第4話 金曜20時の約束
あの夜から、数日が過ぎていた。
相変わらず昼間はカーテンを閉め切り、実家の畳の上で無為な時間を過ごしている。スマートフォンを開けば、未読のまま放置している会社関係のメッセージが通知バッジとして溜まっているのが見えた。普段ならそれを目にするだけで動悸がし、息が浅くなっていたはずだが、今はただ「遠い世界のこと」のように感じられた。
天井の木目をぼんやりと見つめながら、慎太郎は自分の右手を開いたり握ったりを繰り返した。
『死んだ』
みどりの声が、不意に鼓膜に蘇る。
感情の起伏を押し殺したような、あの淡々とした響き。18歳の少女が、自身の配偶者の死と、残された幼い命について語る時の、不釣り合いなほどに乾いた瞳。
ここ数ヶ月、自分の頭の中は常に「自分がどう見られているか」「自分がどう立ち回るべきか」という強迫観念で埋め尽くされていた。期待に応えられなかった自分。プロジェクトを投げ出してしまった自分。その自己嫌悪の渦の中で、溺れないように必死にもがいていた。
だが、あの日、高架下の赤提灯で彼女の言葉を聞いた時、その渦がふっと止まった感覚があった。
彼女は、言い訳をする暇も、立ち止まって泣き喚く暇もない現実のど真ん中で、泥にまみれて立っていた。その事実は、慎太郎の抱える悩みを小さく見せたわけではない。ただ、自分の輪郭を少しだけ冷たく、はっきりと縁取ってくれたような気がした。
夕暮れ時になると、死んでいたはずの胃袋が微かに自己主張を始めた。
あの夜食べた、炭火の匂いが染み込んだねぎまの味。そして、キンと冷えたビールの苦味。砂を噛むようだった味覚が、少しだけ機能を取り戻している。
壁掛け時計の針が、19時半を回った。
今日は金曜日だ。
慎太郎はゆっくりと起き上がり、洗面所で顔を洗った。伸びてきた無精髭はそのままに、薄手のニットの袖を通し、財布とスマートフォンだけをポケットに突っ込んで玄関を出た。
初夏の夜風は生温かく、遠くの国道から排気音が微かに聞こえる。
あてもなく散歩に出るふりをして、足は迷うことなく駅の反対側へと向かっていた。
高架下に近づくにつれ、コンクリートの匂いに混じって、焦げた醤油の匂いが漂ってくる。頭上を重い金属音を響かせてローカル線が通り過ぎていくのと同時に、慎太郎は『鳥寅』の引き戸に手をかけた。
ガラガラと軋む音とともに、換気扇から溢れ出た白い煙が視界を覆う。
「いらっしゃい」
焼き台の奥から女将が声をかける。
煙の向こう側、入り口から一番近いカウンターの隅。テレビの青白い光が落ちる定位置に、その姿はあった。
くすんだ紺色の作業着。
みどりは、グラスを片手に、ぼんやりとテレビの画面を見上げていた。引き戸の音に気づいて視線を向け、慎太郎の顔を認めると、小さく息を吐いた。
「……よ」
慎太郎は短く声をかけ、彼女の隣のパイプ椅子を引き寄せて座った。
「また来たんだ。しんちゃん」
「暇だからな」
慎太郎はそう答えながら、女将に向かって「瓶ビールと、もつ煮」と頼んだ。
みどりの手元には、前回と同じくウーロン茶のグラスが置かれている。横顔には隠しきれない疲労の色が滲んでいた。目の下に薄く隈ができ、作業着の袖口は先日よりもさらに黒く油で汚れている。
「女将さん、今日は俺がこいつの分も払うから」
慎太郎が焼き台に向かって言うと、みどりは眉をひそめた。
「いいって。この前は私が奢るって言ったじゃん」
「俺が落ち着かない。大人が十代のガキに焼き鳥奢られて平気な顔してたら、それこそ終わりだ」
「何それ。無職のくせにプライドだけはいっちょ前だな」
「休職中だ」
憎まれ口を叩き合いながら、慎太郎は女将から受け取ったグラスにビールを注いだ。みどりは「あっそ」と短く鼻を鳴らし、ウーロン茶に口をつける。
「レバーと、つくね。タレで。あと豚バラも塩で2本」
慎太郎が串を追加で注文すると、みどりは横目でそれを見た。
「そんな食えんの?」
「この前はお前の奢りだったから遠慮したんだ。今日は食う」
