第45話 年の差の壁
フローリングの床には、まだテープも切られていない段ボール箱が七、八個ほど無造作に積まれている。
実家から車で15分ほどの場所にある、築30年の小さなアパート。水回りはリフォームされていて小綺麗だが、1LDKの部屋は男一人で暮らすには少し持て余す広さだった。壁紙は真新しい白で、天井からは無機質なシーリングライトがぶら下がっている。
退職金の振り込みを確認し、実家を出てから二日。慎太郎はとりあえずの寝床として布団を敷き、あとは少しだけ奮発して買った座り心地の良いダークグレーのローソファだけを部屋の中央に配置していた。それ以外に家具と呼べるものはなく、声を出せばわずかに反響するほどガランとしている。
そのソファのど真ん中を、薄茶色の毛玉が完全に占拠していた。
ムギだ。
新しい環境への警戒心など微塵もない。柔らかいクッションの上で完全に液体のように伸び切り、見事な仰向け──いわゆる「へそ天」の状態で眠りこけている。白い腹を丸出しにし、両前足を幽霊のようにだらんと下げたまま、時折「んにゃっ」と短い寝言を漏らした。夢の中で何かを追いかけているのか、後ろ足の肉球がピクピクと痙攣するように動いている。嵐の夜に神社で拾い上げた時の、あの骨と皮ばかりで消え入りそうだった頼りなさはもうない。毎日のミルクと世話を経て、今ではしっかりとした重みを持った命としてそこに存在していた。
「……お前、野生で生きていく気は最初からなかったんだな」
キッチンでコーヒーを淹れていた慎太郎が呆れたように呟くと、ムギは耳だけをピクリと動かし、ゆっくりと寝返りを打って今度はソファの背もたれに顔を押し付けた。
コーヒーメーカーから立ち上る香ばしい匂いが、まだ生活感のない真新しい部屋に少しずつ満ちていく。マグカップを手に取り、窓の外を見た。遠くにバイパスの街灯がオレンジ色の線を引いている。時折、大型トラックが通り過ぎる低い音が聞こえる。東京の六本木から見下ろしていた、あの冷たく輝く夜景とは全く違う。
ピンポーン、と。
無機質なチャイムの音が、静かな部屋に響いた。
ドアの覗き穴から確認するまでもなく、誰が来たのかは分かっていた。
玄関のドアを開けると、生温かい初夏の夜風とともに、みどりが立っていた。金曜日の20時。いつもなら高架下の赤提灯で落ち合う時間だが、今日は引っ越しの手伝いという名目で、慎太郎の新しい部屋を訪ねてきたのだ。
「お邪魔しまーす……って、うわ。何これ」
少し大きめの白いTシャツに色落ちしたデニムというラフな格好のみどりは、玄関でスニーカーを脱ぐなり、ソファで溶けているムギを見て吹き出した。
「こいつ、ここ自分の城だと思ってんな。引っ越して二日目だよね?」
「到着して10分後にはその状態だった。俺より適応力が高くて腹が立つ」
みどりはソファの前にしゃがみ込み、ムギの柔らかい腹を人差し指でツンと突いた。ムギは目を覚ますこともなく、「ぐるる……」と喉の奥でモーターのような音を鳴らし、みどりの指に頭を擦り付けてきた。
「かわいー。湊より寝相悪いかも」
みどりが無邪気に笑う。彼女の首元から、ほんのりと石鹸の匂いがした。作業着の油の匂いを消すために、来る前に念入りに風呂に入ってきたのだろう。ムギを撫でる彼女の指先を、慎太郎は無言で見つめた。その指先には、いくつもの小さな擦り傷がある。
二人は、段ボール箱をテーブル代わりにして向かい合って座った。みどりがスーパーの袋から買ってきた缶ビールと惣菜のパックを取り出す。唐揚げ、ポテトサラダ、それに枝豆。飾り気のないラインナップが、今の二人にはちょうどよかった。割り箸を割り、それぞれの手元に置く。
「じいちゃんがさ、引っ越し祝いだって。今日は湊の寝かしつけまで全部やってくれるから、ゆっくり飲んでこいって」
「そうか。お礼を言っておいてくれ」
プルタブを開け、缶を軽く打ち合わせる。カチン、という軽い音が響いた。乾杯もそこそこに、冷えたビールで喉を潤す。炭酸の刺激とホップの苦味が、引っ越し作業で疲れた身体に染み渡っていく。
「工場の新しいスケジュール表、見たよ。……完璧すぎて引いた」
みどりがポテトサラダのパックをつつきながら言った。
「まだスタートラインに戻っただけだ。ここから半年間、初期ロットの不良品率をゼロに抑える必要がある。親父さんにも伝えたが、設備のメンテナンスは今まで以上にシビアにやってくれ」
「わかってる。昨日から、旋盤の刃の交換サイクルも全部見直したから。親父も文句言いながら、結局しんちゃんの言う通りに動いてるし」
みどりはビールを一口飲み、小さく息を吐いた。
「……本当、しんちゃんには頭上がんないね。親父も毎日仏壇に手合わせる勢いだよ。神様仏様武田様だって」
「やめろ。俺は自分がやるべきタスクをこなしただけだ」
