第49話 それからの日常
初夏の容赦のない日差しが、工場の色褪せたトタン屋根をカンカンと焼き付けている。
開け放たれたシャッターの向こうには、陽炎が揺れるアスファルトの道路と、青々とした夏草が茂る空き地が見えた。熱せられたアスファルトから立ち昇る熱気が、入り口付近の空気をぐにゃぐにゃと歪ませている。
慎太郎は油で黒ずんだ保護メガネを額に押し上げ、首に巻いたタオルで汗を拭った。
目の前にある旋盤のモーター音が、キィィィンという甲高い切削音から低い唸りへと変わり、やがて完全に停止する。チャックハンドルを力強く握り込んで固定を緩め、切り出されたばかりの金属部品を取り外した。手のひらに、まだ熱を帯びた鉄のずっしりとした重みが伝わってくる。
使い古したウエスで表面に付着した切削油を丁寧に拭き取ると、精密に削り出された銀色の断面が鈍い光を放った。マイクロメーターを当てて慎重にメモリを読み取る。寸法は公差のプラスマイナスゼロ。1ミクロンの狂いもない完璧な仕上がりだった。
「……よし」
小さく息を吐き、完成品を青いプラスチックコンテナに並べる。カチン、という硬い金属音が鳴った。コンテナの中には、今朝から削り出した同じ形状の部品が数十個、整然と並んでいる。
着慣れたネイビーの作業着の胸元には、「専務 武田」と刺繍された名札が縫い付けられている。何度も洗濯を繰り返して少し色褪せ、取り切れない油の染みがいくつか飛んだその作業着は、彼の身体の動きにすっかり馴染んでいた。
手のひらを返す。肌の表面には、親指の付け根や人差し指の側面にいくつもの硬いマメが隆起し、指の関節には金属の切り粉で切った細かな擦り傷が絶えない。短く切り揃えられた爪の隙間には、工業用の強力な石鹸でいくら洗っても落ちない、黒い油汚れが深く入り込んでいた。
「しんちゃーん、午前中の分、終わった?」
隣のフライス盤の前で、みどりが機械の電源を落とした。コンプレッサーのホースを手に取り、プシューッという甲高い音とともに、作業台の上に散らばった細かい切り粉を勢いよく吹き飛ばしていく。
顔の半分ほどを覆う保護メガネを外し、赤みがかったウェーブヘアを無造作に後ろで束ねた彼女が、安全靴の踵を鳴らしながらこちらへ歩み寄ってきた。ダボついた男物の作業着姿は相変わらずだが、19歳になった彼女の顔には、年相応の柔らかさと、確かな居場所を手に入れた人間の余裕があった。
「ああ。今のロットで五十個完了だ。午後の分を合わせれば、来週納品のノルマには届く」
「おっけー。じゃあ、キリがいいし昼メシにしよ」
みどりはエアガンを所定の位置に戻し、大きく伸びをして首の骨をコキコキと鳴らした。二人は安全靴のつま先でコンクリートの床に落ちたゴミを軽く払い、連れ立って工場の奥にある事務所へと向かった。
四畳半ほどの小さな事務所に入ると、古い壁掛けエアコンのルーバーがカタカタと鈍い音を立てて冷気を吐き出していた。それでも追いつかない熱気を、首を振る年代物の扇風機が部屋の隅で攪拌している。壁のホワイトボードには今月の納品スケジュールが隙間なく書き込まれ、パイプ机の上には図面や請求書がクリアファイルにまとめられて山積みになっていた。
年代物の黒い革張りソファの上では、すっかり図体の大きくなった茶トラ猫のムギが、腹を丸出しにして無防備なへそ天の状態で爆睡している。
「おいムギ、ちょっと退け。座れないだろ」
慎太郎が声をかけても、ムギはピンク色の肉球をピクピクと動かして「んにゃ」と短い寝言を漏らし、前足を顔の前に持っていくだけで起き上がる気配はない。みどりが呆れたように笑い、ムギの柔らかな腹の毛をワシャワシャと乱暴に撫で回してから、空いているパイプ椅子に腰を下ろした。
みどりが机の上の空いたスペースに、コンビニのビニール袋をことりと置いた。
「ごめんね、今日。マジで朝起きれなくて、弁当作れなかった」
「気にするな。俺も二度寝してアラームを止めた記憶がない。昨日の夜、湊がなかなか寝付かなくて手こずったからな」
「あいつ、最近夜中に急に歌い出すから困るんだよね。奈緒子ちゃんの保育園で覚えてきた歌、エンドレスで聞かされる身にもなってほしいよ」
みどりが苦笑いしながら、袋から中身を無造作に取り出していった。二人分の昼食。冷たい麦茶の入った大きなペットボトルと、紙パックの野菜ジュース、そしてコンビニのお握りが四つ。
慎太郎は流し台でポンプ式の石鹸を押し出し、念入りに手を洗ってからパイプ椅子に座った。「豚高菜」と印字されたお握りのフィルムを剥がす。パリパリの海苔ではなく、最初からご飯に直巻きにされた、しっとりとしたタイプのお握りだ。
