第54話 不格好なネックレス
頭上を数両編成のローカル線が通り過ぎるたび、重い金属音が腹の底を震わせる。
金曜日の20時。
初秋の涼を帯びた風が吹き抜ける高架下の赤提灯『鳥寅』は、一週間の労働を終えた作業着姿の男たちの熱気と、焦げた醤油と脂の匂いで満ちていた。入り口のビニールシートが風でバタバタと音を立てるたび、店内に充満した煙が外の暗闇へと吸い出されていく。
「はいよ。みどりちゃん、20歳のお誕生日おめでとう! 今日は特別に、うちの看板メニュー全部盛りだ!」
ダミ声の女将が、ドンッと豪快な音を立ててテーブルの中央に大皿を置いた。
年季の入った傷だらけの皿の上には、炭火でこんがりと焼き上げられたモツ焼きが山のように積まれている。カシラ、シロ、レバー、ハツ。網の焼き目がしっかりとついた表面に濃厚なタレが絡み、炭の熱で脂がパチパチと弾けている。食欲を直撃する強烈な匂いが、週末の酒を求める客たちの喧騒に混ざって立ち上っていた。
「女将さん、ありがと」
みどりは照れくさそうに笑いながら、目の前に置かれた中ジョッキを見つめた。
いつもなら、そこに注がれているのは氷がたっぷり入った琥珀色のウーロン茶だ。しかし今日、ジョッキの中を満たしているのは、黄金色の液体と、その上に乗った真っ白で細やかな泡だった。グラスの表面には無数の水滴がびっしりとつき、テーブルの表面に冷気を落としている。
「……なんか、緊張する」
「毒じゃない。飲んでみろ」
慎太郎が自分のジョッキを持ち上げると、みどりも両手でしっかりとジョッキの分厚い取っ手を握り、カチンと軽い音を立ててぶつけ合った。
みどりはジョッキの縁にそっと口をつけ、恐る恐る液体を喉に流し込む。
ゴクリと小さな音がして、彼女の動きがピタリと止まった。
「……っ」
みどりはジョッキをテーブルに置き、眉間に深い皺を寄せてぶるりと身震いした。
「……苦っ。なにこれ、全然美味しくないんだけど」
「最初はそんなもんだ。そのうち、この苦味が疲れを流す特効薬に思えてくる」
慎太郎がジョッキの半分を一気に空にして笑うと、みどりは恨めしそうに自分のジョッキを睨みつけた。それでも、タレのたっぷりとついたカシラの串を一口かじり、再びビールを流し込むと、「あ、でもタレの味はさっぱりするかも」と少しだけ納得したように頷いた。噛みごたえのある肉の旨味を、ビールの冷たい炭酸が鮮やかに洗い流していく感覚に気づいたようだった。
「おっ、今日はみどりちゃんのハタチの祝いだろ? あんたたち、いつも来てくれてるから、とっておきのやつ開けてやるよ」
厨房の奥から戻ってきた女将が、分厚いガラスのコップを二つテーブルに置き、コルクを抜いたばかりの赤ワインのボトルを取り出した。
足のついた洒落たワイングラスなど、この店には存在しない。コップの表面ギリギリまで、なみなみと注がれたルビー色の液体が、頭上で揺れる赤提灯の光を反射して怪しく光った。
「モツには、こういう重たい赤が合うんだよ。サービスだから飲んでいきな」
女将の心意気に礼を言い、慎太郎はコップの赤ワインを口に含んだ。
タンニンの強い、どっしりとしたフルボディだ。確かに、シロの脂の甘みや、レバーの濃厚な鉄分を力強く受け止めてくれる。
みどりもコップを両手で持ち、少しだけ口をつける。渋みにわずかに顔をしかめたが、ビールよりもアルコールの熱が強いのか、彼女の頬がほんのりと薄紅色に染まり始めた。
換気扇が唸りを上げ、周囲の酔客たちの笑い声が交錯する中、慎太郎は作業着の内ポケットから、小さなベルベットの箱を取り出した。
テーブルの端、みどりのコップの隣にそれを静かに置く。
「……これ」
