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金曜20時、高架下にて待ち合わせ。〜元ヤン幼馴染は18歳の母〜  作者: 伊達ジン


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第55話 追いつきたい背中

 初秋の乾いた風が開け放たれたシャッターから吹き込み、足元のコンクリートを転がる金属の削り屑を微かに揺らした。


 みどりは油で黒ずんだ保護メガネを額に押し上げ、大きく息を吐き出した。目の前の旋盤からは、まだ微かに熱気が立ち昇り、焦げたような切削油の匂いが鼻をつく。首に巻いたタオルで汗ばんだ首筋を拭い、軍手を外して事務所の方へと視線を向けた。


 ガラス張りの間仕切りの向こう側。

 薄暗い作業場とは対照的に、蛍光灯の白い光に照らされた事務所のデスクで、慎太郎が電話機を耳に当てていた。


「ええ、そのロット数であれば、来月の第二週には納品可能です。ただし、指定された特殊合金の仕入れ価格が高騰しておりまして、前回の単価から3パーセントほどの価格改定をお願いしたい。……はい、代替素材の提案も用意してあります。後ほど資料をメールでお送りします」


 ガラス越しでも聞こえてくる、低く、一切の淀みがない声。

 数分間のやり取りの後、慎太郎は静かに受話器を置いた。手元に広げられた資料にペンで素早く何かを書き込み、すぐに横にあるパソコンのキーボードへ手を伸ばす。カチャカチャという小気味良いタイピング音が、薄いガラスの向こうから一定のリズムで響いてきた。


 みどりはその横顔から、しばらく目を逸らすことができなかった。


 慎太郎がこの工場の「専務」として本格的に動き出してから、半年が経つ。

 すごい、と思う。純粋な尊敬と、自分たち家族を救ってくれたことへの底知れない感謝がある。

 だが最近、彼の背中を見るたびに、みどりの胸の奥で、正体のわからない焦りのようなものがチリチリと燻り始めていた。


「……休憩にするか」


 事務所から出てきた慎太郎の声に、みどりはハッとして我に返った。

 彼は腕まくりをしたネイビーのカーディガン姿のまま、壁の掛け時計を見上げた。時刻は午後1時を回っている。


「俺はこれから、少し銀行と商工会議所に回ってくる。融資の借り換えの件で、詰めなきゃいけない話があってな。戻りは3時頃になる」

「うん、わかった。気をつけてね」

「飯は適当に済ませておいてくれ」


 慎太郎はそう言い残し、ブリーフケースを持って工場を出て行った。

 遠ざかる車のエンジン音が完全に聞こえなくなるのを待ってから、みどりは誰もいなくなった事務所へと足を踏み入れた。


 デスクの脇に置かれた段ボール箱の中では、子猫のムギが丸まって眠り、そのすぐ横の床で、ポメラニアンのポンが短い足を投げ出して腹を見せていた。換気扇の低い唸り声だけが響く、平和な昼下がりだ。

 みどりは自分のデスクの引き出しを開け、黄色い箱を取り出した。


 カロリーメイトのチーズ味。

 親父が昔から、忙しい時の腹の足しにと買い置きしているものだ。

 ミシン目に沿って紙箱を破り、銀色のフィルムを乱暴に剥がす。中から、乾燥したブロック状の固形物が顔を出した。それを一口齧る。


 モソモソとした粉っぽい食感が、口の中の水分を一気に奪っていった。チーズの風味が鼻に抜けるが、ただ栄養素の塊を咀嚼しているという無機質な感覚しかない。急いで飲み込もうとすると、喉の奥に粉が張り付いてむせそうになった。


 喉の渇きを潤すため、みどりは流しの脇にあった電気ケトルのスイッチを入れた。

 戸棚から縁の欠けたマグカップを取り出し、底にインスタントコーヒーの粉を適当に振り入れる。そこに、タッパーに入っていた純黒糖の欠片を二つ、無造作に放り込んだ。沸きたての湯を注ぐと、黒糖がボコボコと小さな泡を立てながら溶け出し、焦げたような独特の甘い匂いが湯気とともに立ち昇った。


 黒糖コーヒーを一口すする。

 強烈な甘さと、インスタント特有の平坦な苦味が、舌の上で強引に混ざり合う。決して美味しいとは言えないが、疲労の溜まった脳に無理やり糖分を叩き込むには一番手っ取り早い。