一口かじると、豚肉の脂の甘みと、高菜のピリッとした塩気が、ごま油の香ばしい風味とともに口いっぱいに広がった。米の一粒一粒に油分と旨味がしっかりとコーティングされている。午前中、蒸し暑い工場の中で汗を流して立ちっぱなしだった身体が、その強い塩分とカロリーを急速に吸収していくのがわかる。咀嚼するたびに、明確な味と喜びが胃袋を確実に満たしていった。
美味い。心からそう思えた。
向かいの席では、みどりが「生タラコ」のお握りのフィルムを器用に剥がし、パリッとした海苔でご飯を包んで大きく頬張っていた。
「んーっ。やっぱタラコは生に限るわ」
みどりは目を細め、満足げに咀嚼する。ねっとりとした生タラコの強い塩気と魚卵の旨味が、白米の甘みと完璧なバランスで混ざり合っているのだろう。ふと見ると、彼女の口元に米粒が一つくっついていた。慎太郎は無言で手を伸ばし、親指の腹でその米粒をすくって取ってやった。
「あ、サンキュ」
みどりは照れることもなく、ごく自然に笑って紙パックの野菜ジュースにストローを刺した。
同じ家に帰り、同じ釜の飯を食い、同じ工場で鉄を削る。朝は燃えるゴミの当番をじゃんけんで決め、夜は湊を風呂に入れた後、二人でその日の納品伝票の確認をする。休日のスーパーでは、特売の豚肉をカゴに入れるか鶏肉にするかで真剣に議論を交わす。時に仕事の手順で意見がぶつかり、事務所で言い合いになることもあったが、数時間後にはどちらからともなく缶コーヒーを差し出して元の空気に戻る。
そうした泥臭く、しかし途切れることのない日々の積み重ねが、二人の生活の地盤を確かなものにしていた。
「そういえば」
みどりが二つ目のお握りに手を伸ばしながら言った。
「昨日、カルメンから写真届いたよ。モロッコからスペインに戻ったらしい。あの廃材アートのライン、向こうのインテリアショップでかなりウケてるみたい。なんか、すっげえお洒落なガラスの棚に、うちの鉄屑がライトアップされて飾られてた」
「そうか。あの鉄屑が海を渡って外貨を稼いでくれるんだから、わからないものだな」
慎太郎は二つ目のお握り――昔ながらの赤い梅干しが中心に埋まったお握り――を手にとった。一口食べると、容赦のない強烈な酸味が唾液腺を一気に刺激した。顔をしかめそうになるが、その突き抜けるような酸っぱさが、疲労の溜まった筋肉にクエン酸として染み渡っていくようで心地よい。
「東京の瑞穂さんからも、先週メールきたよ。なんか新しいプロジェクトのリーダーになったとかで、すっげえ長文だった。今度こっちに仕事で来るついでに、顔出すってさ」
「あいつらしいな。また手土産に美味いものでも要求しておくか」
慎太郎は梅干しの種をティッシュに出しながら答えた。
「絶対高いケーキ持ってくるよ。私、あれ楽しみなんだよね」
みどりが笑いながら麦茶のペットボトルのキャップを開けた、その時だった。
「じいちゃーん! しんちゃー!」
不意に、事務所の外から元気な声が響いた。
開け放たれた入り口から、麦わら帽子を被った小さな男の子が、短い足を必死に動かして駆け込んでくる。土曜日の今日、午前中だけ自宅で面倒を見ていた松井の親父が、昼飯の時間に合わせて連れてきたのだ。
「湊」
慎太郎がパイプ椅子から立ち上がって両手を広げると、2歳半になった湊は、迷うことなく慎太郎の足元へ飛び込んできた。
「しんちゃ! おなかすいた!」
「そうか。じいちゃんと遊んで腹が減ったか。泥だらけじゃないか」
慎太郎が抱き上げると、湊はずっしりとした重みを持っていた。外の太陽の匂いと、少し汗ばんだ子供特有の甘い匂い。砂のついた半ズボンの感触が、作業着越しに伝わってくる。その温もりが、慎太郎の胸の奥をじんわりと満たしていく。
「ほら湊、手ェ洗ってきな。おにぎり残してあるから」
みどりが立ち上がり、湊の麦わら帽子を取って頭をポンと撫でた。
「おにぎり!」
湊は慎太郎の腕から降りると、洗面台の方へトテトテと走っていった。その後ろ姿を、作業着姿の親父が「やれやれ、元気なこった。公園から帰らないって駄々こねてな」と目を細めながら見守っている。
古い扇風機が首を振り、事務所の空気をゆっくりとかき混ぜている。
洗面台からは、湊がはしゃぎながら水を跳ね返す音と、みどりの「こら、水出しすぎ! ちゃんと石鹸つけて!」という笑い声が聞こえてきた。
慎太郎は自分の手のひらをそっと握り込んだ。関節の擦り傷が微かに引きつり、指先に確かな鈍い痛みが走る。その痛みが、今日という日を自分の足で立ち、自分の手で生きているという明確な実感として胸の奥に落ちていった。
「しんちゃん」
みどりが備え付けのタオルで湊の手を拭きながら、振り返って慎太郎を見た。
「午後も、よろしく頼むね。専務さん」
悪戯っぽく笑うみどりに、慎太郎はほんの少しだけ口角を上げ、力強く頷いた。
「ああ。任せておけ」
慎太郎はパイプ椅子に掛けられていたネイビーのキャップを手に取った。深く被り直し、確かな足取りで、再び鉄の匂いが立ち込める工場へと歩き出した。




