第53話 20歳の誕生日
まな板の上で、小気味良い包丁の音が規則正しく響いていた。
慎太郎は、長ネギの青い部分と薄切りにした生姜とともにじっくりと下茹でした豚バラ肉のブロックを、均一な5ミリ角のサイコロ状に切り揃えていた。弱火で一時間以上コトコトと煮込まれた肉は、竹串が抵抗なくスッと通るほどに柔らかい。包丁の刃が吸い込まれるように沈み込むたび、肉の断面からしっとりとした透明な脂が滲み出し、微かに甘い香りが立ち上った。
傍らのガラスボウルには、たっぷりの水で戻して細かく刻んだ干し椎茸、色鮮やかなにんじんの千切り、そして丁寧に水気を切ったひじきが準備されていた。
今日は沖縄風の炊き込みご飯、ジューシーを作る。
味の決め手は、豚肉を茹でたスープだ。慎太郎は茹で汁を目の細かい網で二度濾してアクと余分な脂を丁寧に取り除き、そこに利尻昆布と本枯節で引いておいた一番出汁をたっぷりと合わせた。鰹の華やかな香りと、豚の濃厚で野性味のある旨味が鍋の中で融合し、キッチンに深く複雑な匂いが立ち込めていく。
炊飯器の釜に、三十分ほど水に浸してザルに上げておいた米を移す。黄金色に透き通った合わせ出汁を注ぎ、薄口醤油、みりん、塩で味を調え、隠し味としてごま油をほんの数滴だけ落とした。切り分けた豚肉と具材を米の上に平らに広げる。米と水分の比率を目視で最終確認し、炊飯のスイッチを押し込んだ。
「きゅん」
足元で、小さな鳴き声がした。
視線を落とすと、ポメラニアンのポンが、短い尻尾をちぎれんばかりに振りながら、濡れた鼻先をヒクヒクさせて慎太郎を見上げている。豚肉と鰹出汁の匂いに堪えきれなくなったらしい。後ろ足で立ち上がり、前足で慎太郎のズボンの裾をカリカリと引っ掻いてくる。
その少し後ろでは、茶トラのムギが「人間の食べ物など興味はない」という顔で香箱を組んでいたが、その耳はしっかりと炊飯器の稼働音に向けられており、時折長い尻尾の先がパタン、パタンと床を叩いていた。
「お前たちの分はないぞ。大人しく待ってろ」
慎太郎が静かに声をかけると、ポンは残念そうに耳を伏せ、ムギの隣にぺたんと腹をつけて伏せた。
炊き上がるまでの時間を利用して、副菜と汁物の準備にかかる。
お新香は、昨晩から仕込んでおいた自家製の浅漬けだ。カブの実とキュウリを薄切りにし、細かく刻んだカブの葉とともに少量の塩と昆布茶で揉み込んである。小鉢に盛り付け、仕上げに削いだ柚子の皮をほんの少しだけ散らすと、台所の重い空気の中に爽やかな香りが広がった。
味噌汁は、残しておいた一番出汁を小鍋で火にかけ、石づきを取ったシメジと、水で戻した生ワカメを放つ。グラグラと煮立たせないように火を弱め、香りの良い合わせ味噌を丁寧に溶き入れた。
一連の作業を淡々とこなしながら、慎太郎の脳裏には、数日前の出来事が蘇っていた。
★★★★★★★★★★★
「武田さん、来週、みどりちゃんの20歳の誕生日ですよね」
夕方の保育園。西に傾いた太陽が、園庭のジャングルジムに長い影を落としていた。湊を迎えに行き、砂場で遊んでいた彼の手の泥をハンカチで拭き取っていた帰り際、担任の野村奈緒子が門のところで慎太郎を呼び止めた。彼女はいつものように、周囲の空気を明るく照らすような屈託のない笑顔を浮かべていた。
「プレゼント、何にするか決めました?」
「ああ。仕事で使える実用的なものがいいと思ってな」
慎太郎は、頭の中にあった計画を真面目に答えた。みどりは最近、新しい取引先からの要求水準が高まり、旋盤の細かい公差出しで目を酷使している。
「へえ、例えば?」
