第43話 奈緒子のエール
梅雨明けを思わせる強い日差しが、開け放たれた実家の縁側に白く鋭い線を引いていた。庭の植え込みの葉が一枚一枚くっきりと濃い影を落とし、照り返しの熱気が古い日本家屋の軒下までじわじわと入り込んでいる。風が通るたびに、軒先に吊るされたガラスの風鈴がチリンと涼しげな音を鳴らした。
日曜日の午後3時。
網戸越しに吹き込む風は、アスファルトの熱を孕んで生温かいが、時折、庭の青葉を揺らして吹き抜ける風には心地よい涼が含まれていた。遠くの木立からは、気の早いセミの鳴き声が等間隔に聞こえてくる。
居間のフローリングの上では、薄茶色の小さな毛玉が、自分の尻尾を獲物に見立てて猛烈な勢いでぐるぐると回転していた。
嵐の夜に慎太郎が保護した子猫、ムギだ。
骨と皮ばかりで手のひらに収まるほど小さかったあの頃の弱々しさは、もうどこにもない。上質な粉ミルクと慎太郎の徹底した時間管理による世話の甲斐あって、ムギはすっかり適正体重を超え、艶やかな被毛を持つ子猫へと成長していた。
「ミャッ!」
ムギは短い四肢を踏ん張ってジャンプしようとするが、滑りやすいフローリングで後ろ足が空回りし、ツルッと腹這いに滑って転がった。すぐに何事もなかったかのように立ち上がり、今度は壁の木目に映った光の反射に向かって姿勢を低くする。お尻をフリフリと振り、狙いを定めている。
「あー! ムギ、ムギ!」
その様子を、少し離れた安全地帯から見ていた湊が、ケラケラと甲高い声を上げて両手を叩いた。湊も真似をするように、フローリングの上にペタンと座り込んで足をばたつかせている。
湊がよちよちと近づき、短い指先を伸ばす。ムギは一瞬ピクリと耳を伏せて身を引くが、匂いで湊だとわかると、自らその小さな指先に湿ったピンク色の鼻をスンスンと押し当てた。そして、湊の足首にまとわりつくようにスリスリと身体を擦り付け、ゴロゴロとモーターのような低い音を喉から鳴らし始めた。
「いやあ、すっかり猫らしくなったねえ。最初に見つけた時は、本当にただの泥の塊みたいだったのに。武田さんの異常なまでの過保護っぷりが功を奏した感じですかね」
縁側に腰掛け、ソーダ味のアイスキャンディーをかじりながら、野村奈緒子がカラカラと笑った。彼女の傍らには、忘れたという湊の麦わら帽子がちょこんと置かれている。
休日の午後、「湊くんが金曜日に保育園に忘れていった帽子を届けるついで」という理由で、彼女はふらりと実家にやってきた。白いノースリーブのカットソーに色落ちしたデニムのショートパンツという、相変わらず健康的な肌を惜しげもなく晒した格好だ。ソーダ味の青い雫が手首に垂れそうになり、奈緒子は慌ててペロッと舐めとった。彼女がそこに座って笑っているだけで、古い日本家屋の空気がパッと華やぐような、特有の強烈なエネルギーがあった。
「過保護ってなんだ。俺は獣医に言われた通り、適正なカロリー計算と温度管理を行っただけだ」
慎太郎は、盆に載せた麦茶の入ったガラスのピッチャーとコップをちゃぶ台に置きながら短く言い返した。グラスの表面には、すでに無数の水滴がびっしりと結露している。
「またまた。先週お迎えに来た時も、『今日は自分の足で段ボール箱を乗り越えようとした』って、わざわざ動画まで撮って私に見せてきたじゃないですか」
「……それは、お前がムギの成長記録を見せろと強要したからだろ」
慎太郎が顔を背けて麦茶のグラスをいじると、奈緒子は「あはは!」とさらに大きな声を上げて笑った。
その隣で、同じように縁側に並んで座っているみどりは、ミルク味のアイスバーの棒を指先で弄りながら、少しだけ力のない笑みを浮かべていた。
最近のみどりはどこか様子がおかしかった。工場の危機は脱しつつあるはずなのに、彼女と話す時も、以前のような遠慮のない乱暴な口調の裏に、どこか一線を引くような、妙な距離感があった。
慎太郎は、みどりの横顔と、隣で屈託なく笑う奈緒子を交互に見た。
「……俺は親父の夕飯の仕込みをしてくる。適当に寛いでてくれ。ムギから目は離すなよ」
慎太郎は短くそう告げると、ちゃぶ台の上の空いたグラスを手に取り、無言で台所へと引っ込んだ。台所のシンクにグラスを置き、冷蔵庫から野菜を取り出す。実家の古い台所は換気扇が低く唸りを上げており、居間の会話は水音にかき消されて聞こえなくなる。
縁側には、風鈴のチリンという音と、湊とムギが戯れる声だけが残った。
奈緒子は残っていたアイスをかじり終えると、木の棒を灰皿にポイと捨て、両腕をぐんと頭の上に伸ばして大きな伸びをした。
「みどりちゃん」
不意に呼ばれ、みどりは顔を上げた。
「……なに」
「最近、あんまり眠れてないでしょ。隈、薄くなったけどまだ少し残ってるよ」
奈緒子の真っ直ぐな言葉に、みどりは誤魔化すように視線を庭の植え込みへと逸らした。
