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金曜20時、高架下にて待ち合わせ。〜元ヤン幼馴染は18歳の母〜  作者: 伊達ジン


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第51話 専務の朝

 冬の朝の空気は、刃物のように鋭く冷たい。


 松井家の台所には、古い石油ストーブの低い燃焼音と、その上に置かれたヤカンがシュンシュンと蒸気を噴き出す音だけが響いていた。窓ガラスは外の冷気と室内の暖気の差で真っ白に結露し、いくつもの水滴が重なり合いながら、ゆっくりとサッシへと滑り落ちていく。


 慎太郎は、分厚いネイビーの作業着の上にフリースを羽織り、食卓でタブレット端末の画面をスクロールさせていた。画面に表示されているのは、今週の工場の稼働スケジュールと、来月納品予定の新規ロットの原価計算表だ。第三ラインの不良品率を示すグラフを指先で拡大し、スタイラスペンで目標数値を微修正していく。


「……ここの公差、もう少し歩留まりを上げられるな」


 小さく呟き、数値を打ち込み直す。タブレットの数字の向こう側には、冷たいエクセルのセルではなく、油の匂いや機械の唸り、汗を流す人間たちの顔がはっきりと見えている。


 足元で、カシャカシャという小さな爪の音がした。


 視線を落とすと、ストーブの熱を一番ダイレクトに受けられる特等席で、茶トラのムギが香箱を組んで目を細めていた。そのムギの長い尻尾の先に、茶色い毛玉――ポメラニアンのポンが、短い足を踏ん張ってじゃれついている。

 ポンが「きゅん」と鳴いて前足で尻尾を押さえ込もうとするたび、ムギは鬱陶しそうに尻尾を左右に振って躱す。それでもしつこくポンが鼻先を押し付けてくると、ムギはゆっくりと顔を向け、爪を隠した前足でポンの鼻面を「ペシッ」と軽く叩いた。

 ポンは驚いてコロンと後ろに転がり、またすぐに立ち上がってムギの周りをウロウロと歩き回る。完全な主従関係が成立しているが、ムギの目にも本気の威嚇の色はない。


「ぽん、だめー」


 廊下からペタペタと足音を立ててやってきた湊が、ポンの胴体を両手でむんずと抱き上げた。三歳を目前に控え、湊の言葉は少しずつはっきりとした輪郭を持ち始めている。体つきもずっしりと重くなり、抱き上げられたポンは宙で足をバタバタとさせた。


「湊、おはよう。ポンを落とすなよ」

「しんちゃ、おはよ!」


 湊はポンを床に下ろし、慎太郎の膝にすがりついてきた。ストーブの暖気と、子供特有の甘い寝汗の匂いが混ざる。慎太郎はタブレットを置き、湊の寝癖のついた柔らかい髪を大きな手のひらで撫でた。


「はい、朝ご飯できたよ。しんちゃん、そこ片付けて」


 台所から、エプロン姿のみどりが声をかけた。油汚れの染み付いたいつもの作業着ではなく、スウェットにフリースのベストという家着姿だ。手には、湯気を立てる味噌汁の椀が乗ったお盆を持っている。

 慎太郎は立ち上がり、食卓の上のタブレットや資料を手早く片付けた。

 並べられたのは、皮に少し焦げ目のついた塩鮭、大根と油揚げの味噌汁、そして形は不格好だが黄色く鮮やかな卵焼き。出汁の香りが鼻腔をくすぐり、一気に空腹が刺激される。


「親父さんは?」

「もう工場出てる。機械の立ち上げやってるって。あとで事務所でおにぎり食べるからいいってさ」


 みどりは自分の席に座りながら、短く息を吐いた。

 専務として慎太郎が工場の経営に参画して半年。地道に開拓した新規のBtoB案件が軌道に乗り、工場は今ではフル稼働でも手が足りないほどの活気を取り戻していた。カルメンの提案から始まった廃材アートの事業も、着実に試作品の生産が始まっている。


「今日の午後、三社目の新しい取引先が視察に来る。みどりはいつも通り、第二ラインの旋盤を回しておいてくれ。あえて一番厳しい公差の作業を見せたい」

「了解。まあ、いつも通りやるだけだけどね」


 みどりは卵焼きを箸で切り分け、自分の口に放り込んだ。金属と向き合う一人の職人としての、揺るぎない自信と落ち着きがあった。

 慎太郎は味噌汁を一口飲み、その温かさが食道から胃へと落ちていくのを静かに感じた。


★★★★★★★★★★★


 その日の夜。


 工場の稼働を終え、親父さんに湊を預けた二人は、駅の反対側にある細い路地を歩いていた。

 冷たい北風が吹き抜け、みどりは着ているダークグリーンのダッフルコートの襟元をギュッと掴んで首をすくめた。普段の作業着姿とは違う、奈緒子と一緒に買いに行ったという少しだけ大人びた装いだ。


「こんな裏路地に、飯屋なんてあんの?」

「ああ。少し前、地元の銀行の人間と会食した時に見つけた。たまにはこういうのも悪くないだろ」


 慎太郎が立ち止まったのは、看板のライトも点いていない、古い雑居ビルの1階だった。分厚い木製のドアに、小さく『Cantina』とだけ書かれた真鍮のプレートが貼られている。


 ドアを開けると、外の寒風から一転して、カルダモンやクミンといったエキゾチックなスパイスの香りが鼻腔をくすぐった。仄暗い暖色系の照明の下、カウンター席といくつかのテーブル席が並ぶ、こぢんまりとした空間だ。BGMにはアコースティックギターのインストゥルメンタルが低く流れている。


