シャベルの飛んでいった方向へ視線を向ける。そして、シャベルの先にあるスニーカーから、ゆっくりと視線を上にスライドさせた。

 目が合った。

 みどりはパチリと瞬きをし、少しだけ目を丸くした。


「……しんちゃん?」


 気づかれてしまった以上、逃げるわけにはいかない。

 慎太郎は短く息を吐き、足元の赤いシャベルを拾い上げた。プラスチックの表面には、少し湿った砂がこびりついている。それを手に持ったまま、ゆっくりと砂場の方へ歩み寄った。


「奇遇だな」

「マジで。びっくりした」


 みどりは目を細め、上から下まで慎太郎の服装を観察するように見た。


「太陽の下歩けんじゃん。ドラキュラみたいに灰になるかと思ってたわ」

「失礼なやつだな。少しは外の空気でも吸おうかと思っただけだ」


 軽口を叩き合いながらシャベルを差し出そうとした時、足元で「うー」という唸り声のようなものが聞こえた。

 見下ろすと、湊が慎太郎のスニーカーにしがみついていた。

 初めて見る至近距離での1歳半の幼児。大きな丸い瞳が、まっすぐに慎太郎の顔を見上げている。恐怖や警戒心といったものは微塵もなく、ただ「見慣れない大きな物体がいる」という純粋な好奇心だけで構成された視線だった。


「こら、湊。初対面のおじさんの靴舐めない」


 みどりがひょいと湊の脇に手を入れて持ち上げ、砂をパンパンと払った。湊は空中で手足をジタバタさせながら、今度は慎太郎の手に握られている赤いシャベルに向かって必死に手を伸ばした。


「ほら、これだろう」


 慎太郎がシャベルの柄を差し出すと、湊は小さな手でそれをむんずと掴んだ。その拍子に、湊の指先が慎太郎の親指に触れた。

 驚くほど熱かった。

 体温が高いことは知識として知っていたが、実際に触れたその小さな手は、まるで小さなストーブのように生命力に満ちていた。手には微かな汗をかいており、ベビーパウダーと太陽の匂いが混ざったような独特の甘い匂いがした。


「悪いね、服汚れなかった?」

「ああ。問題ない」


 みどりは湊を抱えたまま、藤棚の下のベンチへと顎をしゃくった。


「暇でしょ。ちょっと座ってく?」


 断る理由もなく、慎太郎は促されるままにベンチの端に腰を下ろした。みどりが一つ挟んだ隣に座り、湊を自分の膝の上に立たせる。

 近くで見ると、湊はみどりによく似ていた。少し色素の薄い髪と、意志の強そうな眉の形。だが、その瞳の奥には、みどりが纏っているような現実の厳しさはまだ何一つ映っていない。


「今日は工場、休みなのか」

「日曜くらいはね。じいちゃんがパチンコ行っちゃったから、私が子守り。体力無限でマジでしんどい」


 みどりは口ではそう文句を言いながらも、ベンチの上で飛び跳ねようとする湊の背中にしっかりと手を添えていた。夜の居酒屋で見せる、壁を作ったような硬い表情はない。そこにあるのは、間違いなく一人の母親としての柔らかい輪郭だった。


「……大変だな」

「まあね。でも、こいつが寝てる時だけが唯一の平和だから」


 みどりがカーディガンの袖で額の汗を拭った時、湊が突然、みどりの膝から降りて慎太郎の方へととてとてと歩いてきた。

 慎太郎は思わず背筋を伸ばし、肩を強張らせた。

 子供の扱いは全く分からない。商社時代、取引先の役員を相手にする接待の何倍も、どう振る舞えばいいのか正解が見えなかった。

 湊はベンチに座る慎太郎の膝の間にすっぽりと入り込むと、短い腕を伸ばして、慎太郎のチノパンの生地をぎゅっと掴んだ。


「あー、ばっ!」


 何かを主張するように、大きな声で叫ぶ。

 慎太郎は両手を宙に浮かせたまま、完全に動きを止めてしまった。触れていいのか、押し返すべきなのか。頭の中で瞬時にいくつかの選択肢をシミュレーションしたが、どれも不適切に思えた。


