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金曜20時、高架下にて待ち合わせ。〜元ヤン幼馴染は18歳の母〜  作者: 伊達ジン


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第47話 鳥寅の夜

 金曜日の午後2時。容赦のない真夏の日差しが、海沿いの県道に陽炎を作って揺らしている。


 慎太郎は、海岸線を見下ろす高台の展望公園で、海から吹き上げる生温かい風に目を細めていた。視線の先には、白い手すりに寄りかかり、遠く水平線を見つめるカルメン・ガルシアの後ろ姿があった。

 風に激しく翻る、ひまわりのように鮮やかな黄色のサマードレス。彼女がこの町を去ると告げてから数週間が経っていたが、「成田からモロッコへ飛ぶ前に、最後に半日だけ私に頂戴」という唐突なメッセージとともに、彼女は再びこの町へ舞い戻ってきたのだった。


「やっぱり、ここの海の匂いは特別ね。スペインの海とも、東京の海とも違う。鉄と土と、むき出しの生活の匂いが混ざってる」


 カルメンは振り返り、悪戯っぽく笑った。彼女の琥珀色の瞳は、太陽の光を弾いて宝石のように輝いている。数時間前に駅で合流してから、彼女は地元の寂れた商店街を歩き回り、古びた喫茶店でクリームソーダを食べ、今はこうして海風を全身に浴びていた。


「もう思い残すことはないか」

「ええ。十分に満喫したわ」


 カルメンはゆっくりと歩み寄り、慎太郎の目の前で立ち止まった。甘く情熱的な香水と、潮の匂いが混ざり合う。彼女は両手で慎太郎の頬を包み込み、少し背伸びをして至近距離で彼を見つめた。


「……でも、一番変わったのはタケダ。あなたね」

「俺が?」

「ええ。初めて海辺でステップを踏んだ時の、あの今にも壊れそうだった深海魚みたいな顔はどこにもない。今のあなたは、もう誰のリードも必要としていないわ。自分の足で、地面を力強く踏みしめている」


 カルメンの親指が、慎太郎の頬を優しく撫でた。


「今夜、あの娘のところへ行くのね」

「ああ」

「迷いは?」

「ない」


 慎太郎が短く、一切の濁りなく答えると、カルメンはふっと唇の端を上げ、それから満足そうに笑った。


「そう。つまらない男になっちゃったわね。でも、それでこそ私がインスピレーションを感じた『最も美しい曲線』よ」


 彼女は頬から手を離し、クルリと身を翻した。遠くから、彼女を駅まで迎えにくるタクシーのタイヤ音が近づいてくる。


「行きなさい、タケダ。あなたの情熱の在り処へ。誰かのためじゃない、あなた自身が一番燃え上がれる場所へ」


 カルメンは振り返らずに右手を高く上げ、フラメンコの終わりのポーズのように美しく指先を弾いた。タクシーに乗り込む彼女の黄色のドレスが、夏の陽光の中に鮮やかに溶けていくのを、慎太郎は静かに見送った。


★★★★★★★★★★★


 頭上を数両編成のローカル線が、腹の底を揺らすような重い金属音を立てて走り去っていった。コンクリートの太い柱を通じて、足裏に微かな振動が伝わってくる。


 金曜日の19時55分。


 昼間のカルメンとの逢瀬から一転、バイパスの高架下には、日中に熱せられたアスファルトの熱と、湿気を帯びた重い空気が滞留していた。街の喧騒から切り離された薄暗いその暗がりの中に、『鳥寅』と黒々と筆文字で書かれた古びた赤提灯が、ポツリと赤い灯りを落としている。入り口の上部に取り付けられた小さな換気扇が、低い唸り声を上げながら、焦げた醤油と鶏の脂が混ざった煙を容赦なく外の空気へと吐き出していた。


 慎太郎の肌には、べっとりとした夏の湿気がへばりついている。だが、胃の奥にあるのは不快感ではなく、静かで確かな熱だった。カルメンが昼間に見抜いた通り、彼の中に「東京へ戻る」という選択肢も、過去の自分を取り戻すという強迫観念も、今はもう跡形もなく消え去っている。


 慎太郎は短く息を吐き、油でベタつく引き戸に手をかけ、ゆっくりと開けた。

 ガラガラという鈍い音とともに、「いらっしゃい」という女将のダミ声が、仕事帰りの客たちのざわめきを縫って響いてくる。


 入り口から一番近い、カウンターの隅。テレビの青白い光が落ちる定位置に腰を下ろし、瓶ビールを注文する。よく冷えたグラスに琥珀色の液体を注ぐと、シュワシュワと微かな炭酸の弾ける音がした。表面にうっすらと結露が浮かび上がるグラスを手に取っても、すぐには口をつけず、ただ入り口の引き戸をじっと見つめていた。指先から伝わるビールの冷たさが、今の彼に必要な唯一の現実感を保たせてくれている。