慎太郎が淡々と答えると、みどりは缶ビールを持ったまま、わずかに動きを止めた。
「……やるべきタスク、か」
呟くような声だった。
みどりは視線を落とし、缶の表面についた水滴を指先でなぞった。彼女の表情から、先ほどまでの無邪気な笑みがスッと消え、見えない壁を一枚隔てたような、ひどく大人びた、あるいは諦めを含んだような冷たい色が広がっていく。指先が水滴を弾き、段ボールの表面に小さな染みを作った。
「しんちゃん」
みどりは顔を上げないまま、静かに言った。
「もう、いいんだよ」
「何がだ」
「工場、なんとかなった。しんちゃんのおかげ。マジで、一生かかっても返しきれないくらい感謝してる。だから……」
そこで一度言葉を切り、みどりは深く息を吸い込んだ。
「……だから、もう自由にしていいんだよ。しんちゃんの人生の無駄遣い、これ以上させられない」
慎太郎はビールの缶を段ボールの上に置き、黙って彼女を見た。
「退職届も出しちゃったし、すぐには無理かもしれないけど。でも、あのエレノアって人とか、瑞穂さんだっけ? ああいう凄い人たちが、しんちゃんが元の場所に戻ってくるのを待ってるんでしょ。私なんかに構ってたら、しんちゃんの本当の居場所がなくなっちゃう」
「俺は、東京には戻らないと言ったはずだ。この町で生きていくと決めたから、実家を出て部屋も借りた」
「だから、それがおかしいって言ってんの!」
みどりの声が、突如として鋭く跳ね上がった。
ソファで眠っていたムギが微かに耳を動かしたが、目を開けるには至らない。静まり返った部屋に、みどりの乱れた呼吸音だけが微かに響く。
「……しんちゃんさ。私と、いくつ違うと思ってんの」
みどりは顔を上げ、慎太郎を真っ直ぐに睨んだ。その大きな瞳が、水気を帯びて危うく揺れている。彼女の声には、怒りよりも深い、どうしようもない諦めのような響きが混じっていた。
「31と、18だよ。13個も違う。私がランドセル背負ってた時に、しんちゃんはもう大学生で、東京にいたんだよ。ずっとずっと先の、私の知らない世界で生きてきた人なんだよ」
「それがどうした」
「どうした、じゃないよ……っ」
みどりは唇を血が滲むほど強く噛み締めた。自分の膝の上に置かれた手を見下ろす。その小さな両手には、いくつもの見えない重圧が乗っかっている。
「私、湊がいるんだよ。一回、別の男の嫁さんになってるんだよ。頭も悪いし、気の利いた話もできないし、毎日油まみれで鉄削ってるだけの、ただのガキじゃん」
彼女の吐き出す言葉は、一つ一つが自分自身を傷つける刃のように鋭かった。彼女の声は震え、途切れがちになっていく。
「エレノアさんとか、マヤさんとか。あんな、おとぎ話みたいな綺麗な人たちに囲まれてたしんちゃんが……なんで、こんな泥舟に残ろうとすんの。私、しんちゃんの隣に立つ資格なんて、一ミリもないよ」
最後の言葉は、ひどく掠れていた。みどりは泣くまいと必死に目を見開き、両手で自分のジーンズの膝を力強く握りしめている。
エアコンの低い稼働音だけが、二人の間に落ちた沈黙を埋めていた。
慎太郎はゆっくりと姿勢を正し、みどりの潤んだ瞳を正面から見据えた。
「資格なんて、誰の審査もいらない」
静かな、だが腹の底から絞り出すような声だった。
「俺は、あの東京のシステムの中で、資格や評価ばかりを気にして生きてきた。他人の期待に応えられない自分を許せず、息の仕方も忘れて壊れた。……だが、お前がその手で鉄を削って、泥だらけになって湊を育てているのを見て、俺は初めて、ちゃんと息ができたんだ」
みどりの肩が、ビクッと震えた。彼女は慎太郎の言葉を一つも零すまいとするように、じっと耳を傾けている。
「13の年の差も、お前に子供がいることも、過去に誰かの妻だったことも、全部事実だ。帳消しにはならないし、俺もするつもりはない」
慎太郎の視線は、一切のブレなくみどりを捉え続けていた。
「だが、俺はもう、自分の生きたい場所から逃げない」
みどりは慎太郎の視線を受け止めきれず、顔を伏せた。
ポツリ、と。
色落ちしたデニムの膝の上に、小さな水滴が落ちて、濃い色の染みを作った。みどりは何も言わず、ただ手の甲で乱暴に目元を拭う。それでも、後から後から涙が溢れ出し、彼女の小さな肩を小刻みに震わせていた。鼻をすする音が、静かな部屋に何度も響く。
慎太郎はそれ以上何も言わなかった。安易に手を伸ばして慰めることもしない。そんなことをすれば、彼女が必死に保ってきた切実なプライドを根底から崩してしまう。ただ、彼女が泣き止むまで、同じ空間で、ビール缶の並ぶ段ボールを挟んで静かに座り続けた。窓の外から、遠くを走る車のエンジン音が微かに聞こえてくる。
ソファの上では、ムギが大きな欠伸をして再び丸くなっていた。




