第42話 篤子の初恋
ガタガタという規則的な揺れが、古いボックスシートの硬い背もたれから慎太郎の身体に伝わってくる。
窓ガラスの向こうには、午後の強い日差しを反射して白く輝く海面がどこまでも広がっていた。冷房の効きが悪い2両編成のディーゼル車内には、微かに軽油の匂いと、開いた窓の隙間から入り込む潮の匂いが混ざり合っている。
向かいの席に座る木下篤子は、膝の上に大きなカメラバッグを置き、窓の外の景色をじっと見つめていた。時折、列車が短いトンネルに入るたびに車内が薄暗くなり、彼女の鹿のように澄んだ大きな瞳が窓ガラスに反射して映る。
二人の間に会話はほとんどなかった。だが、その沈黙は決して気詰まりなものではない。互いに言葉を発さなくても許される、凪のような時間が流れていた。
篤子が不意にバッグからカメラを取り出し、レンズの表面を柔らかなクロスで丁寧に拭き始めた。その手つきは、大切な宝物を扱うように優しく、一切の迷いがない。慎太郎はその静かな動作を、窓外の景色とともにぼんやりと眺めていた。
やがて、列車が金属の摩擦音を立てながら速度を落とし、海沿いの無人駅のホームに滑り込んだ。
プシュッと空気の抜けるような音とともにドアが開くと、まとわりつくような湿った南風が一気に車内に流れ込んできた。
ホームに降り立ち、改札口の錆びた鉄柵を抜ける。色褪せた木のベンチと、1日数本しか止まらない錆びた時刻表だけがある小さな駅舎。照りつける初夏の太陽が、容赦なくアスファルトを白く乾かしている。遠くで砕ける波の音と、やかましいほどの蝉の声が、静寂だった耳を一気に満たした。
「……暑くないか」
数歩後ろを歩く篤子を振り返り、慎太郎は声をかけた。
篤子は少し大きめの麦わら帽子に、白いノースリーブのブラウス、そして淡いブルーのフレアスカートという出で立ちだった。首からは、いつもの大きな一眼レフカメラを提げている。彼女は額に微かに汗を浮かべながらも、大きくかぶりを振った。
「大丈夫です。海からの風が、涼しいですから」
そう言って、彼女はカメラを持ち上げ、駅前の古びた丸ポストに向けてシャッターを切った。カシャリ、という乾いた機械音が夏の空気に吸い込まれる。
「たまには、少し遠出をして写真を撮りたいんです」
昨夜、篤子からそんなメッセージを受け取り、慎太郎は迷うことなく了承した。
東京の会社への退職手続きも完全に終わり、みどりの工場の再建計画は休む間もなく進んでいる。カルメンが旅立ってからの数日は、何かに憑かれたように数字と格闘し、取引先や銀行を回る日々だった。
だからこそ、物理的にパソコンと書類から離れる時間は、今の自分にも必要だと感じていた。
駅から続く緩やかな坂道を、二人は並んで歩いた。
潮の匂いが混ざった風が、道端に群生する夏草を大きく揺らしている。古い木造の民家や、色褪せた「氷」という文字の書かれた旗が下がる商店、そして庭先に無造作に干された漁具。ここは、慎太郎の実家のある町よりもさらに海に近く、時の流れが一段と遅く感じられる。
篤子は時折立ち止まっては、足幅を開いてしっかりとカメラを構え、ファインダーを覗き込んだ。ピントリングを回すかすかな摩擦音のあと、シャッターが切られる。
慎太郎は彼女が立ち止まるたびに歩調を緩め、数歩離れた場所で無言で待った。彼女の視線が何を捉えているのかを、ただ見守る。急かすようなことは一切しない。
「何を撮ったんだ?」
軒先で丸くなっている、錆び割れたトタン板にカメラを向けていた篤子に、慎太郎は少しだけ不思議に思って尋ねた。
篤子はカメラを下ろし、液晶モニターを確認してから、少しだけ誇らしげに微笑んだ。
「錆の赤茶色と、その後ろの雑草の緑のコントラストです。時間が経たないと作れない色だから」
「なるほど」
慎太郎にはただの古びたゴミにしか見えない景色でも、彼女のファインダーを通すと、途端に瑞々しい意味を持ち始める。
「武田さん」
ふいに、カメラを構え直した篤子が声をかけてきた。
「ん?」
「歩くの、すごく速くなりましたね」
篤子はレンズを向けたまま、ぽつりと言った。
「そうか? 自分では気づかなかったが」
「前は、もっと足元ばかりを見て、重そうに歩いていましたから」
慎太郎は自分の足元に視線を落とした。
アスファルトの上に、自分の輪郭が濃い影となって落ちている。スニーカーの底が硬い地面を捉え、蹴り出す感触が、今ははっきりと足の裏に伝わってくる。泥の底を歩くようなあの重力は、もうない。
「今は……行くべき場所がはっきりしているからかもしれないな」
