第56話 秘密の猛特訓
秋の日は釣瓶落としというが、九月も半ばを過ぎると、午後六時を迎える頃には工場の周囲はすでに薄暗い青に沈んでいる。
開け放たれたシャッターから吹き込む風は、夏のまとわりつくような湿気をすっかり落とし、肌にひんやりとした涼気を運んできていた。
慎太郎は、今日から本格稼働を始めたNC旋盤の主電源を落とし、カバーに付着した切削油と金属の切り屑をウエスで丁寧に拭き取っていた。プログラムによる自動制御で寸分違わぬパーツを削り出すこの機械の導入により、工場の歩留まりは飛躍的に改善される。だが、そのプログラミングから稼働時の微調整までは、今のところすべて慎太郎が一人で担っていた。
「お疲れ。あとの戸締まりは俺がやっておくから、上がっていいぞ」
慎太郎が声をかけると、自分の担当していた汎用旋盤の清掃を終えたみどりが、いつもより少しだけそわそわとした様子で頷いた。
「うん、ごめん。今日、ちょっと野暮用あるから先上がるね」
みどりは足早に更衣室へ向かい、ダボついた作業着から私服のパーカーとジーンズに着替えると、「お先に」と短く言い残して逃げるように工場のシャッターをくぐっていった。
その後ろ姿を見送りながら、慎太郎は首に巻いていたタオルで手を拭った。
最近、週に二日ほど、みどりはこうして定時きっかりに工場を後にする。以前なら、慎太郎が新しい機械の設定をしていると「それ、どうやってんの」と興味津々で残業したがった彼女にしては、ひどく珍しい行動だった。
詮索する気はなかった。彼女には彼女の生活があり、若い彼女らしい息抜きも必要だろう。だが、慎太郎の鋭い観察眼は、彼女がただ遊びに行っているわけではないことを静かに見抜いていた。
彼女が足早に去っていく時の横顔には、どこか戦地へ赴くような、切実な熱と緊張が宿っていたからだ。
★★★★★★★★★★★
駅前の雑居ビル。その三階にあるパソコン教室は、町工場に染み付いた油と鉄の匂いとは無縁の、無機質で乾燥した空気に満ちていた。
パイプ椅子に浅く腰掛けたみどりは、モニターの強烈なブルーライトに目を細めながら、右手で握り込んだマウスと格闘していた。
画面に表示されているのは、二次元CADソフトのインターフェースだ。複雑なグリッド線と、無数のアイコンが並ぶツールバー。汎用旋盤の重い鉄のハンドルを回すのとは全く違う、微細な手首の動きと、指先のタイピングが求められる。
「えっと、ここからオフセットで……三ミリ……」
みどりは、机の横に広げたノートに書き留めた手順を指でなぞりながら、マウスを操作する。
不格好にマウスを包み込むのは、いつもの油にまみれた手だった。かつて溶接でこしらえた親指の付け根の火傷痕や、短く切り揃えられた爪の奥に沈む落ちない黒ずみが、無機質なオフィスのデバイスの上で場違いなほど泥臭く、しかし確かな意志を宿してカチカチと不器用な音を立てていた。
昨日、慎太郎が電話の応対をしながら片手でキーボードを弾くように叩いていた姿が、まぶたの裏に焼き付いている。
あの淀みない動き。クライアントからの理不尽な要求にも瞬時に代替案を提示し、数字の裏にある意味を理解して最適解を導き出す、圧倒的な頭脳。
自分は今、ただ彼が敷いてくれた安全なレールの上で、言われた通りに鉄の荒削りをしているだけだ。もし彼がいなくなれば、あるいは彼が倒れれば、この工場は明日にも立ち行かなくなる。
(そんなの、絶対に嫌だ)
みどりは奥歯を強く噛み締め、キーボードの『Backspace』キーを乱暴に叩いた。引くべき線の起点を間違えたのだ。
「松井さん、焦らなくて大丈夫ですよ。まずは基本のコマンド操作を、身体に覚えさせましょう」
巡回してきた初老の講師が、温和な声で声をかけてくる。
「はい……すいません。ちょっと力入っちゃって」
みどりは小さく頭を下げ、再び画面に向き直る。
レイヤー、トリム、フィレット。分からない専門用語だらけで、頭がパンクしそうになる。画面の座標軸を見つめ続けていると、目の奥がジンジンと痛んできた。それでも、彼女の大きな瞳には、一歩も引く気のない強い光が宿っていた。
少しでもいい。あの人の背中に追いつきたい。
いつか彼の隣に立って、同じ図面を見て、同じ言葉で仕事の話ができるようになりたい。ただ守られているだけの、可哀想な子供でいたくない。
その一心だけで、みどりはブルーライトに目を焼き付けながら、不格好なタイピングをひたすらに繰り返した。
★★★★★★★★★★★
夜九時。
