第3話 18歳の未亡人
熱い肉汁が口の中に広がり、ネギの甘みと強めの塩気が舌を刺激した。
ただ生命を維持するためだけに無味乾燥なものを胃に放り込んでいたここ数日の食事とは違い、はっきりと「味」の輪郭が脳に伝わってくる。咀嚼するたびに鶏肉の弾力が歯を押し返し、炭火特有の香ばしさが鼻腔を抜けた。
慎太郎はグラスを手に取り、琥珀色の液体でそれを流し込んだ。冷たい炭酸が食道を滑り落ちていく感覚が、少しだけ頭の中の靄を晴らしていくようだった。内臓が動き出し、冷え切っていた血が巡り始めるのがわかる。
ふと、横目で隣に座るみどりを見た。
彼女は右手でウーロン茶のグラスを持ち、左手でスマートフォンを操作している。その左手の親指の付け根あたりに、赤茶色に変色した小さな火傷の痕がいくつもあることに慎太郎は気づいた。爪は短く切り揃えられてマニキュアの跡もなく、指先や爪の隙間には、石鹸でいくら洗っても落ちないであろう金属の黒ずみが深くこびりついている。
視線を下げると、カウンターの下から覗く彼女の足元には、無骨な黒い安全靴が履かれていた。つま先部分の革が激しく擦り切れ、下地の鉄板がわずかに顔を覗かせている。
サイズの合わない油まみれの作業着、生傷の絶えない手、すり減った安全靴。そして、酒を置いている居酒屋で、わざわざウーロン茶しか頼んでいないこと。
昔の彼女は、近所でも有名な手のつけられない子供だった。慎太郎が高校生だった頃、彼女はまだ小学生で、いつも泥だらけになって男の子たちと取っ組み合いの喧嘩をしていた。中学生になる頃には髪を染め、深夜のコンビニの前でたむろしている姿を遠巻きに見かけた記憶がある。
だが、今の彼女からは、あの頃のような刃物めいた危うさや、世界に対する無軌道な反抗心は感じられない。もっと重く、静かで、地に足のついた何かを引きずっている。
「……お前、今いくつになった?」
慎太郎は、手元の割り箸を見つめながら短く尋ねた。
みどりはスマートフォンの画面から顔を上げず、親指で画面をスクロールさせながら答えた。
「18」
「……」
慎太郎は頭の中で計算した。自分が東京の大学に進学した頃、彼女はまだランドセルを背負っていたはずだ。それが今は、こうして深夜の居酒屋のカウンターで隣に座っている。
順当にいけば、高校3年生の代だ。
「高校はどうした。その格好ってことは、夜間か通信か?」
慎太郎の問いに、みどりはスクロールしていた手を止め、スマートフォンを伏せてカウンターに置いた。
「行ってないよ。2年の途中で辞めた」
「親父さんの工場を継ぐつもりか?」
「継ぐっていうか……まあ、親父一人じゃ回んないからね。零細だし、人手も足りてないから。見習いとしてこき使われてる」
グラスの氷を指先で揺らす。カラン、カランという音が静かな店内に響く。
「しんちゃんこそ、どうしたの。東京でデカい会社のスーツ着て、バリバリやってんじゃなかったの。親父が自慢げに話してたよ、近所の武田のしんちゃんはすげえ出世してるって」
痛いところを突かれた。胸の奥がチクリと痛む。
だが、みどりの横顔に悪意や嘲笑はない。ただ、目の前の事実を確認しているだけの、純粋な疑問だった。
慎太郎はビールの残りを飲み干し、ゆっくりとグラスを置いた。
「……少し、休んでるんだ」
「ふーん」
みどりはそれ以上、踏み込もうとしなかった。病気なのか、会社をクビになったのか、どんなトラブルがあったのか。普通なら好奇心で聞いてきそうなものだが、彼女は視線をテレビの画面に戻しただけだった。
他人の事情に不用意に踏み込まない。それは、彼女自身が他人に踏み込まれたくない事情を抱えて生きている人間の態度だ。
「……お前も、色々あったみたいだな」
慎太郎がそうこぼすと、みどりはテレビから視線を外し、手元のグラスをじっと見つめた。
「色々ってほどでもないけどね」
彼女はウーロン茶を一口飲み、氷の音を立ててグラスを置いた。
「結婚したんだよね。16の時」
不意に落とされたその言葉に、慎太郎は思わず顔を上げた。
「結婚……?」
「うん。学校辞めて、籍入れた」
慎太郎は言葉を失った。16歳での結婚。法律上は可能だが、現代の日本社会においては決して一般的な選択ではない。あのヤンチャだったみどりが、誰かの妻になっているという事実が、うまく頭の中で処理できなかった。
「そうか……。相手は?」
慎太郎の問いに、みどりは少しだけ口角を上げた。だが、その瞳は全く笑っていなかった。
「死んだ」
換気扇の低く唸る音が、やけに大きく耳に響いた。
「……え?」
「去年の春。バイク乗ってて、交差点でトラックに突っ込んだ。即死だったらしいよ。警察から電話かかってきてさ、最初は新手の詐欺かと思ったんだけど。病院着いたら、白い布被せられててさ。なんか、ドラマみたいだなって思った」