慎太郎が静かに答えると、篤子はカメラを下ろし、真っ直ぐに彼を見た。その瞳の奥に、ほんのわずかな波紋が広がったように見えたが、彼女はすぐに「そうですか」と短く頷き、再び歩き出した。
坂道を登りきると、海を一望できる高台の公園に出た。
手入れの行き届いた芝生と、大きな黒松の木が並ぶ広場。平日ということもあり、人影はまばらだった。遠くの水平線を、巨大なタンカーがゆっくりと進んでいるのが見える。上空では数羽のカモメが鳴き声を上げながら旋回していた。
松の木の木陰にあるベンチに腰を下ろすと、海からの風が一気に体感温度を下げてくれた。慎太郎は近くの自動販売機で冷たい麦茶を2本買い、結露したペットボトルを篤子に手渡した。
「ありがとうございます」
篤子はキャップを開け、こくりと1口飲んだ。水滴が彼女の白い指先を濡らしている。
「工場のほうは、どうですか」
膝の上にカメラを置いたまま、篤子が海を見つめて尋ねた。
「親父さんやみどりには無理をさせているが、再建の目処は立った」
慎太郎は隣に座り、自分の麦茶のペットボトルを見つめながら答えた。
「無駄な在庫を処分し、不要な機材を売却した。カルメンが提案してくれた廃材アートのラインも、デザインの型が決まって試験的な生産に入っている。銀行へのリスケジュールも、俺が作った計画書でなんとか通した。あとは、この新しいサイクルを止めずに回し続けるだけだ」
言葉にすればただの業務報告だ。だが、その事実を語る慎太郎の声には、淀みがなかった。
「みどりは相変わらず強がりを言いながら、油まみれで鉄を削っているよ。俺が口出しすると煙たがるが、それでも少しは休むようになった」
慎太郎の表情が、わずかに柔らかく崩れる。
「……武田さんは」
篤子の声が、海風に微かに震えた。
「武田さんは今、ちゃんと息をしていますね」
慎太郎はハッとして、篤子を見た。
彼女は麦わら帽子のつばを少し下げ、横顔を隠すようにして海を見つめていた。
「以前、勝手に写真を撮ってしまった時……すごく息をしているように見えたからって、言いましたけど」
「ああ」
「あの時は、ただ1つの命の肯定に救われて、無防備に息をしていただけでした。でも、今は違います」
篤子はゆっくりと顔を向け、慎太郎の目を正面から捉えた。
「今は、自分の意志で、大切なものを守るために息をしている。そういう顔をしています」
慎太郎は言葉を失った。
彼女のファインダー越しに見えていた世界は、慎太郎自身すら明確に自覚していなかった変化を、完全に言い当てていた。
「……お前には、敵わないな」
慎太郎が小さく息を吐きながら自嘲気味に笑うと、篤子も少しだけ唇の端を上げて微笑んだ。
午後4時。
太陽が西の空に傾き始め、海面が黄金色に輝き出していた。強い日差しは和らぎ、松の木の影が芝生の上に長く伸びていく。風の温度が、昼間とは違う少し涼しいものに変わっていた。
「武田さん、少しそこに立っていてください」
篤子はベンチから立ち上がり、慎太郎から数歩離れた場所でカメラを構えた。
逆光の中、慎太郎の輪郭が夕日に縁取られる。
篤子はファインダーを覗き込んだ。
ピントリングを回す指先が、ほんの少しだけ震えていた。
ファインダーの中央にいる男は、両足でしっかりと地に立ち、前を見据えている。リネンシャツの裾が風に揺れ、無精髭の混じる顎のラインに夕日が当たっていた。
胸の奥が、ツキリと痛んだ。
けれど、その痛みは決して不快なものではなかった。美しい風景を切り取る時、1瞬だけ息が止まるあの感覚に似ていた。
篤子は、カメラのグリップを握る手に少しだけ力を込めた。
「武田さん」
ファインダー越しの世界から、篤子は声を絞り出した。カメラで顔の半分が隠れているからこそ、言える言葉があった。
「みどりさんと、湊くんのこと」
レンズ越しの慎太郎が、驚いたようにわずかに目を見開く。
「絶対に、守ってくださいね」
波の音に掻き消されそうなほど小さな声だった。だが、風に乗って確実に彼に届いた。
慎太郎は黙ったまま、ファインダーの向こう側の篤子を真っ直ぐに見つめ返した。少しの沈黙の後、彼は姿勢を正し、静かに、深く頷いた。
「ああ。必ず」
その言葉は短かったが、地面にしっかりと根を張ったような重さを持っていた。
カシャッ。
シャッター音が、黄金色の空気に溶けていく。
レンズが捉えた光が、カメラの奥のセンサーに定着する。
「……いい写真、撮れました」
篤子はゆっくりとカメラを下ろした。
麦わら帽子の下から現れた彼女の顔には、夏の終わりの空のように、どこまでも澄み切った笑顔があった。吹き抜ける海風が、彼女の長い黒髪をふわりと揺らした。




