第46話 湊の言葉
フローリングの床に落ちた初夏の日差しが、部屋の奥へとじわじわと面積を広げていく。
真新しいアパートの1LDK。引っ越し業者から受け取った段ボール箱はまだ半分も開けられておらず、壁には時計すらかかっていない。シンクでグラスを洗う水の音だけが、家具のない部屋に虚ろに反響していた。
土曜日の午前11時。
昨夜、みどりが泣きながら飛び出していった玄関のドアを遠くに見つめながら、慎太郎は蛇口のレバーをゆっくりと下ろした。ピタリと水音が止むと、部屋の中は耳鳴りがするほどの無機質な静寂に包まれる。
『31と、18だよ。13個も違う。ずっとずっと先の、私の知らない世界で生きてきた人なんだよ』
彼女の絞り出すような声が、まだ耳から離れずにいた。
どこで間違えたのか。問いかけても、静まり返った部屋は何も答えてはくれない。
洗ったばかりのグラスを水切りカゴに伏せ、ふっと息を吐き出したその時だった。
『ピンポーン』
玄関のインターホンが、無遠慮な電子音を部屋に響かせた。
実家の父親が様子でも見に来たのかと思い、慎太郎は首にかけたタオルで手を拭きながら玄関のドアを開ける。
「さあ武田さん、お着替えを。今日は私とデートですよ!」
そこに立っていたのは、満面の笑みを浮かべた野村奈緒子だった。
鮮やかなターコイズブルーのノースリーブのサマードレスに、白いサンダル姿だった。
「……は?」
「は、じゃありません。拉致しに来たんです。ほら、早く鍵閉めて!」
呆気にとられる慎太郎の腕を掴み、奈緒子は有無を言わさぬ力で彼を部屋の外へと引きずり出した。
★★★★★★★★★★★
駅前の大通りに面した、オープンカフェのテラス席。
強い日差しを遮るパラソルの下で、奈緒子は背の高いグラスに入ったフルーツパフェを、長いスプーンで手際よく崩していた。生温かい南風が、彼女の明るい栗色の髪を揺らしていく。
向かいの席で、結露したアイスコーヒーのグラスを見つめながら、慎太郎は片手で眉間を揉んだ。
「……で。保育園の先生が、休日の昼間に保護者の関係者を呼び出して、何の用だ。デートというからには、それなりの理由があるんだろうな」
「デートだって言ってるじゃないですか。武田さん、エスコートの基本がなってませんね」
奈緒子は悪びれる様子もなくパフェのイチゴを口に放り込み、それから、スプーンを置くとスッと真顔になった。
「昨日の夜、みどりちゃんに何言ったんですか」
ストレートな問いだった。慎太郎の肩が微かにこわばる。
「今朝、みどりちゃんが湊くんを土曜保育に預けに来たんですけど。もう、見てられないくらい酷い顔してました。目が真っ赤に腫れてて、すっぴんで。湊くんも、お母さんがおかしいの察して、珍しく私にしがみついて泣いてぐずって大変だったんですよ。私が『何かあった?』って聞いても、みどりちゃん、無理やり笑って誤魔化すだけで」
奈緒子の声には、普段の明るいトーンの下に、明確な怒りのようなものが混じっていた。パフェのクリームが溶け出しているが、彼女はもうスプーンを動かそうとはしない。
慎太郎はゆっくりと息を吐き、手元のグラスについた水滴を指先で拭った。
「……俺が東京に戻らず、ここで部屋を借りたと言った。そうしたら、向こうが勝手に壁を作って拒絶してきたんだ。13歳も歳が違う、自分は油まみれのガキで、住む世界が違うと」
「ふうん」
「俺は、退路を断ってこの町で生きると決めた。その覚悟を伝えたはずなのに、彼女は俺の存在が自分の重荷になると言って……」
「あのさぁ」
奈緒子が、パフェのスプーンをカチンと音を立ててガラスの器に置いた。
呆れ果てたような、ひどく冷めた瞳で慎太郎を見据えている。
