第52話 海を渡った鉄屑
慎太郎は、薄暗い照明が落ちた無国籍料理店のテーブルで、重めの赤ワインが入ったグラスを静かに置いた。
店の奥からはスパイスとオリーブオイルが焦げる香ばしい匂いが漂い、壁際のスピーカーからはフラメンコギターの乾いた音色が流れている。各テーブルには小さなキャンドルが置かれ、オレンジ色の光がグラスやカトラリーに乱反射していた。
「今日の視察の報告も兼ねているんだが」
慎太郎は、空いた手で内ポケットからタブレット端末を取り出した。画面のロックを解除し、テーブルの向かい側に座るみどりの方へ向けて滑らせる。
「……今日の視察って、昼間に行った駅前の雑貨屋さん?」
みどりは、フォークの先に刺したアルボンディガス――ラム肉と特製スパイスを練り込んだスペイン風のミートボール――を頬張りながら、不思議そうに画面を覗き込んだ。濃いトマトソースの酸味が、彼女の口元をわずかに綻ばせている。
「ああ。あそこの店長が、新しいインダストリアル系のインテリアを探していると聞いてな。これを取り扱えないか、打診してきたんだ」
みどりの視線が、タブレットに表示された画像に落ちた。
そこに映っていたのは、見慣れないスペイン語のテキストが並ぶWebサイトのスクリーンショットと、見覚えのある透明なアクリルキューブの写真だった。
背景は、洗練されたコンクリート打ちっ放しの展示ブース。ピンポイントで当てられたハロゲンランプの光を浴びて、透明な樹脂の中に封じ込められた金属の削り屑が、まるで宇宙空間に漂う星雲のように複雑で有機的な輝きを放っている。規則正しい螺旋を描くもの、荒々しく引きちぎられたようにささくれ立ったもの。それらがクリアなキューブの中で、奇跡的なバランスで静止していた。
「これ……この前、カルメンが面白がって持っていったペーパーウェイトじゃん」
「さっき、あいつから直接メッセージが入った。マドリードで開催された国際インテリア展示会で、あいつが立ち上げたこの廃材アートのラインが、新人賞の部門で銀賞を獲ったそうだ」
「……は?」
みどりは口の中のラム肉をゴクリと飲み込み、目を丸くしてタブレットの画面と慎太郎の顔を交互に見比べた。
「嘘でしょ。賞って……これ、うちの旋盤から出た切り屑だよ? 毎日キロ何十円とかで、産廃業者にお金払って引き取ってもらってる、ただのゴミじゃん。油でベタベタだし、素手で触ったら指切るような厄介者なのに」
「向こうの審査員やバイヤーたちには、そうは見えなかったらしい。既にヨーロッパのセレクトショップ数社から、初回ロットのオーダーが入っている」
慎太郎は画面をスワイプし、添付されていたPDFの注文書を表示した。ユーロ建てで記載された取引金額と、要求されている納品数。
「日本円に換算して、ざっとこのくらいの額になる」
慎太郎が暗算で提示した金額を聞き、みどりは絶句した。
それは、彼女が毎日油にまみれ、何千個という部品を1ミクロンの狂いもなく削り出してようやく得られる利益を、あっさりと飛び越えるような数字だった。
「原価は、アクリル樹脂の材料費と、型枠に流し込む手間賃くらいだ。中の鉄屑は文字通りゼロ円だからな。利益率で言えば、うちのメインの部品加工を遥かに凌ぐ」
「……意味わかんない。こんなの、ちょっと削るバイトの角度を変えれば、いくらでも出るクルクルなのに」
「だが、お前たちが日々、途方もない集中力で精密に金属を削り出しているからこそ、これだけ鋭く、美しい螺旋の曲線が生まれる。カルメンはそれに気づき、世界もそれを認めたということだ」
慎太郎の静かな言葉に、みどりはタブレットの画面を食い入るように見つめた。
写真の中でライトアップされている銀色の金属片は、間違いなく自分が見慣れたゴミだった。だが、こうして異国の洗練された空間に置かれ、芸術品として正当な評価を受けているという事実が、彼女の脳内でなかなか処理しきれないようだった。
「……なんか、変な感じ」
みどりは小さく息を吐き、照れ隠しのように残っていたバゲットの欠片をちぎって口に放り込んだ。
「私がいつも見てるあの薄暗い工場から出たゴミが、飛行機に乗って、海を渡って、向こうのすっげえお洒落な人たちに買われていくんでしょ。……想像つかないよ」
「俺も同じだ。だが、これでお前たちの仕事が、新しい外貨を稼ぎ出したのは紛れもない事実だ。工場の資金繰りにとっても、これ以上ない好材料になる」
慎太郎はタブレットを回収し、静かに微笑んだ。
