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金曜20時、高架下にて待ち合わせ。〜元ヤン幼馴染は18歳の母〜  作者: 伊達ジン


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第2話 高架下のサンクチュアリ

 夜の帳が完全に下りた地方都市の空気は、初夏特有の生温かい湿気を帯びていた。


 あてもなく歩く慎太郎の足音だけが、シャッターの閉まった商店街のアーケードに虚ろに響いている。すれ違う人はおらず、等間隔に並んだ街灯の白い光が、アスファルトの上に短い影を作っては消していく。


 点滅する黄色い信号機を見上げながら、短く息を吐いた。実家の冷えた布団から抜け出し、財布とスマートフォンだけをポケットに突っ込んで夜の散歩に出る。それが、ここ数日の唯一の日課になっていた。


 国道を走り抜ける長距離トラックの排気音が、遠くのほうでくぐもって聞こえる。


 無意識のうちに足を向けていたのは、駅の反対側にある高架下のエリアだった。コンクリートの太い柱が等間隔に並ぶ薄暗い空間に差し掛かると、頭上を数両編成のローカル線が通り過ぎていった。


 ゴゴゴゴという重低音が空気を震わせ、足元の地面からかすかな振動が伝わってくる。


 その轟音が遠ざかると同時に、暗がりの中にポツリと浮かび上がる赤い灯りが視界に入った。


 錆びたトタン屋根の下で揺れる、『鳥寅』と黒々と書かれた古びた赤提灯。  小さな換気扇が低い唸り声を上げながら、真っ白な煙を外へ吐き出している。焦げた醤油の香ばしさと、空腹の胃袋を直接鷲掴みにして揺さぶるような、強烈な豚の脂の匂いが風に乗って漂ってきた。


 数日間、まともな固形物を口にしていなかった胃が、きゅうと小さく鳴った。  慎太郎は引き戸の前に立ち、手垢で黒ずんだ木の取っ手に手をかけた。


 軋む木の引き戸は、予想以上に重かった。少し力を込めて横に滑らせると、ガタガタと鈍い音を立てて隙間が開く。途端に、換気扇では吸い切れていない煙が足元へ流れ出してきた。


 慎太郎はそのまま店内へと足を踏み入れた。 


 6畳ほどの狭い店内は、年季の入ったL字型の白木のカウンターが空間のほとんどを占めていた。壁のあちこちには、油で黄ばんだ手書きの短冊メニューが規則性なく貼られている。奥の壁掛けテレビからは、バラエティ番組のわざとらしい笑い声が小さな音量で流れていた。


 客の気配は少なく、奥の席に人影が1つあるだけだ。


「いらっしゃい。適当に座って」


 焼き台の奥から声をかけてきたのは、白い割烹着姿の女将だった。60代半ばくらいだろうか。短く切り揃えた髪と化粧っ気のないさっぱりとした顔立ちの彼女は、慎太郎の顔をチラリと見たが、特に何の反応も示さず、手元の団扇をパタパタと動かした。


 入り口に一番近いカウンターの隅に腰を下ろす。パイプ椅子の座面はビニールが破れ、中の黄色いスポンジがはみ出していた。


「飲み物は」

「……瓶ビールを。あと、もつ煮込み」


 久しぶりに声を出したせいか、自分の声がひどく掠れて聞こえた。


 すぐに、表面に細かい水滴がついた冷えた中瓶とガラスのコップ、そして小鉢に盛られた煮込みがドンと目の前に置かれた。


 慎太郎は自らコップにビールを注いだ。トクトクというくぐもった音が鳴る。きめ細かい泡が盛り上がるのも待たず、一気に喉へと流し込んだ。


 冷たい液体が、空っぽの胃の腑に真っ直ぐに落ちていく。炭酸の強い刺激と、アルコール特有の苦味が内臓に染み渡る。美味いとは感じなかったが、身体の奥底に鈍い熱が生まれ、指先の感覚が少しだけ輪郭を取り戻していくような気がした。


 割り箸を割り、もつ煮込みに手を伸ばす。よく煮込まれて角の取れた大根と、柔らかい豚モツ。濃厚な味噌の味が口の中に広がる。咀嚼し、飲み込む。カロリーが熱となって体内に吸収されていくのを確かめるように、ゆっくりと箸を動かした。


 ふと、視界の端で動くものがあった。


 カウンターの奥、テレビの真下に座っている客。


 薄暗い店内の照明と漂う煙のせいで最初はよく見えなかったが、目を凝らすと、それが若い女であることに気づいた。いや、まだ少女という響きの方が似合うかもしれない。


 彼女は、くすんだ紺色の作業着を着ていた。ダボついたその服は明らかにサイズが合っておらず、肩から少しずり落ちている。赤みがかった明るいウェーブヘアを後頭部で無造作にクリップで留め、そこから短い後れ毛が白い首筋に落ちていた。


 テレビの青白い光に照らされた横顔は、すっぴんにもかかわらず目を引くほど彫りが深く華やかだった。彼女はカウンターに両肘をつき、ウーロン茶らしきグラスの氷を指先でカラカラと回しながら、ぼんやりと画面を眺めていた。