「寝てるよ。……前みたいに、夜中に目が覚めてそのまま朝まで、みたいなことはなくなったし」
「仕事も落ち着いてきたって、武田さんが言ってたけど」
「うん。しんちゃんが、経理とか資金繰りの計算、全部やり直してくれてさ。銀行への返済の計画も、あの人が作った資料のおかげで、なんとか待ってもらえることになって」
「へえ。さすがだねえ、武田さん」
「おまけに、うちの鉄屑……この間うちに来た外国人の人が『綺麗だ』って言ってくれたんだけどさ、それを商品にして売るルートまで、あの人が整えてくれてる。私はただ、言われた通りに現場で鉄を削るだけでよくなったから、体はだいぶ楽になったよ」
「そっか。じゃあ、なんでそんな顔してんの」
奈緒子の声には、普段の明るさの中に、隠しきれない真剣な響きが混ざっていた。
みどりは膝の上で両手を組み、無意識に親指で手の甲をこすった。
「……しんちゃん、本当に会社辞めちゃったんだよ」
ぽつりと、みどりが乾いた声でこぼした。
「うん。お迎えの時に、私にも言ってた」
「この前、退職手続きも全部終わったって、直接言われて」
「そっか。まあ、武田さんなら中途半端なこと嫌いそうだしね。スパッと決めちゃったんだ」
みどりはアイスの棒の端を前歯で軽く噛み、しばらく黙り込んだ。縁側の向こうでは、蝉の声が波のように大きくなったり小さくなったりを繰り返している。
「あの人、本当は東京に帰らなきゃいけなかったんだよ。うちの工場なんかとは比べ物にならないくらい、すげえデカい仕事してて……元の会社の人たちも、あの人を迎えに来てたのに」
みどりの声が微かに震える。
「私が、足引っ張ったんだ」
みどりは俯いたまま、絞り出すように言った。
「しんちゃんは、体を治すためにこっちに帰ってきてただけなのに。私が一人で抱え込んで、無理して倒れたりするから……見捨てられなくて、同情で、残るって決めちゃったんだよ。私が、あの人の翼を折ったの」
奈緒子は短くため息をつくと、みどりの細い肩を、バシッと遠慮のない力で叩いた。乾いた音が縁側に響いた。湊が何事かと一瞬こちらを見たが、すぐにまたムギとの遊びに戻っていく。
「痛っ……なにすんの」
「みどりちゃん、あの武田さんが、誰かに同情されたり、ただの義理立てだけで自分の人生決めるような、ヤワな男に見える?」
みどりは肩を押さえながら、奈緒子を見た。
奈緒子は、一切の同情や哀れみを含まない、フラットな視線でみどりを見返していた。
「私だって、武田さんのこと全部知ってるわけじゃないけどさ。あの人は、湊くんが熱出した時、1時間もかからずに保育園にすっ飛んできてくれたよ。BBQの時だって、文句言いながらも最後まで火の番して、子供たちの面倒見てた。……あの人は、自分が本当に『守りたい』と思ったものにしか、あんな真っ直ぐな時間と労力、使わないよ」
「東京のキラキラした仕事より、みどりちゃんと湊くんと一緒に、油まみれになる方を選んだんでしょ、あの人は。だったら、それだけの価値がみどりちゃん自身にあるってことじゃん」
「でも……」
「『足引っ張った』なんて、覚悟決めてこっちの世界に来た武田さんに対しても、今日まで必死に湊くん育てて工場守ってきた自分自身に対しても、失礼だよ。……みどりちゃんは、もっと堂々と笑ってればいいの」
奈緒子はニカッと、太陽のような、彼女らしいとびきり明るい笑顔を作った。
「みどりちゃんが、これから仕事や恋にかまけても全然大丈夫なように、これからも湊くんの担任としてバッチリサポートするから! だから安心して、全部預けなさい!」
奈緒子が自分の胸をドンと力強く叩く。
「……恋にかまけるって、なにそれ」
みどりが呆れたように口角を上げると、奈緒子は「あ、やっといつもの顔に戻った」と悪戯っぽく笑い、満足げに目を細めた。
「ニャウン」
足元で鳴き声がして見下ろすと、ムギがみどりの足首に前足をかけ、立ち上がるようにしてスリスリと身体を擦り付けていた。湊がそれを追いかけてきて、みどりの膝にぽふっと顔を押し付ける。
「かーしゃん」
「……お前ら、ほんと自由だな」
みどりは優しく湊の柔らかな髪を撫で、足元のムギの首の後ろを指先で掻いてやった。ムギは気持ちよさそうに目を細め、ゴロゴロと鳴らしながらみどりの足に体重を預けてくる。
家の中からは、トントンという包丁の規則正しい音が聞こえてきた。続いて、流水の音と、ザルで水気を切るような乾いた音が響く。
「……ありがと。奈緒子ちゃん」
みどりは前を向き、少しだけ照れくさそうに、だがはっきりとした声で言った。
奈緒子は「どういたしまして!」と満面の笑みで返し、再び縁側にゴロンと寝転がって「あー、セミうるさい!」と大きなあくびをした。
初夏の風が、庭の青葉を揺らして吹き抜けていく。台所からは、夕飯のいい匂いが漂ってきていた。