 先週の土曜日、公園で湊の言葉を聞いて泣き崩れたあの日から、みどりとはまともに顔を合わせていない。


 工場の再建計画は軌道に乗り始め、慎太郎が常駐する必要は薄れていた。それでも顔を出せば、みどりは親父の背中や機械の陰に隠れるようにして、明確に慎太郎との接触を避けていた。彼女がこれ以上傷つくのを恐れていることは分かっていた。だが、慎太郎にもう引く気はなかった。


 時計の針が、20時を5分ほど回った時だった。


 ガラガラ、と重い金属音を立てて引き戸が開き、みどりが店内に入ってきた。

 いつものようにダボついた男物の作業着姿だが、顔は石鹸で念入りに洗ったのか薄っすらと赤みを帯び、無造作にまとめられていた赤みがかった髪は、綺麗に櫛を入れられている。すれ違った時に微かに漂ったのは、いつもの鉄粉と機械油の匂いではなく、無機質で清潔な石鹸の香りだった。だが、その表情にはいつものような不敵な強気さはなく、どこか張り詰めた、見えない敵と対峙するような硬さがあった。


 みどりは慎太郎の姿を認めると、一瞬だけ足を止め、それから覚悟を決めたように歩み寄り、無言で隣のパイプ椅子に腰を下ろした。ギシリと、安っぽい金属の軋む音が鳴る。


「ウーロン茶、一つ」


 みどりがカウンター越しに女将に声をかける。その声は、ひどく硬く、うわずっていた。


「……遅かったな」

「じいちゃんが、湊の寝かしつけに手間取ってさ」


 みどりは慎太郎の方を見ず、壁のメニューの短冊を見上げたまま答えた。

 運ばれてきたウーロン茶のグラスを両手で包み込むように持つ。その手は、小刻みに震えていた。グラスの表面に浮かんだ水滴が、彼女の微細な震えに合わせて不規則に揺れ落ち、コースター代わりの紙おしぼりに暗い染みを作っていく。


 女将が、いつものようにレバーとつくねの串を皿に乗せて置いた。

 みどりは無言で串を手に取り、一口齧った。だが、いつもなら「美味い」と細められるはずの瞳は、硬く見開かれたままだ。味など感じていないかのように、機械的に咀嚼し、烏龍茶で流し込む。喉仏が動く様すら、どこかぎこちなかった。


「……工場のことだけど」


 グラスの表面を指先でなぞりながら、みどりが切り出した。換気扇の音に掻き消されそうなほど、小さな声だった。


「カルメンちゃんの新しいラインのサンプル、東京のセレクトショップから追加の発注が来た。銀行の人も、あの事業計画書を見て、当面の返済は待ってくれるって。親父も、もう大丈夫だって言ってた」

「そうだな。今のペースでいけば、来月には単月で黒字化する」

「だから……もう、いいよ」


 みどりが、ゆっくりと顔を上げた。

 彼女の大きな瞳が、初めて慎太郎を真っ直ぐに捉えた。その奥で、危うい光が揺れている。瞬きの回数が不自然に多い。


「もう、うちの工場に来なくていい」

「……」

「しんちゃんの仕事は終わったんだから。退職金だって、いつまでも持つわけじゃないでしょ。早く、東京でもどこでも、自分の人生に戻りなよ」


 息継ぎすら惜しむような、ひどく早口なトーンだった。言葉を切れば、自分の中の何かが崩れ落ちてしまうと分かっているかのように、みどりは瞬きもせずに捲し立てる。


「私の人生は、どうせこれからも油まみれで、鉄削って、湊に飯食わせるだけの毎日だから。しんちゃんがずっといてくれるような場所じゃない」


 慎太郎はビールのグラスをカウンターに置き、みどりの横顔を静かに見つめた。

 薄い作業着越しの小さな肩が、呼吸のたびに微かに震えている。


「俺が東京に戻らないことは、何度も言ったはずだ」

「だから、それがおかしいって言ってんの!」


 みどりの声が、突如として鋭く跳ね上がった。隣の席の常連客がちらりとこちらを見たが、みどりは構わずに続けた。グラスを握る指先が、鬱血するほど白くなっている。


「しんちゃんに釣り合う人なんか、いくらでもいるじゃん! あの瑞穂さんとか、エレノアさんとか、私なんかよりずっと綺麗で、頭が良くて、同じ世界で生きてる人たちが、迎えに来てくれたでしょ!? なんで、こんなガキがいて、中卒で、借金まみれの女なんかに……っ」