 その横顔の輪郭に、慎太郎は微かな既視感を覚えた。


 氷がグラスに当たる一定のリズム。カラン、カランという音が数回続いた後、ふいに彼女が顔を向けた。


 パチリと、目が合う。


 鹿のように大きく、どこか勝気な光を宿した瞳だった。一瞬、彼女の目が僅かに見開かれ、氷を回していた指がピタリと止まる。


 換気扇の唸る音だけが、二人の間を通り抜けていく。


「……しん、ちゃん?」


 煙草焼けしたような、少しハスキーな声だった。


 その独特の抑揚に、慎太郎の脳裏で古い記憶の断片がフラッシュバックした。泥だらけの半ズボン。絆創膏だらけの膝。夏の川原で水切りをして、男の子に混じって取っ組み合いの喧嘩をし、泣かされても絶対に謝らなかった近所のガキ大将。


「……みどり、か?」


 無意識のうちに、掠れた声で名前を口にしていた。


 松井みどりは短く息を吐き、口角を少しだけ上げた。


「マジか。すげえ久しぶりじゃん。生きてたんだ」


 気だるげな口調は昔のままだが、目の前にいるのはもう、ランドセルを背負って鼻の頭を擦りむいていた子供ではない。


 みどりはグラスを持ったまま立ち上がり、慎太郎の隣の席へと移動してきた。パイプ椅子がギシリと鳴って沈み込む。


 距離が縮まったことで、彼女から漂う匂いが明確になった。甘い香水やシャンプーの匂いではない。鉄粉の匂い。機械油の匂い。そして微かにツンとする汗の匂い。それが、彼女の着ている分厚い作業着から立ち上っていた。


「いつこっち帰ってきたの。ずっと東京にいるって、親父から聞いてたけど」


 みどりは顔を覗き込むようにして言った。その大きな瞳が、慎太郎の伸び放題の無精髭や、疲労の色が染み付いた肌を静かに観察しているのがわかった。


「少し前だ。……ちょっと、休みを取っててな」


 慎太郎は目を伏せ、手元のグラスについた水滴を指でなぞった。


「ふーん」


 みどりはそれ以上何も聞かなかった。どうしてそんな顔色をしているのか、休みの理由は何か。詮索するような言葉は一切口にせず、手元のウーロン茶のグラスを傾けた。


 カチャリ、と音がした。


 見ると、みどりが慎太郎のビール瓶を手に取っていた。そのまま、慎太郎の空になりかけていたグラスに、トクトクと琥珀色の液体を注ぎ足す。


「飲めば。顔色、最悪だよ」


 彼女は自分のグラスを持ち上げ、慎太郎のグラスの縁に軽く当てた。チン、とくぐもった音が鳴る。


 慎太郎は、グラスから離れていくみどりの手を見た。


 細く長い指だったが、関節のあちこちに大小の切り傷があり、短い爪の隙間には石鹸では洗い落とせなかったであろう黒い油汚れがこびりついている。右手の人差し指には、無骨なテーピングが巻かれていた。日々、火花を浴びて重い金属と格闘している人間の手だった。


「お前は……今、何をしてるんだ。その服」

「ああ、これ? 親父の工場で下働き。溶接とか、旋盤とか、適当にね。人手足りないし」


 みどりは自分の作業着の襟を軽く引っ張り、つまらなそうに言った。


「そうか」

「うん」


 会話が途切れる。


 沈黙が落ちた。だが、その沈黙は不思議と苦痛ではなかった。気まずさを埋めるための言葉を探す必要もなく、ただテレビのバラエティ番組の音と、隣で氷を転がす音だけが均等に響いている。


「女将さん、ねぎま2本。塩で」


 みどりがカウンターの奥に向かって声を張った。


「あいよ。お兄さんの分も焼くかい」

「……いや、俺は」


 慎太郎が断ろうとするより早く、みどりが口を挟んだ。


「4本焼いて。この人、なんも食ってない顔してるから」


 女将が短く応え、網の上に串が並べられる。チリチリと肉の表面が焼ける音がし、やがて脂が炭の上に落ちてジュッという音に変わった。食欲を煽り立てる濃厚な匂いが立ち昇り、女将が団扇でパタパタと煙を散らす。


 みどりは頬杖をついたまま、チラリと慎太郎を見た。


「奢ってやるよ。初任給、出たばっかだし」


 少しだけ得意げに笑うその顔は、ほんの一瞬だけ、昔のガキ大将だった頃の彼女に戻ったように見えた。


 そのぶっきらぼうな申し出と、屈託のない表情。慎太郎の胸の奥で固く結ばれていた何かが、少しだけ解れた気がした。


「……悪いな。いただきます」

「ん」


 みどりは短く鼻を鳴らし、再びテレビへと視線を戻した。


 再び高架の上を、重い鉄の塊が通り過ぎていく。地響きのような音が店内を揺らし、グラスの中のビールが微かに波打った。


 電車の音が遠ざかった後、女将が黙って目の前の皿に、こんがりと焦げ目のついたねぎまを置いた。ネギの甘い香りと、滲み出る肉汁。


 慎太郎は黙って串に手を伸ばした。隣に座るみどりの静かな気配と、炭火の確かな熱だけを感じながら、ゆっくりと口に運んだ。

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