表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
金曜20時、高架下にて待ち合わせ。〜元ヤン幼馴染は18歳の母〜  作者: 伊達ジン


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
44/55

第44話 エレノアとマヤからの祝電

 真夏の刺すような日差しが、色褪せたトタン屋根を容赦なく照りつけている。開け放たれた工場のシャッターからは、アスファルトの熱をたっぷりと孕んだ重たい風が吹き込み、油と鉄粉の匂いを事務所の奥まで運んできていた。

 パイプ椅子に深く腰掛けた慎太郎は、長机の上に広げたノートパソコンの画面と無言で睨み合っていた。手元には、部品の単価や歩留まり率がびっしりと書き込まれた印刷物の束が山積みになり、使いかけの赤ペンが転がっている。古びた扇風機が首を振るたびに、書類の端が微かにカサカサと音を立てた。

 熱暴走を防ぐために唸りを上げるパソコンの冷却ファンの音を聞きながら、慎太郎は画面上のスプレッドシートの最終行の数字を確認し、キーボードを叩く手を止めた。


「……よし」


 小さく息を吐き、首の後ろに手を当てて凝りをほぐす。額に滲んだ汗を手の甲で拭った、まさにその時だった。

 開け放たれたシャッターの向こう、土埃の舞う工場の敷地内に、一台の黒いハイヤーが静かに滑り込んできた。

 磨き上げられた漆黒のボディが、周囲の錆びた資材や色褪せた風景の中で、ひどく不釣り合いな光を反射している。運転席から制服に白い手袋姿の男が降り立ち、後部座席ではなく助手席からうやうやしく一枚の分厚い封筒を取り出した。国際宅配便の最上位サービスだった。


「武田慎太郎様ですね。サインをお願いいたします」


 受け取った封筒は、指先からその上質さが伝わってくるような重厚な和紙の風合いを持っていた。裏面には、万年筆のブルーブラックのインクで、流麗なアルファベットが記されている。


『Eleanor Walker』


 慎太郎はペーパーナイフで慎重に封を切り、中の書類を引き出した。

 数枚の英文で書かれた正式な契約書と、一枚の便箋。

 書類のタイトルには、みどりの工場が新たに始めた「廃材アート事業」に対する、小規模なシード投資の提案が記されていた。金額こそ、彼女が普段動かしているファンドの規模からすれば誤差のようなものだが、条件面は極めてフェアであり、この小さな工場を法務と財務の両面から完璧に守り抜く、強固な盾となる内容だった。


 添えられた便箋には、インクの濃淡から筆圧の勢いまで感じ取れる文字で、こう綴られていた。


『日本の古い企業体質があなたの才能を潰したという私の考えは、今でも変わっていない。あなたがその小さな町で才能を腐らせているのは、明確に世界の損失よ。けれど……あなたが自らの意志でその翼を畳み、泥にまみれてでも守り抜こうと決めたものの価値は、少しだけ理解できた気がする。せいぜい私のファンドに損をさせないことね』


「……相変わらず、素直じゃないな」


 慎太郎は口元をわずかに緩め、その書類を丁寧にクリアファイルへと収めた。


「しんちゃん、何それ。すげえ車来てたけど」


 背後から声がして振り返ると、首にタオルを巻いたみどりが事務所の入り口に立っていた。安全靴の底がコンクリートを擦る音が響く。彼女の頬にはうっすらと黒い油汚れがつき、ダボついた作業着は汗で重く肌に張り付いていた。


「少し厄介な、でも最高に頼もしいスポンサーからの出資依頼だ。ロンドンのファンドから、お前の工場の廃材アートに投資したいとさ」

「えっ? ロンドンって……あの、背の高くてすっげえ綺麗な外人の?」


 みどりが目を丸くして、クリアファイルを覗き込む。


「ああ。彼女からの、俺たちへの祝電みたいなものだ」

「そっか……。なんか、住む世界が違いすぎてよくわかんないけど、ありがたいね」


 みどりは少しだけ安堵したように息をつくと、思い出したように工場の奥の方を親指で指し示した。


「あ、そうだ。さっき、材料の搬入と一緒に、しんちゃん宛てにすげえデカい木箱が届いたんだけど。宛名、マヤさんからだったよ」


 その名前に、慎太郎は小さく眉を動かした。

 事務所の隅に置かれた頑丈な木箱の蓋を開けると、新しい木屑の匂いとともに、丁寧な緩衝材の中に一本のワインが鎮座していた。埃を被ったラベルの色褪せ具合と、コルクの沈み込みが、そのボトルの過ごしてきた途方もない時間を無言で物語っている。


 添えられたメッセージカードには、たった一言だけが書かれていた。


『新しい羽ばたきのお祝いに。今夜、私の家で最後の乾杯をしましょう』


 みどりは箱の中のボトルをまじまじと見つめ、呆れたようにため息をついた。


「うわ、これ絶対高いやつじゃん。ラベル、読めないけど……行ってきなよ、しんちゃん。マヤさんには、うちの親父も私も色々とお世話になったし」

「……気にならないのか」


 慎太郎が尋ねると、みどりは鼻で笑ってそっぽを向いた。


「なるわけないじゃん。しんちゃんが誰に一番会いたいかなんて、私が一番よく知ってんだから」


 その横顔には、もう何の迷いもなかった。確かな足場を見つけた人間の、静かで力強い表情だった。


「……ああ。そうさせてもらう」


 慎太郎はみどりの肩を軽く叩くと、木箱を抱えて立ち上がった。


★★★★★★★★★★★


 午後8時。

 太陽が完全に沈み、夜の帳が下りた町外れの道を、慎太郎は歩いていた。砂利を踏む自分の足音が、静寂の中に響く。

 深い木立に囲まれた邸宅の前に立ち、重厚な引き戸に手をかけると、内側から微かな白檀の匂いが漂ってきた。


「いらっしゃい。開けてあるわ」


 奥の縁側から、声が響いた。

 靴を脱いで居間に足を踏み入れると、間接照明の薄暗い光の中、マヤがゆったりとソファに腰掛けていた。深いネイビーのシルクのワンピースが、彼女が少し動くたびに滑らかな光沢を放つ。エキゾチックな顔立ちに、余裕のある微笑みが浮かんでいた。


