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金曜20時、高架下にて待ち合わせ。〜元ヤン幼馴染は18歳の母〜  作者: 伊達ジン


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第48話 不器用なキス

 換気扇が吐き出す焦げた醤油の匂いも、グラスの中で氷が溶けて崩れる微かな音も、酔客たちの割れんばかりの笑い声も、今の慎太郎とみどりの間にある空間には少しも入り込んでこなかった。

 まるでこの小さなテーブル席の周辺だけが、分厚いガラスで覆われ、周囲の狂騒から完全に切り離されているかのようだった。


「同情じゃない。幼馴染としての情でもない。感謝すら超えている」


 慎太郎の低く静かな声が、真正面からみどりの鼓膜にまっすぐに落ちた。

 みどりは、テーブルの上で慎太郎の大きな手に包まれた自分の両手を見つめたまま、小刻みに震え始めていた。石鹸でいくら洗っても落ちない爪の隙間の黒ずみがあり、手のひらには鉄粉と油が染み込んで硬くなっている。いくつもの細かな擦り傷が絶えないその冷たい手を、慎太郎は何も言わずにただしっかりと、自らの熱を分け与えるように握り込んでいる。

 みどりは必死に瞬きを繰り返し、色を失った唇を内側に引き結んでいた。


「……っ」


 堪えきれなくなったように、みどりの大きな瞳から大粒の涙がぼろりと零れ落ちた。

 彼女は鼻をすする音すら立てまいと、下唇を強く噛み、声を殺して泣いていた。ポロポロととめどなく溢れる涙が、彼女の膝の上にぽたぽたと音を立てて落ちていく。

 周囲のテーブルでは、一週間の労働を終えた作業着姿の男たちが、ビールのジョッキを傾けて大声で笑っている。金曜の夜の活気にあふれるこの場所で、これ以上彼女を限界まで張り詰めさせておくわけにはいかなかった。


「……出るぞ」


 慎太郎は短く言い、みどりの手を静かに引いて立ち上がった。カウンターの端に置かれていた伝票を掴み、財布から千円札を数枚取り出すと、焼き台の前に立つ女将の元へ無言で手渡した。女将が何かを言いかける前に、釣りも受け取らずに油じみた引き戸を開ける。


 ガラガラという重く油じみた音とともに引き戸を開けて外に出ると、初夏の生温かい湿気が二人の身体をむわっと包み込んだ。

 バイパスの高架下は、通りから数十メートル外れているため街灯のオレンジ色の光も届かず、ひどく薄暗い。昼間に蓄えられたアスファルトの熱が足元からじんわりと立ち上ってくる中、二人は無言のまま歩いた。

 コンクリートの太い柱が作り出す濃い影の中に入ると、慎太郎は握っていたみどりの手を静かに離した。

 みどりは少しうつむいたまま、首に巻いていたタオルを乱暴に引っ張り、目元をこすった。ゴシゴシと、まるで自分自身に腹を立てているかのような強い力だった。


「……バカじゃないの」


 涙で濡れた、ひどく掠れた声だった。彼女はタオルから顔を上げ、赤く充血した瞳で慎太郎を睨みつけた。


「いい大人が、何言ってんの。ガキ相手に、からかってんの」

「からかってない。全部本心だ」

「ずるいよ……っ」


 みどりの声が、悲鳴のように小さく跳ね上がった。


「私、頭悪いし、毎日鉄削ってるだけの、ただのババアみたいな生活してんのに。しんちゃんみたいに、難しい言葉も知らないのに……そんなこと言われたら、どうしていいか、わかんなくなるじゃん……」


 最後の方は声にならず、みどりはタオルに顔をうずめてしゃくり上げた。その小さな肩が、不規則に大きく震えている。

 慎太郎は一歩踏み出し、両手でみどりの肩を静かに包み込んだ。

 分厚い作業着越しでも、彼女の骨格が驚くほど華奢であることが伝わってくる。


「難しい言葉なんていらない。俺はお前が……」


 慎太郎が言葉を紡ごうとしたその時、足元の地面が微かに振動を始めた。

 頭上を通過する数両編成のローカル線の接近音だった。ゴゴゴゴ、という重低音が空気を震わせ、コンクリートの柱を伝って足裏から直接響いてくる。瞬く間に、周囲の音をすべて掻き消していった。


 みどりが弾かれたように顔を上げた。

 暗がりの中で、涙に濡れた大きな瞳が慎太郎を真っ直ぐに見つめている。

 電車の轟音で、互いの言葉はもう届かない。だが、言葉など必要なかった。


 慎太郎は、みどりの少し荒れた頬にそっと右手を添えた。

 彼女の肩がビクッと跳ね、大きな瞳が驚きに見開かれたが、逃げようとはしなかった。微かに鉄粉の匂いと、甘いシャンプーの匂いが混ざり合った、彼女だけの匂いが鼻をかすめる。

 慎太郎はゆっくりと顔を近づけ、みどりの唇に不器用に自分の唇を重ねた。


 スマートな大人のキスではなかった。角度も探り探りで、少しだけ前歯がぶつかるような、ひどく拙い接触だった。

 みどりの唇は少し乾燥していて、しょっぱい涙の味がした。

 驚きで硬直していたみどりの身体から少しずつ力が抜け、やがて彼女は慎太郎の胸元に顔を押し当てた。

 電車の通過音がピークに達し、コンクリートの柱がビリビリと激しく震え、耳をつんざくような車輪の軋みが空間を満たす中、二人はただお互いの存在を確かめ合うように、静かに唇を合わせ続けていた。


