第50話 待ち合わせ場所は
金属を削る甲高い研磨音が完全に止むと、工場の中は水を打ったような静寂に包まれた。
初秋の乾いた風が開け放たれたシャッターから吹き込み、一日中稼働していた機械の熱と、少し焦げたような油の匂いを外へと運んでいく。西に傾いた太陽が、コンクリートの床に旋盤の長い影を落としていた。
慎太郎は主電源のブレーカーを落とし、首に巻いていたタオルで額と首筋の汗を拭った。壁の掛け時計を見上げる。
時刻は、19時45分。
かつて、金曜日の20時は、世界で唯一、自分がただ息をしていることだけを許されるサンクチュアリだった。あの不器用で、言葉足らずで、しかし確かな熱を持った1時間が、今の自分をここまで繋ぎ止めてくれたのだ。
慎太郎は油の染み付いた作業着を脱ぎ、ロッカーに掛けてあったネイビーのカーディガンに袖を通した。襟元を整えながら、ふと、足元に置かれた見慣れないプラスチック製のキャリーケースに目を落とす。
ケースの網目越しに、小さな茶色い毛玉が所在なげに身を丸めているのが見えた。今日、新しく開拓した取引先の社長から譲り受けたばかりの、ポメラニアンの子犬だ。
「どうしても同居の身内でアレルギーが出てしまってね。専務さんのところ、お子さんもいるし、もしよければ」
商談の帰り際、そう頼み込まれた。生後57日。ブリーダーから引き渡されたばかりだというその体は、両手ですっぽりと包み込めるほど小さく、体重は1キロにも満たない。
「……少し揺れるが、我慢しろよ」
慎太郎がしゃがみ込んで低く声をかけると、ケースの中の毛玉は「きゅん」と頼りない鼻声を漏らし、黒く潤んだ目でこちらを見上げた。
工場の戸締まりを念入りに済ませ、慎太郎はキャリーケースを提げて夜の道を歩き出した。
かつては他人の視線が刃のように感じられ、キャップを深く被って下を向いて歩くことしかできなかった町。だが今は、正面を見据え、スニーカーの靴底がアスファルトを捉える感触をはっきりと確かめながら歩いている。冷たくなり始めた夜風の匂いも、遠くを走るバイパスの車の音も、どこかの家から漂ってくる夕食のカレーの匂いも、すべてが自分の日常を構成する確かな輪郭として感じられた。
10分ほど歩き、見慣れた古い日本家屋の前にたどり着く。
松井家の玄関。
少し前までは、休日に様子を見に来る程度の距離感だった。だが工場の再建が軌道に乗り、慎太郎が正式に専務として入り込んでからは、実質的にここで過ごす時間が生活の大半を占めるようになっていた。
腕時計に目を落とす。
20時ちょうど。
慎太郎は短く息を吐き、すっかり手に馴染んだ引き戸に手をかけ、ガラガラと重い音を立てて開けた。
「あ、しんちゃ!」
靴を脱ぐ間もなく、奥の居間からバタバタと小さな足音が駆けてきた。
湊だった。以前はまだよちよち歩きだったが、今ではすっかり足取りも力強くなっている。口の周りに少しだけご飯粒をつけ、満面の笑みで慎太郎の足元に飛びついてきた。
「お、湊。ただいま」
慎太郎は片手でキャリーケースを持ったまま、もう片方の手で湊の頭を撫でた。相変わらず、小さなストーブのように熱い体温がズボンの布地越しに伝わってくる。
「ちょっと湊、しんちゃん帰ってきたばっかなんだから飛びつかないの。ほら、手ぇ洗ってきな」
台所の奥から、みどりが顔を出した。
いつものダボついた作業着ではない。無地の白い長袖Tシャツに、くたびれたデニムのエプロン姿。髪は後ろで無造作に束ねられ、ほんのりと湯気と出汁の匂いを漂わせている。
彼女は慎太郎の顔を見ると、ほんの少しだけ目元を緩め、エプロンで濡れた手を拭った。
「お疲れ。今日、ちょっと遅かったね」
「ああ。最後の機械のメンテナンスに手間取ってな」
慎太郎が靴を脱いで上がると、みどりの視線が彼の手元にあるキャリーケースで止まった。
「……なにそれ」
「お土産だ」
慎太郎は居間の畳の上にケースを置き、ロックを外して慎重に扉を開けた。
中から、おずおずと顔を出したのは、クリーム色をした毛玉のような子犬だった。
ちょこんと立った小さな耳。見知らぬ場所に戸惑っているのか、短い四肢を小刻みに震わせ、鼻先をひくつかせている。
「……っ!」
みどりが息を呑み、エプロンで口元を覆った。
「取引先の社長から譲り受けた。生後57日だそうだ。飼うのが難しくなったらしい」
「えっ、嘘、えっ……めっちゃちっちゃい……」