みどりの手が止まり、大きな瞳が箱と慎太郎の顔を交互にさまよった。
「20歳の祝いだ。開けてみろ」
みどりは息を詰め、指先についたモツのタレを紙おしぼりで念入りに拭き取ってから、恐る恐る箱の蓋を開けた。
黒いクッションの上に鎮座していたのは、細く繊細なプラチナのチェーンと、その中央でささやかながらも確かな光を放つ一粒のダイヤモンドだった。店内の薄暗い照明の中でも、その小さな石は周囲の光を正確に集め、鋭く澄んだ輝きを放っている。
「……嘘でしょ。これ……」
「仕事の邪魔にならないよう、一番小ぶりなものを選んだ」
みどりは箱を持ったまま、完全に言葉を失っていた。
瞬きも忘れ、ただじっとダイヤの輝きを見つめている。やがて、彼女はゆっくりと顔を上げ、少しだけ悲しそうな、困ったような笑顔を作った。
「……こんなの、私なんかに似合わないよ」
みどりは、自分の首元を隠すように触れた。
「似合わないなら、俺は贈らない」
慎太郎は立ち上がり、みどりの背後に回った。
彼女の小さな手から箱を取り上げ、チェーンの留め具を外す。
「髪、少し避けろ」
「……あ、うん」
みどりが肩をすくめ、赤みがかった髪を手で前へと流す。
慎太郎は彼女の細い首にプラチナのチェーンを回し、小さな引き輪を指先で慎重に留めた。ひんやりとした金属の感触が肌に触れ、みどりの肩が微かに跳ねるのがわかった。
「……どうだ」
慎太郎が席に戻ると、みどりは胸元に落ちた一粒のダイヤにそっと指で触れた。
無骨で分厚い作業着の胸元。油で荒れた肌。そこにポツリと乗った小さな輝きは、決して浮いているわけではなかった。
「……変じゃ、ない?」
「ああ。よく似合っている」
慎太郎が静かに、だが明確な肯定の言葉を落とすと、みどりは照れ隠しのように顔を伏せ、「ありがと……」と消え入りそうな声で呟いた。
彼女の胸元で、小さなダイヤが呼吸に合わせて微かに揺れていた。
★★★★★★★★★★★
鳥寅を出た二人は、夜風に吹かれながら町外れへと向かって歩いていた。
空には薄い雲が広がり、星は見えない。だが、虫の音が夏のものから秋のものへと変わりつつあり、アスファルトから立ち上る熱気もすっかり息を潜めていた。二人の足音が、静かな夜の道に等間隔で響いていく。
「まだ帰らないの?」
「今日はもう少し付き合え。せっかく酒が飲めるようになったんだからな」
慎太郎が足を向けたのは、町の外れにある古い神社の、長い表参道だった。
昼間は参拝客や地元の人間が行き交う石畳の道も、夜になれば人通りは絶え、等間隔に並んだ背の低い街灯だけがオレンジ色の光を落としている。鎮守の森から吹き下ろす風が、木々の葉をざわめかせていた。足元で乾いた落ち葉が擦れ合う音が響く。
その静かな参道の中腹に、看板もなく、ただ小さな真鍮のランプだけが灯る重厚な木の扉があった。
慎太郎が迷いなくそのアンティークの取っ手を引き、扉を開けると、カランと静かなベルの音が鳴る。
店内は、外界から完全に遮断された薄暗い空間だった。
磨き上げられた一枚板の長いカウンター。バックバーには琥珀色の液体が入ったボトルが幾何学的に並び、間接照明の光を妖しく反射している。空気を満たしているのは、静かに流れる古いジャズのレコード音と、甘く、深く、どこか焦げたような葉巻の香りだった。扉を閉めた瞬間、表参道の静けさとはまた違う、密度の高い夜の時間が流れ始める。
「……すっごい、大人の場所って感じ」
みどりは声を潜め、緊張した面持ちでカウンターの端の席に腰を下ろした。
無骨な作業着姿の彼女はこの空間にはひどく不釣り合いなはずだが、不思議と居心地の悪さは感じさせない。彼女自身が持つ、地に足のついた独特の静けさが、バーの重厚な空気に馴染んでいた。