 みどりはデスクのパイプ椅子に深く腰掛け、マグカップの縁を両手で包み込んだ。

 ふと、隣にある慎太郎のデスクを見る。

 そこには、彼のノートパソコンと、背表紙が完璧に揃えられたクリアファイル、そして計算機が、定規で測ったように正確な位置に配置されていた。机の表面には埃ひとつ落ちていない。


 彼の作る完璧な料理を思い出す。それに比べて、自分のこの食事はどうだ。

 ただカロリーと糖分を胃袋に流し込んでいるだけ。自分一人だと、日々の食事すらまともに組み立てられない。


「……20歳になったんだけどな」


 誰もいない事務所で、みどりはポツリとこぼした。

 パイプ椅子が、体重を預けるたびにギシリと情けない音を立てた。

 カレンダーの数字は確かに進んだはずなのに、現実は何も変わっていない。


 自分はまだ、彼の圧倒的な庇護の下で、言われた通りに旋盤のハンドルを回しているだけの子供だ。彼がいなければ、工場の資金繰りの数字すらまともに読めないし、海外からのメール一通返すこともできない。トラブルが起きれば彼がすべてを丸く収め、自分はただ、その安全なレールの上を走っているだけ。

 あの時、すべてを一人で背負い込んで空回りしていた頃の方が、まだ「自分の足で立っている」という実感があったのではないか。そんな馬鹿げた考えすら頭をよぎる。


 口の中のカロリーメイトを、ぬるくなった黒糖コーヒーで無理やり胃の奥へ流し込んだ。

 甘ったるい後味が、どうしようもなく苦く感じられた。


★★★★★★★★★★★


 午後3時過ぎ。

 予定通り工場に戻ってきた慎太郎は、ジャケットを脱ぐなり、みどりの作業台に一枚の図面を広げた。


「みどり、次のロットの話だ」

「うん」

「この部品だが、クライアントから公差の基準を一段階厳しくしてほしいと要請があった。単価は上がるが、手作業の削り出しでは歩留まりが悪くなる」


 慎太郎は図面の複雑な曲面部分をペン先で叩いた。

 みどりの視線が、そこに書き込まれたミリ単位のさらに下の数字を追う。


「だから、ここはNC旋盤のプログラムを俺が書き換えて、自動切削で処理する。お前は、こっちの基礎部分の荒削りと、最後のバリ取りだけをお願いできるか」


 極めて論理的で、最も効率の良い判断だった。

 不良品はゼロになり、みどりは単純な作業に集中でき、工場の利益も最大化される。誰も傷つかず、誰も損をしない、完璧な最適解。


 だが。

 みどりは図面を見つめたまま、作業着のズボンの脇で、油まみれの拳をギュッと握りしめた。


「……私じゃ、ダメ?」

「ん?」

「私に、そのNCのプログラム、組ませてくれないかな」


 自分でも驚くほど、声が硬くなっていた。

 慎太郎は少しだけ目を丸くし、それから微かに眉をひそめた。


「やる気があるのはいいことだが、今回のロットは納期がタイトだ。お前がゼロからプログラムの言語を覚えてテスト切削を繰り返している時間はない。ミスが出れば、素材のロスも馬鹿にならない」

「わかってる。でも……」

「まずは、今任せている基礎の精度を完璧にすることだ。ステップを飛ばす必要はない。焦るな」


 静かな声だった。

 反論する言葉を探そうと口を開きかけたが、みどりの喉からは空気しか出てこなかった。


「……わかった。荒削り、やっとく」


 みどりは顔を背け、乱暴に保護メガネを下ろした。

 スイッチを入れると、旋盤のモーターが重い唸り声を上げ始める。


 慎太郎が足音を立てて事務所へ戻っていく気配を感じながら、みどりは刃を鉄の塊に押し当てた。

 キィィィン、という甲高い切削音が工場に響き渡り、オレンジ色の火花が飛ぶ。一つが作業着の袖に当たって小さく弾けたが、熱さは感じなかった。


 安全靴の中で足の指を丸め、奥歯を強く噛み締める。

 腹の底から湧き上がってくるのは、誰のせいでもない、紛れもない自分自身への怒りだった。


 守られているだけの子供でいたくない。

 彼の横顔を、ただ下から見上げているだけの自分はもう嫌だ。

 追いつきたい。隣に立ちたい。彼の見ている複雑な数字と論理の世界の、せめて端っこだけでもいいから、自分の足で踏み入りたい。


 火花に照らされたみどりの大きな瞳は、コンクリートの床に落ちる削り屑を見つめたまま、これまでにない鋭く、切実な光を宿していた。

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