第40話 再び、金曜20時
頭上を通過する数両編成のローカル線が、重く腹の底に響くような金属音を立てて走り去っていった。コンクリートの太い柱を通じて、足裏に微かな振動がビリビリと伝わってくる。
金曜日の19時55分。
初夏特有の、水気をたっぷりと含んだ生温かい夜風がバイパスの下を吹き抜けていく。梅雨の気配を孕んだ湿った土の匂いと、日中に熱せられたアスファルトの熱気が混ざり合った、この時期特有の重い空気だ。駅から少し離れたこの高架下は、街の喧騒から切り離されたように暗い。
轟音が遠ざかり、再び周囲が夜の静寂を取り戻すと同時に、暗がりの中にポツリと浮かび上がる赤い灯りが視界に入った。
『鳥寅』と黒々と筆文字で書かれた、見慣れた古びた赤提灯。入り口の上部に取り付けられた小さな換気扇が、低い唸り声を上げながら、焦げた醤油と鶏の脂が混ざった強烈に香ばしい煙を、容赦なく外の空気へと吐き出している。
慎太郎は短く息を吐き、油でベタつく引き戸に手をかけた。
ガラガラと鈍い音を立てて戸を開けると、「いらっしゃい」という女将のダミ声が店内の喧騒を縫って響いてきた。
店内はいつものように、仕事帰りの作業着姿の客たちで八割方埋まっていた。壁に貼られたメニューの短冊は油で茶色く変色しており、奥の座敷では地元の工務店の人間らしきグループがジョッキを片手に声を張り上げている。カウンターの奥側では、一人客が黙々と串を齧りながらちびちびと焼酎を舐めていた。何十年もかけて壁や天井に染み付いた紫煙と焼き鳥の煙が混ざり合い、埃っぽくも妙に落ち着く、温かい空気の層を作り出していた。
入り口から一番近い、テレビの青白い光が落ちる定位置。破れたビニールのパイプ椅子には、すでにみどりが座っていた。
「遅い。遅刻だよ、しんちゃん」
みどりは頬杖をついたまま、少しだけ口角を上げて笑った。
いつもなら油まみれのダボついた作業着姿だが、今日の彼女は違った。白いシンプルなTシャツに、色落ちしたデニムというラフな出で立ちだ。工場の機械を止め、実家に帰ってシャワーを浴びてから来たのだろう。すっぴんの肌からは、この油臭い店内には似つかわしくない、微かな石鹸の匂いがした。まだ少し濡れたままの赤みがかったウェーブヘアが、無造作に首筋に張り付いている。
目の下にうっすらと残っていた疲労の隈は完全に消えていた。何より、数週間前まで彼女の全身を覆っていた、見えない刃のような切羽詰まった空気がどこにもない。18歳の少女らしい本来の柔らかい表情がそこにあった。
「5分前だ。お前が早すぎるんだ」
慎太郎はみどりの隣のパイプ椅子を引き、腰を下ろした。ギシリ、と頼りないパイプが軋む音が鳴る。
テーブルの上には、水滴がびっしりとついたウーロン茶のグラスが置かれている。慎太郎はカウンターの奥で焼き台に向かっている女将に視線で合図を送り、瓶ビールを注文した。
「はい、お疲れさん。今日は早いね。とりあえずビールでいいかい?」
女将がコトリと置いた大瓶とよく冷えたグラス。慎太郎は手酌で琥珀色の液体を注ぐ。泡がグラスの縁すれすれでこんもりと盛り上がるのを待って、瓶をテーブルに置いた。
みどりが無言で自分のグラスを持ち上げ、慎太郎のグラスの縁に軽く当てた。チン、とくぐもった、だが確かな音が鳴る。
「……お疲れ」
「ん。お疲れ」
慎太郎はグラスを一気に傾けた。冷たいビールが喉を駆け下りていく。胃の腑に落ちた確かな苦味と炭酸の刺激が、全身の細胞に行き渡るようだった。逃げるようにこの町へ帰ってきて、初めてこのカウンターで飲んだ時の、砂を噛むような味とは全く違う。麦の香ばしさと、ホップの苦味が、はっきりと輪郭を持って脳に伝わってくる。
