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金曜20時、高架下にて待ち合わせ。〜元ヤン幼馴染は18歳の母〜  作者: 伊達ジン


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第41話 カルメンの旅立ち

 海を見下ろす高台のレストランには、初夏特有の、湿気をたっぷり含んだ強い南風が吹き抜けていた。


 土曜日の午後1時。真っ白なパラソルが張られたテラス席で、慎太郎は一人、氷の入った炭酸水のグラスを見つめていた。眼下に広がる海は、太陽の光を反射して眩いほどに白く輝いている。規則正しく打ち寄せる波の音が、低く設定されたボサノヴァのBGMと混ざり合い、この空間に特有のラグジュアリーなけだるさを生み出していた。


 数分後、規則正しいピンヒールの音がテラスに響いた。


「待たせたわね。少し道が混んでいたの」


 現れたエレノア・ウォーカーは、細い指先でサングラスを外し、慎太郎の向かいの席に滑り込んだ。彼女の深いダークスキンによく映える、鮮やかなエメラルドグリーンのシルクのドレス。風が吹くたびに裾が優雅に翻り、彼女が身に纏う洗練された香水が、潮の匂いを一瞬だけ上書きしていく。彼女が席に着いただけで、テラス席の空気がピタリと彼女を中心に再配置されたような錯覚を覚える。相変わらず、空間を支配する圧倒的な存在感だった。


「この町に来て、初めてまともな食事にありつけた気がするわ」


 エレノアは、目の前に置かれた地元産の真鯛のカルパッチョをシルバーのフォークで口に運び、満足げに目を細めた。添えられたディルとケッパーが、淡白な白身魚の旨味を引き立てている。彼女の所作は、ただ食事をとるという行為でさえ、隙がなく洗練されていた。


「東京の星付きレストランには敵わないかもしれないが、素材の鮮度だけは保証する」


 慎太郎は、自分の前にあるグラスを持ち上げて答えた。首元を開けたリネンシャツに、薄手のジャケット。かつてエレノアの隣に立つための「戦闘服」であった隙のないスーツではない。だが、その肩の力が抜けた姿勢は、以前よりもずっと彼の骨格に馴染んでいるように見えた。


 エレノアはグラスのシャンパンを飲み干し、ウェイターに目配せをして次を注がせた。きめ細かい泡が、グラスの底から真っ直ぐに立ち上っていく。ウェイターが音もなく遠ざかるのを見届けてから、彼女はふと声を落とした。


「退職手続き、完了したそうね。瑞穂から報告があったわ。彼女、まだ少し恨めしそうな声を出していたけれど」


 エレノアのミステリアスな瞳が、グラス越しに慎太郎を捉えた。その眼差しには、かつてのような値踏みする光や、彼を自分の世界へ引き摺り込もうとする強烈な引力はない。


「ああ。引き継ぎもすべて終わって、正式にフリーになった」


 慎太郎はグラスをテーブルに置き、海からの風に目を細めた。


「私が用意したシンガポールの玉座も、東京での輝かしい未来も、本当に全部捨ててしまったのね」

「捨てるものなんて、最初からなかったんだ。俺はただ、与えられた席に座って、壊れるまでアルゴリズムを回していただけだ」


 慎太郎の言葉に、自己卑下はなかった。ただの事実として、己の過去を静かにテーブルの上に置いた。


「もったいない話よ。あなたの能力なら、世界中のどのファンドでもトップを取れたのに」

「世界を動かすのは、お前みたいな人間の役目だ。俺の世界は、もっと小さくていい。手の届く範囲の人間が、明日も笑ってメシを食えるようにする。不恰好に転んだ時に、手を差し伸べられる距離にいる。今の俺には、それで十分すぎるくらいだ」