「しんちゃん、カカシみたいんなってるよ」


 みどりが吹き出して笑った。


「人見知りしないから、こいつ。適当にあしらっていいよ」

「適当にって言われてもな……」


 慎太郎が困惑していると、湊はさらに大胆な行動に出た。掴んでいたズボンの生地から手を離し、今度は慎太郎の膝に手をついて背伸びをし、顔を近づけてきたのだ。

 そして、短い指を伸ばし、慎太郎の顎に生えた無精髭を不思議そうに撫でた。


「んん?」


 ジョリジョリとした感触が珍しかったのだろう。湊は目を丸くして、何度も慎太郎の顎を撫で回した。その度に、小さな指の熱と、少しだけざらついた砂の感触が肌に伝わってくる。

 それは、慎太郎にとってひどく新鮮な感覚だった。

 ここ数ヶ月、彼に向けられる視線は、腫れ物に触るような憐憫か、あるいは期待を裏切ったことへの失望のどちらかだった。会社の人間も、父親も、どこか「壊れた武田慎太郎」として彼を扱っていた。

 自分自身でさえ、鏡を見るたびに「終わってしまった男」というレッテルを貼っていた。

 だが、目の前にいるこの小さな命は違う。

 肩書きも、過去の栄光も、現在の無様な休職状態も、何一つ知らない。評価を下すこともなく、ただそこに「ざらざらした顔のおもしろい生き物」がいるという事実だけを受け入れ、真っ直ぐに触れてきている。

 湊が今度は、慎太郎の鼻を小さな手でペチリと叩いた。


「きゃはっ!」


 自分がやったことに自分でおかしくなったのか、湊は顔をくしゃくしゃにして声を上げて笑った。歯の生え揃っていない小さな口の奥が見える。

 そのあまりにも無防備で純粋な笑顔を間近で見た瞬間。

 慎太郎の胸の奥で、厚く張り詰めていた氷のような何かが、音を立ててひび割れた感覚があった。

 腹の底から、自分でも予想していなかったような感情が込み上げてくる。それは数ヶ月間、完全に機能不全に陥っていたはずのものだった。


「……っ」


 慎太郎は、無意識のうちに口角を上げていた。

 そして、喉の奥から小さく息を漏らすように、声を立てて笑った。


「ははっ……なんだお前、くすぐったいぞ」


 慎太郎は宙に浮かせていた手を下ろし、初めて、湊の小さな背中にそっと手を添えた。驚くほど華奢で、柔らかな背中。だが、その中には規則正しく脈打つ、確かな命の鼓動があった。

 湊は慎太郎の手のひらの感触を気にする様子もなく、今度はキャップのつばを掴んで引っ張り始めた。

 慎太郎は為すがままにされながら、もう一度、声を立てて笑った。無理に作った作り笑いでも、取引先に向ける愛想笑いでもない。ただ可笑しくて、ただ愛おしくてこぼれ落ちた、自然な笑顔だった。


「……なんだ。笑えんじゃん」


 不意に横から聞こえた声に、慎太郎はハッとして顔を上げた。

 みどりが、頬杖をつきながら不思議そうな顔でこちらを見ていた。彼女の大きな瞳が、慎太郎の顔をじっと観察している。


「あのさ、しんちゃん」

「……なんだ」

「夜会う時はいっつも、この世の終わりみたいな顔してビール飲んでっけどさ」


 みどりは少しだけ目を細め、口角を上げた。


「笑うと、昔のまんまだね。昔の、近所の武田のしんちゃんの顔」


 その言葉は、どんな慰めの言葉よりも深く、慎太郎の胸の奥に真っ直ぐに落ちていった。

 終わってしまったわけではない。壊れて修復不可能になったわけでもない。自分の根っこの部分は、まだこうして残っている。

 慎太郎はキャップを直しながら、深く息を吸い込んだ。初夏の空気が、今日は少しだけ甘く感じられた。


「……そうか」


 慎太郎が短く答えると、みどりは「そ」と鼻で笑い、立ち上がった。


「ほら湊。おじさん困ってっから、そろそろ帰るよ。昼飯食わせないと」


 みどりが手を差し出すと、湊は名残惜しそうに慎太郎の膝をもう一度ポンと叩き、とてとてと母親の元へ歩いていった。

 みどりは湊の小さな手をしっかりと握り、慎太郎の方を振り返った。


「じゃ、また金曜にね」

「ああ、約束通りな」


 みどりは一瞬だけ目を細め、それから、ふっといつものように口角を上げて笑った。


「うん。待ってる」


 二人の背中が公園の木漏れ日の中を遠ざかっていくのを、慎太郎はずっと見送っていた。

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