冷えたビールを喉に流し込む。苦味が食道を通り、胃の奥に落ちていく感覚がはっきりとわかる。美味い。数日前まで感じられなかったその単純な感覚が、今は少しだけ嬉しかった。
網の上に串が並べられ、チリチリと肉が焼ける音が店内に響き始める。
慎太郎は、みどりの横顔をちらりと盗み見た。
彼女は何も聞いてこない。数日前に自分がした告白――夫が死んだこと、子供がいること――について、慎太郎がどう思ったのか、同情しているのか、それとも引いているのか。そんな探りを入れるような素振りは一切なかった。
慎太郎もまた、何も聞かなかった。どんな事故だったのか、一人での子育てはどれほど大変なのか。そんな野暮な詮索は、彼女の固く結ばれた唇と、油汚れの染み付いた指先を見れば必要ないとわかっていた。
「はい、レバーとつくね。熱いうちに食べな」
女将がカウンター越しに皿を置く。照りのある濃厚なタレの匂いが鼻腔をくすぐった。
みどりは小皿を自分の方へ引き寄せ、無言でレバーの串を手に取った。一口齧り、ゆっくりと咀嚼する。その瞬間だけ、彼女の眉間の皺がほんの少しだけ解れた。
「……美味いか」
「ん。疲れてる時は、ここのタレが一番効く」
みどりは串を持ったまま、短く息を吐いた。
ふと、彼女が作業着の胸ポケットからスマートフォンを取り出し、画面をタップして時間を確認するのを見た。時計の針は、20時半を回ろうとしている。
「湊か?」
慎太郎が短く尋ねると、みどりは画面を伏せてポケットにしまった。
「うん。まあ、じいちゃんが見てくれてるから大丈夫なんだけどね。そろそろ寝かしつける時間だから」
「お前は、いつも金曜のこの時間に来てるのか?」
「……まあね」
みどりはウーロン茶のグラスの縁を指でなぞりながら、少しだけ視線を落とした。
「金曜の夜だけはじいちゃんが『湊は俺が見とくから、少し外の空気でも吸ってこい』って言ってくれるんだよね」
みどりはそう言うと、顔を上げて天井の隅で回る古い扇風機を見つめた。
「1時間だけ。ここに来て、ウーロン茶飲んで、女将さんの焼いた肉食って。ただ座ってるだけなんだけどさ」
「……」
「そうしないと、なんか、自分が誰だかわかんなくなりそうになるから」
みどりはウーロン茶のグラスを見つめたまま、小さく息を吐いた。慎太郎は黙ってその横顔を見つめた。
「みどりは……偉いな」
慎太郎がぽつりとこぼすと、みどりは鼻で笑った。
「馬鹿みたい。当たり前のことやってるだけじゃん。私があの子の母親なんだから」
「……違いない」
「しんちゃんこそ、そんなハイペースで飲んで平気なの? ストレスで胃ぃ穴空いてんじゃないの」
「失礼な奴だな。俺の胃は頑丈だ」
言い返しながら、慎太郎は豚バラの串にかじりついた。塩気と豚の脂が、ビールの炭酸と混ざり合ってたまらなく美味かった。
会話が途切れる。
店内に、テレビの音声と肉の焼ける音だけが響く。
やがて、壁の時計が21時を指した。
みどりは小さく伸びをすると、パイプ椅子から立ち上がった。
「ごちそうさん。美味かった」
「ああ」
慎太郎は財布を取り出し、千円札を数枚カウンターに置いた。女将が「毎度あり」と短く応える。
引き戸へと向かうみどりの背中を見ながら、慎太郎は声をかけていた。
「みどり」
「ん?」
振り返った彼女の目は、少しだけ疲れていて、けれど確かな芯の強さを宿していた。
「また来週も、ここにいるのか」
その問いに、みどりは少しだけ目を瞬かせ、それからフッと口角を上げた。
「金曜の夜ならね。しんちゃんは?」
「……俺も、たぶん暇だからな」
「そ。じゃあ、また」
みどりは引き戸を開け、初夏の夜の暗がりの中へと消えていった。
ガラガラと音がして、戸が閉まる。
カウンターに残された慎太郎は、空になった自分のグラスと、氷だけが残った彼女のウーロン茶のグラスを交互に見つめた。
来週の金曜日、20時。
スケジュール帳を開くことすら恐ろしかった自分の日常に、ひさしぶりに予定ができたことに気づき、慎太郎は小さく息を吐いた。