 慎太郎は静かに微笑み、炭酸水を一口飲んだ。冷たい液体が、心地よく喉の奥へと滑り落ちていく。


 エレノアはしばらく黙って慎太郎の顔を見つめ、やがて小さくため息をついて、艶やかな唇の端を上げた。


「……私の負けね」


 彼女は、手元のナプキンを静かにテーブルの横に置いた。


「これ以上、どんな条件を提示しても無駄だとわかったわ。あなたはもう、私が知っている『完璧な歯車』じゃない。自分の足で地面を踏みしめて、自分が守りたいもののために呼吸をしている」

「お前が俺の能力を信じて、もう一度舞台を用意してくれたことには感謝している。あのオファーがあったから、俺は自分が本当はどうしたいのか、真剣に向き合うことができた」

「感謝なんていらないわ。私はただ、優秀な投資対象を取り逃がしたことを悔やんでいるだけ」


 エレノアはそう言って立ち上がり、傍らの椅子に掛けていた小ぶりなバッグを手にした。テーブルの上に、会計のためのブラックカードが無造作に置かれる。


「さあ、行きましょう。私のフライトまで、あと数時間しかないの。最後くらい、きちんとエスコートしてちょうだい」


 二人は店を出て、マリーナに沿って続く木のボードウォークを歩いた。エレノアのピンヒールが、乾いた木材を規則正しいリズムで叩く。初夏の日差しが海面を乱反射し、視界のすべてが白く眩しかった。すれ違う観光客たちが、彼女の際立ったスタイルと纏うオーラに思わず振り返るが、エレノアは全く意に介さず、ただ前だけを見て歩いていた。


 迎えの黒いハイヤーが停まっているロータリーに着くと、エレノアは足を止めて慎太郎に向き直った。運転手が素早く降りてきて後部座席のドアを開ける。


「Good luck, Shintaro」


 エレノアは手を差し出した。慎太郎は真っ直ぐにその手を取り、力強く握り返した。


「ああ。気をつけて」


 手を離した瞬間、エレノアは一歩踏み込み、慎太郎の左頬に軽くキスをした。ほんの一瞬の、柔らかな感触。彼女の香水の匂いが、海風の中に鮮やかに混ざり合う。


「……あなたのその小さな世界が、いつか私を驚かせるようなことをしてくれるのを期待しているわ」


 エレノアは悪戯っぽくウインクをすると、迎えのハイヤーの後部座席に滑り込んだ。スモークガラスの窓が静かに上がり、車は滑るように走り去っていった。


 慎太郎は、潮風に混ざって微かに残る彼女の香水の匂いが完全に消えるまで、その場に立ち尽くしていた。遠くの空で、一羽の海猫が短く鳴いた。


★★★★★★★★★★★


 翌日の日曜日。


 午後3時を回った地方都市の小さな駅舎には、人の気配がほとんどなかった。


 自動改札機を抜けた先にある古びたホーム。頭上の錆びた鉄骨からは、色褪せた行き先案内の看板がぶら下がっている。線路の向こう側には、どこまでも青々と茂る夏草が続き、時折吹き抜ける風がそれを波のように大きく揺らしていた。遠くの山々からは、盛大な蝉時雨が降り注ぎ、アスファルトから立ち昇る陽炎が風景を歪ませている。


「本当に、突然だな」


 慎太郎が声をかけると、自販機の前でミネラルウォーターを買っていたカルメンが振り返った。


 彼女は、燃えるような真紅のワンピースに、歩きやすそうなレザーのサンダルという出で立ちだった。傍らには、彼女の身長の半分ほどもある大きなスーツケースが置かれている。


「風向きが変わったのよ。インスピレーションは、待ってくれないから」


 カルメンはミネラルウォーターのキャップを開けながら、太陽のように明るく笑った。


 昨日、突然彼女から「次の国へ行くわ」というメッセージが届いた。今、この瞬間に自分がどう生きたいか。ただそれだけで、彼女はいとも簡単に海を渡っていく。その身軽さは、慎太郎が長年縛られてきた常識や義務といった概念とは、全く別の次元にあるものだった。