「わざわざすまない。それに、あんな高価なワインまで」

「いいのよ。私が美味しいお酒を飲みたかっただけだから」


 マヤはテーブルの上のバカラグラスを二つ引き寄せると、ヴィンテージワインの栓を静かに抜いた。コルクが空気を吸い込む微かな音とともに、豊潤で複雑な香りが、古い木造建築の空気を一瞬にして塗り替える。

 グラスの底に、深いルビー色の液体が滑らかに注がれていく。


「乾杯しましょう。あなたが、自分の足で再び立ち上がったことに」


 グラスが触れ合い、澄んだ高い音が響いた。

 極上のワインは、舌の上でビロードのようにほどけ、喉の奥に静かな熱を残して消えていった。


「美味しい……」

「でしょう? とっておきを開けたの」


 縁側からは、夜風が心地よく吹き込んでいる。遠くの草むらで、秋を先取りしたような虫の音が微かに聞こえた。

 マヤはグラスを傾けながら、慎太郎の顔をじっと見つめた。


「……いい顔になったわね」

「そうか?」

「ええ。初めてこの庭で会った時、あなたはひどい顔をしていた。息をしているだけの抜け殻みたいだった」


 マヤの視線が、縁側の外、暗闇に沈む日本庭園へと向けられる。


「だから私は『何もしなくていい、壊れたままで十分美しいわ』って、あなたに言った。……私の側にいれば、もう二度と傷つくことはないって」

「だが、俺はそこから抜け出すことを選んだ」

「そうね。エレノアという若い天才が、あなたを世界の最前線に引き戻そうとしたけれど、あなたはそれすらも断ったわ」


 マヤは、グラスの縁を指先でなぞりながら目を細めた。


「莫大なオファーを断ってまで、あなたが選んだのは、油にまみれた小さな町工場と、不器用な18歳の女の子」

「俺の世界は、もっと小さくて温かい場所でいいと気づいたからな」


 慎太郎は、自分のグラスに残った液面を見つめながら、静かに口を開いた。


「激務と重圧に耐えられずに逃げ出した俺が、もう一度自分の意志で守りたいと思える場所が、あの工場だった。従業員や息子を守るために、昼夜問わず働き、一人で全てを背負い込もうとするみどりの姿が、かつての俺と全く同じだったんだ」


 マヤはグラスをテーブルに置き、慎太郎の方へ向き直った。


「マヤ」


 慎太郎は顔を上げ、正面から彼女を見た。


「あんたが俺を全肯定して、究極の逃避を与えてくれたから、俺は完全に壊れずに済んだ。……感謝している」


 マヤは少しだけ目を瞬かせた後、ふっと唇の端を上げて笑った。


「やだ、真面目な顔をして。……でも、そういう素直なところ、嫌いじゃないわ」


 彼女は立ち上がり、ゆっくりとした足取りで慎太郎の隣に歩み寄った。シルクの生地が擦れる微かな音が耳をくすぐる。

 マヤは慎太郎の隣に腰を下ろすと、彼の肩にそっと自分の頭を預けた。深く甘い香水と、ワインの香りが入り混じる。


「……少しだけ、嫉妬しちゃうわね」

「嫉妬?」

「ええ。大地に根を張る、あの美しい花に」


 マヤの冷たい指先が、慎太郎のシャツの袖口に軽く触れる。


「傷ついた羽を休めた後、あなたは再び泥まみれになりながら、自分の手で守るべき居場所を作り上げようとしている」


 彼女の指先が、袖口から手の甲へと滑るようになぞった。


「……もう、私が甘やかしてあげる隙なんて、どこにもないみたい」

「マヤ……」

「いいのよ。それが、あなたの出した答えなら」


 マヤは顔を上げ、間近で慎太郎の目を見た。その黒く濡れたような瞳が、静かな光を帯びていた。


「でも、これだけは覚えておいて」


 マヤの手が伸び、慎太郎の頬にそっと触れた。


「もし、また心が折れそうになったら。……その時は、いつでも私のところに逃げてきなさい。美味しいワインを開けて、何も聞かずに抱きしめてあげるから」

「……悪いが、その誘いに乗ることは二度とない。俺には、帰る場所があるからな」


 慎太郎が静かに首を振ると、マヤは一瞬だけ目を伏せ、すぐに満足げな笑みを浮かべて手を離した。


「……合格よ。いい男になったわね」


 彼女はゆっくりと身体を離し、自分のグラスを手にした。


「さあ、残りも飲み干してしまいましょう。明日の朝、油まみれの現実があなたを待っているんだから」

「お手柔らかに頼む」


 二人は再びグラスを合わせ、残りのワインを静かに飲み干した。


 マヤの邸宅を出ると、夏の夜風が火照った頬を心地よく撫でた。

 見上げれば、高い建物のない田舎町の空には、都会では決して見ることのできない無数の星が広がっている。遠くから、深夜の貨物列車が鉄橋を渡る重い音が響いてきた。

 慎太郎は短く息を吸い込み、みどりと湊の待つ町の方角へ向かって、静かにアスファルトを踏み出した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