「……美味しいか」
みどりが、口元を隠すようにストローを咥えながら、上目遣いで尋ねてきた。
「ん。最高だ」
「そ。よかったね」
みどりはウーロン茶を啜り、小さく息を吐いた。
換気扇の油まみれの羽根が回る音と、頭上の小さなテレビから流れるバラエティ番組の笑い声。隣のテーブルで盛り上がる初老の男性たちのくぐもった会話。それらのノイズが、今の慎太郎にとってはひどく心地よく、満ち足りたものに感じられた。
「帰ったんだね。東京の人たち」
ふいに、みどりがグラスの表面についた水滴を指でなぞりながら、ぽつりと呟いた。
「ああ。月曜の朝一の新幹線でな」
慎太郎はグラスを置き、静かに答えた。
エレノアは「いつでも席は空けておく」と言い残し、風のようにシンガポールへと発った。
そして、瑞穂。
「……最後に、少しだけ付き合わされたよ」
慎太郎の言葉に、グラスの水滴をなぞっていたみどりの指先がピタリと止まる。
「彼女が新幹線に乗る前日の、日曜日の午後だ。『1日だけ、私に時間をください。東京の武田さんじゃないあなたと、一度だけデートがしたいんです』と言われてな」
慎太郎の脳裏に、数日前の情景が蘇る。
完璧なビジネススーツではなく、少し力の抜けた上質なリネンのセットアップを着た瑞穂。彼女の希望で、隣町の海が見える高台のカフェまで車を出した。
よく晴れた日の午後だった。テラス席からは、太陽の光を反射して白く輝く海がどこまでも広がっているのが見えた。波の音が遠くから規則的に聞こえてくる、静かな空間だった。
数時間の『デート』の間、彼女は仕事の話も、東京へ戻ってほしいという懇願も一切口にしなかった。ただ、目の前に広がる初夏の海を眺めながら、昔の部署での他愛のない失敗談や、最近見た映画の話をして、静かにアイスコーヒーを飲んだ。氷がカランと溶ける音が、波の音の合間に響いていた。
彼女の所作は完璧に美しく、声には落ち着きがあった。グラスの水滴を拭き取るハンカチの動きひとつ取っても、洗練されていた。まるで、これまでの自分たちの間にあったヒリヒリとした緊張感を、彼女自身の手で丁寧に折りたたみ、箱にしまっていくような時間だった。
『これで、綺麗さっぱり諦めます。私の負けです』
夕暮れ時。車に戻る直前の駐車場で、彼女は決して涙を見せなかった。夕日を背に受けながら、これまでで一番美しい作り笑いを浮かべてそう言った。その声は微かに震えていたが、彼女は最後まで背筋を伸ばし、慎太郎に向かって深く、美しいお辞儀をしたのだ。
「……デート、楽しかった?」
みどりの声が、ほんの少しだけ低くなる。探るような、拗ねたような響き。グラスの水滴をなぞっていた指先が、今はグラスの胴体を両手でギュッと包み込んでいる。視線は手元のグラスに向けられたままで、慎太郎の方を見ようとはしない。
「どうだろうな。俺はずっと、お前たちの工場の新しいシミュレーションのことで頭がいっぱいだったからな」
慎太郎がわざとらしく肩をすくめてみせると、みどりは呆れたように鼻で笑った。
「最低。あんな綺麗な人がわざわざ時間作ってくれたのに」
「ああ。彼女には、本当に迷惑をかけた」
「……でも、そっか。ちゃんと、お別れできたんだね」
みどりはグラスから手を離し、テレビの画面へと視線を移した。バラエティ番組のテロップが、彼女の大きな瞳の表面でチカチカと明滅している。
「はい、おまち。レバーとつくね。つくねには七味振るかい?」
「お願いします」
女将がカウンター越しに、湯気を立てる皿を置いた。照りのある濃厚なタレの匂いが、焦げた醤油の香ばしさと共に鼻腔をくすぐる。