みどりは恐る恐る膝をつき、子犬の前に顔を近づけた。彼女の爪の隙間には、相変わらず石鹸では落ちない金属の黒ずみがこびりついている。だが、その指先が子犬の柔らかい背中に触れる手つきは、羽毛を扱うように優しかった。
湊も興奮して「わんわん! わんわん!」と跳ね回っている。
「名前、どうする」
慎太郎が尋ねると、みどりは子犬の背中を撫でながら首を傾げた。
「うーん……こんなコロコロしてて、きな粉みたいな色してるから……『きなこ』とか?」
すると、横から湊が子犬を指さして叫んだ。
「ぽん!」
「……ぽん?」
みどりが瞬きをする。湊はもう一度、自信満々に繰り返した。
「ぽん!」
どうやら彼の中では、この生き物は「ぽん」らしい。
慎太郎とみどりは顔を見合わせ、同時に小さく吹き出した。
「よし。じゃあ、お前の名前は『ポン』だ」
慎太郎がそう言うと、ポンは「きゅん」と短く鳴き、みどりの指先を小さなピンク色の舌でペロリと舐めた。
その時。
ふすまの奥から、のっそりとした足音を立てて「先住者」が現れた。
茶トラの猫、ムギだ。
嵐の夜に神社で拾い上げた時は骨と皮ばかりだったが、今ではすっかり肉付きも良くなり、堂々とした貫禄すら漂わせている。慎太郎のアパートから松井家に越してきて以来、この居間を自分の領土として完全に支配していた。
ムギは、見慣れない毛玉の存在に気づくと、青灰色の目をスッと細め、尻尾を低く下げた。無音の足取りで、ポンへと近づいていく。
ポンは、自分より一回り以上大きな未知の生物の接近に気づき、ピタッと動きを止めた。耳をペタンと後ろに伏せ、尻尾を股の間に巻き込み、助けを求めるように慎太郎のスリッパの後ろへと後ずさる。
ブルブルと震えるポンの鼻先に、ムギがゆっくりと顔を近づけた。
みどりが息を詰めて見守る中、ムギはポンの匂いをスンスンと嗅ぎ始めた。ポンは完全に硬直し、目を見開いたまま息を止めている。
数秒の緊迫した沈黙。
やがて、ムギは興味を失ったように小さく「ニャッ」と鳴き、ポンの頭を前足でポンと軽く叩いた。爪は出していない。まるで「新入りか。まあ許してやる」とでも言わんばかりの上から目線の挨拶だった。
そのままムギは踵を返し、定位置である座布団の上へと戻って丸くなった。
「……よかった。食べられなくて」
みどりが肩から力を抜き、ホッとしたように笑った。ポンも緊張が解けたのか、パタパタと短い尻尾を振りながら、再び湊の足元へとじゃれつき始めた。
少し騒がしかった居間が落ち着きを取り戻すと、みどりが立ち上がった。
「手洗ってきなよ。ご飯、できてるから」
「ああ」
慎太郎は洗面所で手を洗い、居間に戻ってちゃぶ台の前に腰を下ろした。
食卓には、みどりが作った山盛りの唐揚げと、黄色く鮮やかな出汁巻き卵、そして根菜がたっぷりと入った豚汁が並んでいた。かつては包丁もろくに握れなかった彼女が、今では見事な手際で火を扱い、味を整えるようになっている。
グラスに注がれた冷たい発泡酒が、水滴を纏って光を反射していた。
「はい、お疲れ」
みどりが自分のグラスを差し出す。
慎太郎もグラスを持ち上げ、軽く縁をぶつけた。チン、という涼しげな音が鳴る。
冷たい液体を喉に流し込む。一週間の疲労が、炭酸の心地よい刺激とともにゆっくりと解けていくのを感じた。
唐揚げを一口齧る。サクッという衣の音の直後、熱い肉汁と醤油の香ばしさが口いっぱいに広がり、確かな「味」の輪郭が胃の底に落ちていく。
「美味い」
慎太郎が短く言うと、みどりは少し得意げに鼻を鳴らした。
「でしょ。下味の漬け込み時間、ちょっと変えてみたんだよね」
ちゃぶ台の向こうでは、湊がポンの様子を気にしながら、一生懸命にスプーンでご飯を掬っている。座布団の上ではムギが静かに寝息を立て、古い掛け時計がカチカチと等間隔に時を刻んでいた。
だが、今の慎太郎にとって、これ以上完璧な世界はどこを探してもなかった。
みどりが頬杖をつき、少しだけ目を細めて慎太郎を見た。
「おかえり、しんちゃん」
みどりが、ぽつりとこぼした。
慎太郎はグラスを置き、正面から彼女の顔を見つめ返した。
「……ただいま」
慎太郎が低く答えると、みどりは少しだけ照れくさそうに笑い、もう一度自分のグラスを傾けた。
グラスの中の氷が微かに鳴り、壁の時計が静かに時を刻む。秋の虫の声が、窓の向こうからかすかに聞こえていた。