 二人は奥の小さなテーブル席に向かい合って座った。

 みどりは辛口のジンジャーエールを、慎太郎はグラスの赤ワインを注文する。


「お疲れ。今週もよく回してくれた」

「しんちゃんもね。専務殿」


 グラスを軽くぶつけ合い、みどりはジンジャーエールを喉に流し込んだ。炭酸の刺激に少しだけ目を細める。


 すぐに、一皿目の料理が運ばれてきた。

 軽くトーストされた薄切りのバゲットの上に、色鮮やかな食材が乗せられた数種類のピンチョスだ。ハモンセラーノとマッシュルームを乗せたものや、茹でたタコをパプリカパウダーでマリネしたものなどが美しく並んでいる。


「これ、手で食べていいの?」

「ああ、スペインの居酒屋料理みたいなものだからな。串をつまんで一口でいくといい」


 みどりは恐る恐る、オリーブとアンチョビ、青唐辛子が刺さった串を手に取った。口に入れると、アンチョビの強い塩気とオリーブのコク、そして唐辛子の爽やかな辛味が弾ける。


「ん……なにこれ。すっごい味濃いけど、美味い。ジンジャーエールじゃなくて、ビール飲みたくなる味だ」

「あと一年待て。その時は、俺がいくらでも付き合ってやる」


 慎太郎が少しだけ口角を上げて言うと、みどりは「忘れないでよ、それ」と鼻で笑った。

 彼女の指先には、日々の作業でついた細かな傷や、石鹸では落ちきらない金属の黒ずみが刻まれている。だが、その手がピンチョスの串を摘む所作には、不思議なほどの生命力があった。


 やがて、店の奥から強烈に香ばしい匂いが漂ってきた。

 分厚い陶器の皿に乗せられて運ばれてきたのは、ぐつぐつと煮え立つ赤いトマトソースに沈んだ、大ぶりの肉団子だった。


「アルボンディガス。ラム肉を使ったスペイン風のミートボールだ」


 慎太郎が説明する間にも、ソースの表面で気泡が弾け、コリアンダーやナツメグの複雑なスパイスの香りが立ち上ってくる。


 みどりはフォークで肉団子を一つ突き刺し、少しだけ息を吹きかけて熱を冷ましてから、思い切って噛み付いた。

 その瞬間、彼女の大きな瞳がさらに見開かれた。


「……っ」

「熱かったか?」

「ううん……すっげえ美味い、これ」


 みどりは咀嚼しながら、驚いたように皿を見下ろした。

 ラム肉特有の野性味のある強い香りと、噛むほどに溢れ出す濃厚な肉汁。それが、酸味の効いたトマトソースと複雑に絡み合い、口の中を満たしていく。日本の家庭料理のハンバーグやつくねとは全く違う、力強く、暴力的なほどの旨味だった。


「ラムって、もっと臭いのかと思ってた。これ、無限に食べられるかも」

「ソースをパンにつけて食べるといい」


 慎太郎が籠に入ったバゲットを勧めると、みどりはすぐに一切れちぎり、皿の底に残ったソースを丁寧に拭って口に放り込んだ。


 彼女が料理を無心で楽しむ姿を見つめながら、慎太郎は自分のグラスの赤ワインをゆっくりと口に含んだ。渋みと果実味が舌の上に広がる。


「今日の視察、感触はどうだった?」


 みどりがパンを飲み込み、真剣な目つきに戻って尋ねた。


「悪くない。お前の旋盤の技術を見て、向こうの技術担当の顔色が変わったのがわかった。あの公差を、この規模の工場で安定して出せるとなれば、単価の交渉はこちらのペースで進められる」

「そ。ならよかった」


 みどりは満足げに頷き、最後のミートボールをフォークで刺した。


「親父、最近機嫌いいんだよね。仕事が増えて忙しいはずなのに、なんか昔みたいに声がデカくなったっていうか。工場の中に活気があるっていうか」

「親父さんも、お前の背中を見て安心して現場に集中できているんだろうな」


 慎太郎の言葉に、みどりは少しだけ照れくさそうに視線を落とし、ミートボールを口に入れた。


「……しんちゃんは?」

「ん?」

「しんちゃんはさ。今、楽しい?」


 みどりがフォークを置き、真っ直ぐに慎太郎の目を見た。彼女の瞳の奥には、静かな、しかし確かな問いかけの光があった。

 慎太郎はワイングラスをテーブルに置き、周囲の喧騒とスパイスの匂いに満ちた店内を見渡した。そして、目の前で自分を見つめる、十九歳のパートナーの顔を見た。


「東京にいた頃は、自分が何を食べているのかすらわからない日があった」


 慎太郎は静かな声で言った。


「今は、俺が計算した数字の分だけ、親父さんが笑い、お前が安心して鉄を削り、湊が腹一杯飯を食う。ムギとポンが暖かいストーブの前で眠る。……そのための数字を追うのは、悪くない。いや、俺にとってはこれ以上の仕事はないと思っている」


 みどりは数秒間、瞬きもせずに慎太郎を見つめていた。

 やがて、ふっと肩の力を抜き、いつものように鼻で小さく笑った。


「そ。なら、もっと働いてもらわないとね。専務なんだから」

「ああ。お前も、腕を落とすなよ」


 みどりは残っていたジンジャーエールを飲み干し、厨房に向かって元気な声を上げた。


「すいませーん、このミートボール、おかわり!」


 仄暗い店内の照明が、彼女の笑顔を柔らかく照らし出していた。

 慎太郎はグラスに残ったワインを飲み干し、新しく運ばれてきた料理の熱気を、深く肺に吸い込んだ。

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