「次はどこへ行くんだ」

「まだ決めてないわ。イタリアで彫刻を見るのもいいし、モロッコで色彩に溺れるのもいい。飛行機に乗ってから決めるわ」


 カルメンはそう言うと、ワンピースのポケットから何かを取り出し、慎太郎の目の前にかざした。


 透明なアクリルのキューブの中に、金属の削り屑が封入されたペーパーウェイトだった。みどりの工場で鉄を削った時に出る、ただの産業廃棄物。それを彼女は「美しい曲線だ」と評し、新しい製品ラインへのインスピレーションをもたらしてくれた。


「これ、私の宝物。この町で見つけた、一番美しい曲線よ」


 太陽の光を浴びて、樹脂の中の金属片が小宇宙のように鈍く輝いていた。複雑にねじれ、鋭く切り落とされた鉄の断面が、意図しない芸術品のように封じ込められている。この工業製品の削り屑が持つ無機質な美しさは、町工場の泥臭い現実の中で生きるみどりの生命力と、どこか重なって見えた。


「これを見るたびに、あの油まみれの小さな工場と、そこで必死に鉄を削っている彼女の強い目を思い出すわ。彼女の生きる姿そのものが、この鋭くて美しい曲線なのね」

「そうだな。お前がこれに価値を見出してくれたおかげで、工場の方針にも新しい道筋が見えた。感謝している」

「でもね」


 カルメンはアクリルキューブをポケットにしまい、一歩だけ慎太郎に距離を詰めた。琥珀色の瞳が、真っ直ぐに慎太郎を射抜く。


「この町で見た一番美しい変化は、タケダ、あなたよ」

「俺が?」

「ええ」


 カルメンは、慎太郎の胸の真ん中――心臓のあたりに、そっと手のひらを当てた。彼女の細い指先から、体温以上の強い熱が伝わってくる。


「初めて海辺で踊った時、あなたは自分のステップを間違えることを怖がって、ガチガチに固まっていた。他人が作ったリズムに合わせて、必死に自分を押し殺していたわ」


 カルメンの目が、優しく細められた。


「でも、今のあなたの心臓の音は、とても力強い。もう、誰かの期待に怯えて縮こまっていた時の音じゃない。あなたは今、自分の足で、自分のためのステップを踏んでいるわ」


 慎太郎は、自分の胸に当てられた彼女の手をそっと包み込むようにして握った。


「お前がいなかったら、俺は今でも頭の中の計算式に溺れていたかもしれない。あの夜、砂浜で無茶苦茶に踊らされて……頭を空っぽにする方法を、少しだけ思い出せた気がする」

「計算なんてつまらないもの、さっさと海に捨てて正解よ」


 言葉の代わりに、カルメンは両腕を慎太郎の首に回し、情熱的に抱きついた。彼女の豊かな髪から、南欧の強い日差しを思わせるような甘い匂いが広がる。


「ありがとう、カルメン」


 数秒の深いハグの後、彼女はサッと身を引き、スーツケースのハンドルを掴んだ。


 カンカンカン、と。


 ホームの端にある踏切の音が鳴り始め、遠くからローカル線の重い走行音が近づいてきた。2両編成の短い列車が、熱で揺らぐ陽炎の向こうからゆっくりと姿を現す。ブレーキ音が響き、ホームに微かな風を巻き起こしながら停車した。


「じゃあね、タケダ! 次に会う時は、もっと情熱的なダンスを見せてちょうだい!」


 カルメンは振り返ることなく、プラットホームに入ってきた列車に乗り込んだ。


 プシュー、という音とともにドアが閉まる。


 動き出した列車の窓の向こうで、カルメンが一度だけ大きく手を振ったのが見えた。


 慎太郎は無言のまま、少しだけ右手を上げて応え、その赤いシルエットが初夏の陽炎の向こうへ溶けて見えなくなるまで、ずっと見送っていた。


 吹き抜けた風が、線路の脇の夏草を大きく揺らした。

 空はどこまでも高く、澄み切っていた。

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