「いらっしゃいませ」
白のバーテンダーコートを着た初老の男が、無駄のない所作で静かにコースターを置いた。
「俺はボウモアをロックで。あと、シガーを一本」
慎太郎の注文を受け、バーテンダーはみどりの方へ視線を向けた。
「お連れ様は、どのようなものがよろしいでしょうか」
「……えっと、お酒、今日初めて飲むんです。ビールはちょっと苦くて……甘酸っぱくて、さっぱりしたのがいいです」
みどりが正直に伝えると、バーテンダーは「かしこまりました」と微かに微笑み、静かに作業を始めた。
慎太郎の前に、分厚いロックグラスと、丸く削られた純氷、そしてアイラ・ウイスキーが注がれる。正露丸のような強烈なピート香が漂う。慎太郎は細身のシガーの先端をカットし、マッチでゆっくりと火をつけた。
紫煙が一本の線となって、薄暗い天井へと吸い込まれていく。
やがて、みどりの前に一杯のカクテルが置かれた。
「ソルティドッグでございます」
淡いピンク色をした液体。グラスの縁には、真っ白な塩が雪のように美しくあしらわれている。
「グラスの縁のお塩と一緒に、味わってみてください」
みどりは恐る恐るグラスを持ち上げ、塩のついた縁から液体を口に含んだ。
「……っ、しょっぱ!」
思わず目を丸くするみどりに、慎太郎はシガーを燻らせながら低く笑った。
「塩の後に、グレープフルーツの酸味とウォッカのアルコールが来る。悪くないだろ」
みどりはもう一度、今度は少し慎重に口をつける。
塩気が舌を刺激した直後、フレッシュな果汁の鮮烈な酸味と甘み、そしてウォッカの熱が喉の奥へと滑り落ちていく。
「……あ、美味しい。これ、すごく美味しい」
みどりの表情がパッと明るくなった。彼女は小さな子供が初めてのお菓子を見つけたような顔で、グラスの縁の塩を少しずつ舐めながら、大事そうにカクテルを飲み進めた。
慎太郎はウイスキーの氷をカラリと鳴らし、その様子を静かに見守っていた。
「すいません、次、違うの飲んでみたいです。もっとこう、葉っぱとか入ってるやつ」
ソルティドッグのグラスを空にしたみどりが、バーテンダーに身を乗り出して注文した。アルコールが回ってきたのか、彼女の口調はいつもより少しだけ滑らかで、頬は熱を帯びている。
「葉っぱ、でございますね。では、モヒートはいかがでしょうか」
バーテンダーがグラスにたっぷりのフレッシュミントを入れ、ペストルで潰す。爽やかな香りが、シガーの煙の匂いを切り裂いて広がった。クラッシュアイスが詰め込まれ、ラムと炭酸水が注がれる。細長いグラスの表面には、すぐに無数の水滴が浮かび上がった。
「……すごい、本当に葉っぱがいっぱい入ってる」
みどりはストローでモヒートを吸い上げ、ミントの爽快感に満足げなため息をついた。
ジャズのピアノソロが静かに響く中、みどりは不意にグラスから手を離し、自分の胸元――慎太郎が贈ったプラチナのネックレスに触れた。
「……しんちゃん」
「なんだ」
「私、これで少しは……大人の世界に追いつけたかな」
みどりはカウンターの木目を見つめたまま、ぽつりと呟いた。
慎太郎はシガーの灰を静かに落とし、残ったウイスキーを飲み干した。
「焦るな。お前はもう、俺が敵わないくらい立派に自分の世界で立っている」
慎太郎の言葉に、みどりはゆっくりと顔を上げた。
薄暗い照明の下、彼女の大きな瞳がモヒートのグラスの水滴を反射して潤んでいる。
「時間は、いくらでもある」
慎太郎が言うと、みどりは胸元のダイヤをそっと握りしめ、それから、今日一番の、柔らかく安心したような笑みを浮かべた。
表参道の夜は更け、シガーの甘い煙とミントの香りが、二人の間の静かな空間を優しく満たし続けていた。