かつて、絶望の底にいた慎太郎がここで初めて食べた時と同じメニューだった。あの時は、何を口に入れても味を感じなかった。
みどりは無言でレバーの串を手に取り、一口齧った。ゆっくりと咀嚼し、ほうっと満足げなため息をつく。慎太郎もつくねの串を手に取り、一口食べる。鶏肉の弾力と、甘辛いタレ、そして七味のピリッとした辛さが口の中に広がった。
串を持つ彼女の左手の親指の付け根には、赤茶色に変色した火傷の痕がある。爪は短く切り揃えられており、その隙間には、実家の風呂場で石鹸を使っていくら洗っても完全には落ちない、金属の黒ずみが深く入り込んでいた。
「しんちゃん」
みどりが半分ほど食べた串を皿に置き、真っ直ぐに慎太郎を見た。
「本当に、よかったの? 退職届、出しちゃって」
その声は少し掠れていた。彼女の大きな瞳が、慎太郎の目を真っ直ぐに見つめ返してくる。だが、その視線の端が、ほんのわずかに震えているのがわかった。瞬きの回数が多い。膝の上で組まれた両手に、ギュッと力が入っている。
慎太郎はグラスの残りを飲み干し、テーブルの上にゆっくりと置いた。
「お前が俺に、『逃げて正解だったんじゃないの』と言ってくれただろ」
「……うん」
「あの時は確かに、重圧から逃げ出しただけだった。自分が壊れるのが怖くて、何もかも放り投げた。だが、今回は違う」
慎太郎はテーブルの上で、自分の両手を組んだ。指先から伝わる自分の体温を確かめるように。
「俺は、何十億の数字を動かして見知らぬ誰かの地図を書き換えるより、目の前にいるお前や、湊や、親父さんが明日も笑って飯を食えるようにする方が、俺の人生にとって価値があると判断した」
静かな、だが一切のブレがない声だった。テレビの音や換気扇の唸り声にも掻き消されない、確かな質量を持った言葉。
「逃げたんじゃない。俺が、俺の意志で選んだんだ」
みどりは瞬きを数回繰り返し、それから、ふいっと顔を背けた。
「……なによそれ。大袈裟なんだから」
強がって吐き捨てた声は、微かに震えていた。顔を背けた彼女の耳の端が、朱に染まっているのが見える。
「大袈裟じゃない。俺は俺の居場所を確保するために、お前たちの工場を利用するだけだ。借金が片付くまで、徹底的にこき使ってやるから覚悟しておけ。月曜からは、あの古い旋盤のメンテナンス計画の策定と、取引先のリストアップから始めるぞ」
「……ふん。言われなくても、こき使ってやるし。事務処理から便所掃除まで、全部やらせるからね」
みどりは顔を背けたまま、右の手の甲で乱暴に目元を拭った。
轟音。
再び、頭上をローカル線が通り過ぎていく。
会話が掻き消される数秒間、二人は無言で皿の上の焼き鳥を見つめていた。コンクリートの太い柱を通じて、確かな振動が足の裏に伝わってくる。
電車の音が遠ざかり、再びテレビのくぐもった音声と換気扇の唸り声が戻ってくる。慎太郎は瓶の残りを自分のグラスに注ぎきり、静かに息を吐いた。
「来週も、ここでいいか」
慎太郎が何気なく尋ねると、みどりはウーロン茶のグラスを持ち上げた。今度は真っ直ぐにこちらを見て、悪戯っぽく笑う。
「当たり前じゃん。金曜20時、指定席だからね」
みどりはそう言って、悪戯っぽく笑いながら自分のグラスを少しだけ前に突き出した。 慎太郎も小さく口角を上げ、自分のグラスを彼女のそれに軽く当てる。 チン、と分厚いガラスがぶつかるくぐもった音が、店内の喧騒に溶けた。
冷えたビールを喉に流し込む。初夏の生温かい風が、開け放たれた引き戸から入り込み、赤提灯を小さく揺らした。 換気扇が吐き出す焦げた醤油の匂いと、隣に座る彼女の微かな石鹸の匂いを感じながら、慎太郎はゆっくりとグラスを置いた。