「ミツトヨの防クーラント仕様のデジタルノギスを新調してやろうかと。あとは、長時間の立ち仕事でも疲れにくい、アシックスの安全靴のハイエンドモデルだ。どちらも彼女の工場でのパフォーマンスを確実に上げるはずだ」
奈緒子の笑顔が、数秒間、完全に静止した。
瞬きすら忘れたように慎太郎の顔を見つめ、やがて、大きく息を吸い込んだ。
「あのですね、武田さん……! 女心がわかってないにも程がありますよ!」
「なんだと?」
「なんですかノギスって! 安全靴って! それはただの『業務用の備品』です! 経費で落とすやつです!」
「だが、一番実用的だろう。毎日使うものだし、安全に関わる」
「ちーがーうーでーしょー!!」
奈緒子は頭を抱え、大げさに天を仰いだ。首から下げたホイッスルがカチャカチャと音を立てる。
「20歳の女の子の誕生日プレゼントですよ!? もっとこう、キラキラしたものとか、身につけるものとかあるじゃないですか!」
「工場でキラキラしたものは危ない。機械への巻き込まれ事故の原因になる」
「仕事中に着けろなんて言ってません! 休日とか、武田さんと出かける時に着ける用の、アクセサリーです! ネックレスとか! わかります!?」
圧倒的な勢いに押し切られ、慎太郎は言葉に詰まった。
アクセサリー。
これまで、彼女に何かを飾るようなものを贈ろうと考えたことすら、慎太郎の思考回路には存在しなかった。彼女が生きているのは、油と鉄粉にまみれた過酷な現実だ。だからこそ、その現実を少しでも楽にするための「武器」を渡すのが最適解だと信じていた。
「……武田さん。みどりちゃんは、毎日作業着で、泥臭く頑張ってますけどね。でも、まだ19歳の、普通の女の子なんですよ」
奈緒子の声が、少しだけトーンを落とし、優しく響いた。
「たまには、自分が女の子扱いされてるって、実感させてあげてくださいよ」
★★★★★★★★★★★
『ピーッ、ピーッ』
炊飯器の電子音が、慎太郎を回想から引き戻した。
蓋を開けると、もうもうと立ち上る白い湯気とともに、豚肉と出汁の暴力的なまでに美味そうな香りがキッチンいっぱいに広がった。しゃもじで底から大きくかき混ぜると、醤油と出汁を吸ってほんのりと色づいた米粒が、脂を纏って艶やかに光っている。底の方には、香ばしそうな薄茶色のおこげができていた。
『ガチャ』
ちょうどその時、アパートの玄関のドアが開く音がした。
「しんちゃー!」
短い足音を立てて、湊がリビングに飛び込んできた。その後ろから、着替えを済ませたみどりが「お邪魔します」と小さく言いながら入ってくる。
みどりは顔を洗ってきたのか、前髪が少し濡れていた。しかし、目元にはうっすらと疲労の影が張り付いており、首筋には細かな金属の削りカスが光の加減でキラキラと反射しているのが見えた。
「すっげえ匂い。外の廊下まで匂ってたよ」
「沖縄のジューシーという炊き込みご飯だ。手を洗ってこい、すぐによそう」
みどりは湊の手を引いて洗面所へ向かい、やがて食卓には、山盛りにされたジューシー、お新香、そして湯気を立てる味噌汁が並んだ。
「いただきます」
みどりは両手を合わせ、茶碗を持ち上げた。一口食べ、その瞬間、大きな瞳が見開かれた。
「んっ……!」
「どうだ」
「なにこれ、すっげえ美味い。豚肉の味がご飯全部に染み込んでる」
みどりは目を輝かせ、無心で二口、三口とご飯をかき込んだ。
隣に座る湊も、子供用の小さなプラスチックの茶碗からスプーンでご飯をすくい、「おいちー」と頬を膨らませている。みどりは自分の箸を休め、「ほら、よく噛んで。熱いからフーフーしてね」と湊の口元を拭ってやった。