かつてのヒリヒリするような達成感とは違う。目の前の彼女が流した泥臭い汗が、形を変えて遠い異国の地で評価され、確かな数字となって生活を潤す。その真っ当な経済のサイクルが、今の慎太郎には何よりも美しく、誇らしく感じられた。
★★★★★★★★★★★
店を出ると、冬の入り口を感じさせる冷たい夜風が、二人の間をサッと吹き抜けた。
時刻は21時を回ったところだった。駅前へと続く大通りは、週末の夜を楽しんだ人々の熱気と、行き交う車のヘッドライトで明るく照らされている。吐く息が、街灯の光を浴びて微かに白く滲んだ。
「寒くないか」
「ん、平気」
慎太郎が声をかけると、みどりはベージュのトレンチコートの襟元を少しだけ合わせ、首を横に振った。
慎太郎は、車道側を歩きながら、隣を歩くみどりの足元にわずかに視線を落とした。
普段は動きやすいスニーカーか、つま先に鉄板の入った安全靴しか履かない彼女が、今日は低めとはいえ、黒いパンプスを履いている。細身のパンツスタイルと相まって、普段の無骨な作業着姿からは想像もつかないほど、大人びたシルエットを描いていた。
だが、やはり歩き慣れないのか、アスファルトの僅かな凹凸を避けるように、彼女の歩調はいつもより少しだけぎこちなく、硬い靴音が不規則に響いている。
「無理してパンプスなんて、履いてこなくてもよかったんだぞ。足、痛いんじゃないか」
慎太郎が歩幅を落として言うと、みどりは少しだけ口を尖らせた。
「痛くないし。……それに、今日は一応、デートってことでしょ」
彼女は前を向いたまま、ぽつりとこぼした。
「しんちゃんとご飯行くのに、いつもみたいにジャージや作業着ってわけにいかないじゃん。向こうから歩いてくる人たちに、『あの男の人、なんであんな小汚いガキ連れて歩いてるんだろ』って思われるの、シャクだし」
みどりの視線の先には、煌々と明かりが灯るブランドショップの大きなガラス窓があった。そこに、長身に黒いコートを羽織った慎太郎と、その隣を歩く自分の姿が薄っすらと映り込んでいる。
みどりはそのガラスに映る自分たちの姿を見て、ふっと目を伏せた。それでも彼女は、少しでも隣を歩くのに相応しい自分になろうと、不格好に足を踏ん張って歩き出す。
「誰もそんなこと思わない」
「思うよ。しんちゃん、無駄に目立つし」
みどりが鼻で笑い、少しだけ歩くペースを速めようとした。
その時。
横断歩道の前のわずかな段差で、パンプスのヒールがカクンと不自然な角度に曲がった。
「っと……」
バランスを崩しそうになったみどりの右腕を、慎太郎が咄嗟に掴んだ。
「ほら見ろ。足元が暗いんだ。危ないだろ」
慎太郎は彼女の腕を引き寄せ、そのまま彼女の右手に自分の左手を滑らせた。夜風に冷え切っていた彼女の手を、自分の大きな手でしっかりと包み込む。
みどりの肩が、ビクッと跳ねた。
彼女は驚いたように顔を上げ、繋がれた自分たちの手元を見た。
「ちょっ……しんちゃん」
「なんだ」
「……手、カサカサだし。恥ずかしいんだけど」
みどりは顔を背け、自嘲するような小さなため息をつきながら、手を引き抜こうとわずかに力を入れた。
慎太郎は、引き抜こうとする彼女の小さな手を離さず、むしろもう一段階強く握り直した。
「俺は、お前のこの手がいいんだ」
静かに、だが一切のブレがない声で告げる。
「お前がこの手で毎日鉄を削っているから、カルメンの廃材アートは賞を獲り、海を渡った。俺が作った工場の再建計画も、お前が現場でその手を動かしてくれているから、ただの机上の空論にならずに済んでいる」
慎太郎は、みどりの歩幅に合わせてゆっくりと歩き出しながら、繋いだ手に自分の体温を移すように力を込めた。
「だから、隠す必要なんてない」
信号が青に変わり、横断歩道のメロディが夜の街に響き始めた。
みどりはしばらく無言のまま、うつむいて歩いていた。繋いだ手から逃げようとする力は、もう完全に抜けている。
やがて、彼女は繋がれた手の中に、自分の指を少しだけ絡ませてきた。
「……しんちゃんって、たまにすっげえ恥ずかしいこと、真顔で言うよね」
マフラーに顔を半分埋めるようにして呟いた彼女の声は、冬の冷たい風の中でも、確かな熱を帯びていた。
耳の先が、微かに赤く染まっているのが街灯の光に照らされて見えた。
「事実を言ったまでだ」
慎太郎は短く答え、口角を少しだけ上げた。
駅へと続く煌びやかな大通り。すれ違う人々の視線など、今の慎太郎には何のノイズにもならなかった。右手に伝わる、少しざらついた、だが驚くほど真っ直ぐで温かい命の感触。それだけが、彼が今ここに存在しているという何よりの証明だった。