淡々とした声だった。まるで、テレビのニュースで聞いた遠い国の出来事を語るような、感情の抜け落ちた声。
だが、カウンターの上のスマートフォンの横に置かれた彼女の右手は、強く握り込まれ、関節が白く浮き出ていた。
慎太郎は息を呑んだ。
言葉が、見つからなかった。
「……」
何か言葉をかけなければ。そう思うのに、喉の奥が張り付いたように動かない。
「ご愁傷様」という定型句は、あまりにも薄っぺらすぎた。「辛かったな」という同情は、彼女の固く握りしめられた拳の前では、ただの暴力でしかない気がした。
重い沈黙が落ちる。
「なんだよ、なんか言えよ。気まずいじゃん」
みどりが無理に明るい声を作って笑った。
慎太郎は深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。
「いや……。お前が、あんまり普通に言うから」
「泣き喚いたって生き返んないしね。それに……泣いてる暇もなかったから」
みどりはそう言うと、伏せてあったスマートフォンを裏返し、画面を指先でタップした。待ち受け画面が明るく光る。
「ガキがいるんだ」
慎太郎は、彼女の手元に視線を落とした。
ひび割れた保護フィルムの下に映っていたのは、よちよち歩きの小さな男の子の写真だった。みどりのような赤みがかった髪と、大きな丸い瞳。公園の遊具にしがみついて、カメラに向かって無邪気に笑っている。
「1歳半の、男の子。湊っていうの」
みどりは画面の中の息子を愛おしそうに見つめながら、静かに言った。その一瞬だけ、彼女の横顔から年齢不相応な硬さが消え、母親としての柔らかい光が宿った。
同世代の少女たちが、流行りの服や恋愛、進学の悩みで一喜一憂しているこの時間に、彼女は油にまみれ、火花を浴びて、一人で親としての責任を背負い込んでいる。世間の冷たい目や、無遠慮な好奇心に晒されながら、決して弱みを見せまいと歯を食いしばって生きている。
自分はどうだ。
仕事の重圧から逃げ出し、期待に応えられなかった自分を許せず、部屋のベッドで天井の木目を数えるだけの日々を送っている。自分の抱えている悩みが、ひどくちっぽけで、個人的で、甘ったれたものに思えてきた。
彼女は、逃げる場所などどこにもない現実のど真ん中で、たった一人で両足を踏ん張って立っているのだ。世界を呪うでもなく、悲劇のヒロインに酔うでもなく、ただ「親父の工場を手伝っている」と笑って。
慎太郎は、かけるべき言葉を探すのをやめた。
同情も、慰めも、彼女には必要ない。ただ事実を受け止めること。今の自分にできるのは、それだけだ。
「……そっか」
慎太郎は短くそう言い、グラスの残りのビールを煽った。
みどりは一瞬だけ驚いたように目を見開き、それから、ふっと肩の力を抜いた。
「うん」
それ以上の言葉は交わされなかった。
頭上を、再びローカル線の重い車体が通り過ぎていく。地響きのような轟音が、二人の間の沈黙を優しく塗りつぶしてくれた。
「みどりちゃん」
不意に、焼き台の奥から女将が声をかけた。
「そろそろ、時間じゃないのかい。おじいちゃん、明日は早いんだろ」
壁の油じみた古時計を見ると、時刻は午後9時を回ろうとしていた。
みどりは「あっ」と小さく声を上げ、慌ててスマートフォンをポケットに突っ込んだ。
「やば。もうこんな時間か。じいちゃんに預けてるから、そろそろ戻んないと」
パイプ椅子から立ち上がり、作業着のポケットから使い込まれた小さな革の小銭入れを取り出す。
「女将さん、お会計。ごちそうさん。しんちゃんの分もそこから引いといて」
くしゃくしゃになった千円札を数枚、カウンターの上に置く。
「いや、俺が払う」
慎太郎は慌てて財布を取り出そうとしたが、みどりは手でそれを制した。
「いいから。初任給出たって言ったでしょ。今日は私のおごり。あんた、無職なんでしょ今」
「……休職中だ」
「同じようなもんでしょ」
みどりはイタズラっぽく笑うと、背を向けて引き戸へと歩き出した。
「じゃ、また」
ガラガラと音を立てて引き戸が開き、初夏の夜風が店内に流れ込んでくる。みどりの後ろ姿が暗がりに吸い込まれ、すぐに引き戸が閉まった。
慎太郎は、カウンターに残された空のウーロン茶のグラスを見つめた。氷が溶けて、縁に水滴が光っている。
女将は網の上の灰を片付けながら、それ以上何も言わなかった。
18歳の少女が背負っているものの重さ。それを誰にも悟らせず、笑って「奢ってやるよ」と言ってのける不器用な強さ。
慎太郎は自分の両手を見た。
今は、少し震えているだけの、何も掴んでいない空っぽの手だ。
慎太郎は立ち上がり、「ごちそうさまでした」と短く頭を下げて店を出た。
高架下の冷たいコンクリートの空気が、火照った顔に心地よかった。ポケットに両手を突っ込み、暗い夜道を歩き出す。