彼女の飾らない食べっぷりと、ごく自然な母親としての所作を見ていると、慎太郎の腹の底に、静かな満足感が広がっていく。
「これ、無限に食べられるかも」
「脂質が多いから毎日は推奨しない。胃がもたれるぞ」
「平気。明日も朝から三百個削んなきゃいけないし、カロリー消費するから」
みどりはあっけらかんと言い、味噌汁の椀に口をつけた。
慎太郎は自分の箸を休め、作業着を脱いでTシャツ姿になった彼女の、華奢な首元へ静かに視線を移した。
来週、彼女は20歳になる。
自分が彼女に与えられるものは、効率や実用性といった無機質な数値の改善だけではないはずだ。
「……しんちゃん、どうしたの?」
みどりが不思議そうに顔を上げた。
「私の顔に、なんか付いてる?」
「いや。……少し、痩せたかと思ってな」
「痩せてないし。むしろ、しんちゃんの飯が美味すぎて太りそうなんだけど」
みどりは軽く口を尖らせて笑い、お新香のキュウリを齧った。
★★★★★★★★★★★
週末の昼下がり。
慎太郎は、隣町の大型ショッピングモール内にある、宝飾店の前に立っていた。
休日のモール内は、家族連れやカップルたちの喧騒に満ちている。しかし、まばゆいハロゲンランプに照らされたその店舗の区画だけは、空気が一段冷たく、ピンと張り詰めているように感じられた。
ショーケースには、プラチナやゴールド、ダイヤモンドのアクセサリーが、ベルベットの台座の上で整然と並べられている。
この空間に足を踏み入れるのには、未知のジャングルに丸腰で挑むような奇妙な緊張感があった。
「いらっしゃいませ。何かお探しでしょうか?」
身なりの整った女性店員が、柔らかい笑みを浮かべて声をかけてきた。
「……ネックレスを、探している」
慎太郎はショーケースから視線を上げず、少し硬い声で答えた。
「プレゼント用でいらっしゃいますか? どのような方へお贈りになるのでしょう」
「……」
慎太郎の脳裏に、みどりの姿が浮かんだ。
油まみれの作業着。火花を浴びて黒ずんだ頬。そして、決して弱音を吐かずに旋盤の前に立ち続ける、彼女の強い眼差し。
「……工場で、鉄を削っている人間です」
慎太郎は顔を上げ、店員の目を真っ直ぐに見て言った。
「毎日油にまみれて、手には傷が絶えない。だから、作業の邪魔にならないものがいい。あまり華美でなく……彼女の、飾らない素顔に似合うものを探しているんです」
店員は一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに、心からの敬意を含んだような温かい微笑みを浮かべた。
「かしこまりました。それでしたら、こちらのデザインはいかがでしょうか」
店員がショーケースから取り出したのは、極めて細くシンプルなプラチナのベネチアンチェーンに、小さな、だが確かな輝きを放つ一粒のダイヤモンドが留められたネックレスだった。
「過度な装飾や複雑な爪がないため、お仕事中にお洋服の内側にしまっていただいても邪魔になりません。それに、上質なプラチナは変色にも強く、汗をかいても安心です」
慎太郎は、ベルベットのトレイに置かれたその小さな輝きを見つめた。
派手さはない。だが、どんな過酷な環境の中でも、その小さな光だけは決して失われないような、強靭な美しさがあった。
「……これで、お願いします」
慎太郎が告げると、店員は嬉しそうに頷いた。
「素敵なプレゼントになりますね」
受け取った小さな手提げ袋は、信じられないほど軽かった。
だが、その中に入っている小さな箱の重みは、今の慎太郎にとって確かな質量を持って感じられた。