 そこまで一気に吐き出し、みどりはハッと口をつぐんだ。

 言ってはいけない言葉まで零れ落ちてしまったことに気づいたように、血の気が引いた唇を強く噛み締める。


 慎太郎は、みどりの言葉を静かに最後まで聞いた。

 そして、カウンターの上に置かれていた彼女の左手を、自分の右手でしっかりと包み込んだ。


「……っ、やめ、汚いから」


 みどりは驚いて手を引こうとしたが、慎太郎は力を込めて離さなかった。彼女の指先は、夏の夜だというのに氷のように冷たく、そして震えていた。金属を削り、重い資材を運び続けてきたその手は、同年代の少女たちのそれとは違い、骨張って硬い。だが、慎太郎にとって、この手こそが彼を暗闇から引っ張り上げてくれた確かな命の象徴だった。


「汚くない」

「離して……」

「俺が適応障害になって、逃げるようにこの町に帰ってきた時。お前は俺を笑わなかった。同情もしなかった」


 慎太郎は、みどりの揺れる瞳から決して視線を逸らさなかった。


「『逃げて正解だったんじゃないの』と、お前は言った。あの言葉に、どれだけ救われたか」

「そんなの……誰だって言うよ」

「言わない。誰も言ってくれなかった。俺自身でさえ、壊れて逃げ出した自分を許せずにいたんだ」


 慎太郎の親指が、みどりの冷たい手の甲をそっと撫でる。


「お前は、自分がどれだけ過酷な状況にいても、決して他人のせいにしなかった。一人で全部抱え込んで、歯を食いしばって立っていた。その姿を見て、俺はもう一度、自分の足で立つ気力を取り戻せたんだ」


 みどりの呼吸が、小刻みに震え始めていた。

 視線が定まらず、必死に涙を堪えようと瞬きを繰り返している。


「俺がお前たちを助けたんじゃない。お前が、俺を救ってくれた」

「……しんちゃん」

「同情じゃない。幼馴染としての情でもない。感謝すら超えている」


 鳥寅の店内の喧騒が、遠ざかっていく。

 焼き台の煙も、客たちの笑い声も、今の慎太郎の耳には届かなかった。ただ、目の前にいる一人の女性の、張り裂けそうな呼吸の音だけが聞こえていた。


「俺は、一人の女性として、お前を愛している」


 静かに、だが一切の濁りを持たない言葉が、二人の間に落ちた。


 みどりの目が大きく見開かれた。

 その瞬間、彼女がこれまで必死に張り巡らせてきた見えない壁が、音を立てて崩れ落ちるのがわかった。


「……っ」


 みどりは顔を歪め、両手で顔を覆おうとしたが、右手が慎太郎に握られているため、空いた左手だけで必死に目元を隠した。

 ぽろぽろと、大粒の涙がこぼれ落ち、作業着の太ももの部分にいくつもの濃い染みを作っていく。必死に声を殺そうとしているのか、口を固く結んでいるが、それでも喉の奥から漏れるような嗚咽を止めることはできない。小さな肩が激しく上下に揺れ、彼女がこれまでどれほどの孤独と不安をその細い身体に溜め込んでいたのかが、その震えのすべてから伝わってきた。


「……バカみたい。なんで、私なんか……」

「お前がいいからだ。他の誰でもない」

「私、ほんとに……バカだし。金もないし、毎日油臭いし……っ」

「知ってる。その匂いが一番落ち着くんだ」

「湊だって……今は懐いてるけど、大きくなったら絶対反抗期で、暴れるし……」

「その時は、一緒に頭を抱えてやる」


 慎太郎の言葉に、みどりは小さくしゃくりあげた。

 左手で乱暴に目元を拭うが、涙は後から後から溢れて止まらない。


「……ほんとに、後悔しない?」

「しない。俺の計算式は、絶対に間違えない」


 慎太郎が少しだけ口角を上げて言うと、みどりは泣きながら「……ムカつく」と小さく悪態をつき、そして、慎太郎の手を強く握り返してきた。


 彼女の小さな手から伝わってくる、確かな熱。

 それは、これまで慎太郎が扱ってきたどんな巨額の数字よりも重く、絶対に失ってはいけない命の質量だった。


 頭上を、再び数両編成のローカル線が通り過ぎていく。

 重い金属音が腹の底に響き、コンクリートの太い柱を通じて足裏に振動が伝わってくる。

 慎太郎はみどりの手を握ったまま、少しだけ冷めたビールが入ったグラスへと空いた方の手を伸ばした。

 鳥寅の喧騒が、再び二人の周囲を取り囲むように戻ってきていた。

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