「武田さんって、東京で何百億だか何千億だかの仕事回してた凄腕なんですよね? それなのに、本当に肝心なところがポンコツですね」
「……ポンコツ?」
「ええ。超ド級の」
奈緒子はテーブルに身を乗り出し、慎太郎の目を真っ直ぐに射抜いた。
「いいですか。みどりちゃんは、武田さんが重荷だから突き放したんじゃないんです。怖かったんですよ」
「……怖い?」
「みどりちゃんは、ずっと武田さんの背中を見て育ってきたんです。そんな大好きな人が、ある日突然ボロボロになって帰ってきて、彼女は必死に武田さんを守ろうとした。でも、武田さんが元気になって、本来の『すごい人』に戻れば戻るほど、あの子は自分が惨めになっていくんです」
奈緒子の言葉は、容赦なく慎太郎の思考の隙間を突いた。
「武田さんが大きくて完璧すぎるから、いつか自分に愛想を尽かして、東京に帰っちゃうのが怖いんです。いつか絶対に捨てられるって、心の底で怯えてるんです。だから、後で一人になって死ぬほど傷つくくらいなら、今、自分から手を離そうとしてるんですよ」
「だからって、本心でもない言葉で壁を作るのは……」
「大人の女性なら、もっと上手く甘えたり、計算したりできるでしょうよ。でもね、あの子はまだ18歳ですよ? 毎日ギリギリで母親やってて、多額の借金抱えた工場背負ってて。そんな余裕、あるわけないじゃないですか!」
奈緒子の声が少しだけ大きくなり、周囲の客がちらりとこちらを見た。だが彼女は意に介さず、言葉を続けた。
「保育園の子供たちだってそうです。親が離れていく不安を感じた時、わざと悪いことをして、親の愛情を試すんです。わざとおもちゃを投げたり、ご飯をひっくり返したりして、『こんな悪い子でも見捨てない?』って確認するんです。みどりちゃんのやってることは、それと同じです。論理とか正論でねじ伏せようとしたって、何の意味もないんです」
慎太郎は言葉を失い、ただ目の前のグラスを見つめた。
氷が完全に溶け、アイスコーヒーの表面に薄く水の層ができている。グラスの側線を一滴の水滴が滑り落ちていくのを、ただ黙って目で追うことしかできなかった。
奈緒子は短くため息をつき、ハンドバッグを手にして立ち上がった。
「はい、デートはこれでおしまい。会計は武田さん持ちでお願いしますね」
「……野村さん」
「今頃、湊くんのお迎えに行ってるはずです。いつもの公園にいると思いますよ」
奈緒子はウインクを一つ残し、足早にテラス席を去っていった。
テーブルに残された伝票を見つめながら、慎太郎は自分の愚かさに強く唇を噛み締めた。
★★★★★★★★★★★
午後4時過ぎ。
西日が傾き始めた公園は、子供たちの歓声と、母親たちの井戸端会議のくぐもった声で満ちていた。
「今日の夕飯、どうする?」「駅前のスーパー、豚肉安かったわよ」といった、日常の穏やかな会話が風に乗って流れてくる。アスファルトの照り返しが弱まり、少しだけ涼しい風が木々を揺らしていた。
慎太郎は公園の入り口に立ち、遊具の周りを見渡した。
砂場のすぐそばのベンチに、みどりの姿があった。
いつものダボついた作業着ではなく、くたびれた白いTシャツにデニムというラフな格好だった。彼女は両手で安い紙パックのリンゴジュースを持ったまま、どこか焦点の合わない空っぽな目で、地面の砂利を見つめている。ジュースのストローは無意識に噛み潰されたようにペチャンコになっており、中身は全く減っていないようだった。
肩が落ち、その小さな背中は昨夜よりもさらに一回り小さく見えた。
慎太郎はゆっくりと、足音を消さずに彼女の方へ歩み寄った。
ベンチに近づく直前、砂場でプラスチックのスコップを握っていた小さな影が、パッと顔を上げた。