 やがて轟音が遠ざかり、遠くの踏切の警報音が小さく聞こえるようになると、再び高架下に夜の静寂が戻ってきた。

 慎太郎がゆっくりと顔を離すと、みどりはうつむいて浅い呼吸を繰り返した。耳の裏まで真っ赤になっているのが、暗がりでもはっきりとわかった。


「……親父さん、まだ起きてるか」


 慎太郎が少し掠れた声で尋ねると、みどりはうつむいたまま、小さく頷いた。


「金曜の夜は、いつも深夜のテレビ見てから寝るから。……湊は、たぶんもう寝てる」

「そうか。少し、歩くか」


 慎太郎が促すと、みどりは何も言わずに慎太郎の隣に並んだ。手は繋がなかったが、並んで歩くうちに自然と歩調が合い、二人の肩が時折触れ合うほどの距離感だった。


★★★★★★★★★★★


 夜の住宅街を抜け、徒歩で十五分ほどの場所にある、築三十年のアパートへ向かう。

 開け放たれた民家の窓から漏れてくる夕飯の匂いや、テレビのバラエティ番組の笑い声が、遠くの世界の出来事のように感じられた。

 慎太郎がアパートの階段を上がり、鍵を開け、玄関の明かりをつけると、みどりは少し躊躇うように立ち止まった。


「……ここが、新しい部屋?」

「ああ。まだ段ボールも片付いていないが」


 慎太郎が靴を脱いで上がるのを確認してから、みどりも小さく「お邪魔します」とつぶやき、脱いだ安全靴のつま先をきちんと揃えてから廊下に上がった。

 1LDKの部屋は、壁紙こそ真新しい白だったが、家具と呼べるものは部屋の中央に置かれたダークグレーのローソファくらいしかない。生活感がひどく希薄で、二人の足音が少しだけ空虚に反響するような空間だった。

 みどりがリビングに足を踏み入れたその時。


「ニャッ」


 という短い声とともに、ソファの上で丸まっていた薄茶色の毛玉が顔を上げた。

 子猫のムギだ。

 慎太郎がこの部屋に引っ越してきてから、すっかりこのソファを自分の城として認識している。

 ムギは、見慣れない……というよりも、一度だけ嗅いだことのある匂いの客の存在に気づき、青灰色の瞳を丸くしてこちらを見つめている。


「お、ムギ。今日は起きてんじゃん」


 みどりが小さく鼻を鳴らした。前回、彼女が感情を爆発させてここを飛び出していったあの日、ムギはソファの上で完全な仰向けになって爆睡していた。

 ムギは「んにゃ」と小さく鳴きながら、ソファの端までやってきた。そして、床までの高さを短い首を伸ばして確認すると、前足をめいっぱい伸ばして、トスッ、と少し不器用な音を立ててフローリングに降り立った。

 まだ完全には足取りがしっかりしていないのか、ツルツルと滑るフローリングに少し戸惑うように短い足をばたつかせる。爪が床に当たる小さなカチャカチャという音を立てながら、それでもピンと立てた短い尻尾を振り、一直線にみどりの足元へとトテトテと歩み寄ってきた。


「今日もソファ占領してんね。偉い偉い」


 みどりはその場にしゃがみ込み、近づいてきたムギを見つめた。

 ムギはみどりの安全靴の匂いをスンスンと嗅ぎ、それから油の染み付いた作業着の膝に、小さな顔をスリスリと擦り付け始めた。

 みどりはそっと両手でムギのわきの下を持ち、すくい上げる。

 ムギは抵抗するどころか、空中に持ち上げられた状態で早くも「ゴロゴロ」と喉を鳴らし始める。みどりの大きな瞳が、その柔らかな命の振動を確かめるように細められた。


「……相変わらず、ちっこいなぁ。でも、すげえあったかい」

「毎日ミルクを要求してくるからな。少しずつだが重くなってる」


 慎太郎が後ろから声をかけると、みどりはムギの小さな頭を人差し指でそっと撫でた。ムギは気持ちよさそうに目を閉じ、みどりの指に頭を押し付けてくる。さっきまで泣き腫らしていた彼女の顔に、年齢相応の、柔らかく無邪気な笑みが広がっていく。

 前回この部屋に来た時は、互いの余裕のなさと年の差という壁に阻まれ、ムギの寝顔を見て吹き出した直後に彼女は泣きながら走り去ってしまった。だが今は、ガランとした殺風景な部屋の中で、みどりと小さな子猫が穏やかに触れ合っている。


「しんちゃん」


 みどりがムギを胸に抱いたまま、振り返って慎太郎を見た。

 その瞳には、もう迷いや卑屈な色はなかった。


「……ありがと」

「何がだ」

「わかんない。……全部」


 みどりは少しだけ口角を上げ、ムギの柔らかな毛並みに頬を擦り寄せた。照れ隠しのように顔を背けた彼女の耳が、微かに赤く染まっているのが見えた。

 初夏の夜風が、少しだけ開いた窓の隙間から吹き込み、部屋の中に新しい季節の匂いを運んできていた。

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