松井家の居間には、古い掛け時計の秒針の音と、石油ストーブの微かな燃焼音だけが響いていた。秋が深まり、夜の冷え込みが少しずつ厳しくなってきている。
慎太郎はちゃぶ台にノートパソコンを広げ、来月の資金繰り表と、海外案件のメールチェックを行っていた。
その足元では、先ほどまで激しい大運動会が繰り広げられていた。
茶トラのムギの太い尻尾に向かって、ポメラニアンのポンが短い足で果敢にアタックを繰り返す。ムギは「シャー」と低く威嚇しつつも、決して爪を出さずに前足でポンをいなし、ポンはそれを遊びだと勘違いしてさらに「きゅん!」と興奮する。生後数ヶ月の子犬の無尽蔵の体力に、さすがのムギも辟易しているようだった。
だが、慎太郎がにゅうめんを運んで居間に戻った時には、二匹はストーブの前に折り重なるようにして、まるで急に電池が切れたように静まり返っていた。ムギの温かい腹の横に、ポンが短い鼻先を突っ込んだままスースーと寝息を立てている。ムギも、鬱陶しそうにしながらも、諦めたようにその小さな体を前足で抱え込むようにして、揃って深い眠りに落ちていた。
二匹の微笑ましい寝顔を見ながら、慎太郎は無意識のうちに口角を上げ、スマートフォンを取り出してその愛らしい姿を写真に収めた。
こんな何気ない日常の風景に心が和む自分に、少しだけ驚く。かつての自分にとってのサンクチュアリは、金曜二十時の高架下の赤提灯だけだった。だが今は、この古びた居間にも、確かな平穏が存在している。
「ただいま……」
玄関から、ひどく疲労の滲む小さな声が聞こえた。
慎太郎はノートパソコンを閉じ、立ち上がって台所へ向かう。
居間に入ってきたみどりは、ソファに倒れ込むようにして座り、深く息を吐いた。ジーンズにパーカーというラフな格好だが、その背中は一回り小さく見えた。
「おかえり。湊は親父さんの部屋でもう寝てるぞ」
慎太郎が声をかけると、みどりは「うん……」と力なく頷いた。
彼女が床に置いたキャンバストートバッグの口から、分厚いA4サイズのテキストの角が少しだけ覗いている。表紙には『実践CAD・製図入門』という文字が印刷されているのが、慎太郎の視力ならはっきりと読み取れた。
慎太郎は何も言わず、コンロの火をつけた。
あらかじめ引いておいた昆布と鰹の合わせ出汁を雪平鍋で温め、薄口醤油とみりんで味を調える。そこに、すりおろした生姜をたっぷりと加え、下茹でしておいた細い素麺を投入した。仕上げに、刻んだ青ネギとごま油をほんの数滴垂らす。
五分もかからずに完成した温かいにゅうめんを小ぶりの丼に移し、慎太郎はそれをみどりの前のちゃぶ台に置いた。
「冷えてただろ。しっかり噛んで食えよ」
立ち昇る生姜と出汁の香りに、みどりの瞳がわずかに見開かれた。
「……ありがとう」
みどりは両手で丼を包み込むようにして持ち、スープを一口飲んだ。熱い液体が食道を通り、胃の底に落ちていくのを感じて、彼女は「はぁ……」と長い安堵の息を漏らした。
「すっげえ美味しい。身体の芯から温まる」
「お代わりはあるからな。手、冷え切ってたからな」
慎太郎は向かい側に腰を下ろし、みどりの手元を静かに観察した。
素麺を啜るために箸を持つ彼女の右手。その手の甲から手首にかけての筋肉が、不自然に強張っているのがわかった。旋盤の重いハンドルを力任せに回した時の疲労ではない。慣れないマウスを長時間、神経を尖らせてミリ単位で操作し続けたことによる、独特の緊張と疲労だ。
バッグから覗くテキスト、定時上がりの理由、そしてこの手。
すべてが繋がり、慎太郎の中で一つの明確な答えが出た。だが、彼はそれを言葉にして指摘するような野暮はしなかった。
「無理してないか」
慎太郎は、ただ短くそう問いかけた。
みどりは素麺を飲み込み、顔を上げた。彼女の大きな瞳が、慎太郎の静かな視線と交差する。
数秒の沈黙の後、みどりはふっと口角を上げ、少しだけ悪戯っぽく笑った。
「してないよ。ちょっと、やりたいこと見つけただけだから」
それは虚勢や強がりではなく、自らの足で立とうとする、彼女なりの小さな決意の表れだった。
「そうか。ならいい」
慎太郎は静かに頷き、それ以上は何も聞かなかった。
みどりは再び、黙々と素麺を啜り始める。
ストーブの暖かな空気の中、二人の間に流れる時間は、無駄な言葉を交わさずとも、互いの体温と想いを感じられるほどに、静かで、しかしどこか新しい変化の予感を孕んでいた。
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