「あ!」
湊だった。
短い足を精一杯動かし、砂だらけの靴で慎太郎の方へ駆け寄ってくる。
「しんちゃ!」
満面の笑みで、湊が慎太郎のジーンズの脚にガバッと抱きついた。砂と泥の感触が布越しに伝わってくる。
その声に驚いたみどりが、弾かれたように顔を上げた。
「……っ」
慎太郎と目が合った瞬間、彼女の顔がサッと強張った。昨夜泣き明かしたせいで、二重の幅は不自然に腫れ上がり、目の下には濃い隈が張り付いている。
「……なんで、来たの」
みどりは身を固くし、掠れた声で言った。必死に虚勢を張ろうとしているが、膝の上に置かれた手が微かに震えているのがわかった。紙パックのジュースが、その震えでわずかにベコベコと頼りない音を立てている。
「お前に、言い忘れたことがあってな」
慎太郎が静かに答えると、みどりは視線を逸らし、唇を強く噛み締めた。
脚に抱きついていた湊が、慎太郎のズボンの裾をグイグイと引っ張った。
「しんちゃん、きょう、おうち、くる?」
湊は、キラキラと輝く純粋な瞳で慎太郎を見上げた。
慎太郎は湊の頭をそっと撫で、それからみどりの方を見た。
「……どうだろうな。俺が行くと、お母さんが困るかもしれないからな」
みどりの肩が、ビクッと跳ねた。
湊は不思議そうに首を傾げ、慎太郎とみどりの顔を交互に見比べた。そして、はっきりとした声で口にした。
「しんちゃん、ずっと、いっしょに、いて!」
風が止んだ気がした。
公園の喧騒が、急に遠くに退いていく。
みどりの表情が、凍りついたように動かなくなった。
「……っ、だめ」
みどりがベンチから立ち上がろうとしたが、足がもつれてうまく力が入らず、再びベンチに座り込んでしまう。手から滑り落ちた紙パックのジュースが地面に転がり、ストローの先から黄色い液体がアスファルトにじわじわと滲んだ。
「湊……っ、やめて、そんなこと言ったら、だめじゃん……っ」
彼女の喉から、ひゅっと空気が漏れるような音が鳴った。
張り詰めていたダムが、音を立てて決壊した。
みどりは両手で顔を覆い、その場にしゃがみ込んだ。顔を覆ったその手から、大粒の涙がボロボロとアスファルトに溢れ落ちていく。
「……私なんかが、しんちゃんを縛っちゃいけないのに……っ」
嗚咽混じりの、子供のような泣き声だった。
「私じゃ、ダメなんだよ……釣り合わないし、バカだし……しんちゃんの重荷になるだけで……っ」
慎太郎は湊の頭をもう一度優しく撫でてから、しゃがみ込んでいるみどりの前に膝をついた。
慎太郎は、顔を覆って泣きじゃくるみどりの両手首をそっと掴み、ゆっくりと引き剥がした。
「……っ、見ないで……」
「見させてくれ」
涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった彼女の顔を、慎太郎は真っ直ぐに見据えた。
「縛られてるんじゃない。俺が、ここでお前たちと一緒にいたいから、勝手にいるんだ」
「でも……っ」
「お前が俺を重荷だと言って拒絶するなら、俺は何度でもお前の前に現れる。住む世界が違うと言うなら、俺がお前の世界に土足で踏み込む」
慎太郎はみどりの小さな肩を、自分の胸に引き寄せるように強く抱きしめた。
初夏の終わりの汗の匂いと、微かな機械油の匂いがした。
「だから、もう勝手にいなくなるなんて思うな。……ずっと一緒にいる」
その言葉を聞いた瞬間、みどりは慎太郎の胸に顔を埋め、声にならない声を上げて泣き崩れた。彼女の小さな両手が、慎太郎のシャツの背中を、決して離さないというように強く、強く握りしめていた。
西日が、三人の影を長くアスファルトに伸ばしていた。




