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金曜20時、高架下にて待ち合わせ。〜元ヤン幼馴染は18歳の母〜  作者: 伊達ジン


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第39話 瑞穂との別れ

 数週間前。新幹線の改札口へと続くコンコースには、キャリーケースの硬い樹脂製の車輪がタイルを叩く音が、等間隔に響いていた。


 月曜日の早朝。地方都市の駅は、東京へと向かう数少ない乗客たちでまばらに埋まっている。頭上からは無機質な発車案内のアナウンスが流れ、自動改札機が開閉する電子音が断続的に耳に届いていた。


 岩崎瑞穂は、改札の数メートル手前で足を止め、ゆっくりと振り返った。


 彼女の服装は、いつものオフィスで戦闘服としていた隙のないスーツではなく、少し肩の力が抜けた上質なリネンのセットアップだった。それでも、計算し尽くされた洗練されたシルエットと完璧なメイクは、この埃っぽい地方駅の風景から明確に浮き上がっている。彼女が動くたびに、纏っているフローラル系の香水が微かに空気を揺らした。


 見送りに来た慎太郎は、数歩離れた場所で立ち止まっていた。


 瑞穂はキャリーケースのハンドルから手を離し、慎太郎の顔を真っ直ぐに見上げた。彼女の大きな瞳が、目の前に立つ男を構成するすべての要素を逃すまいと、静かに観察しているのがわかった。


 伸びていた無精髭は綺麗に剃られ、肌には健康的な血の気が戻っている。着ているシャツにはきちんとアイロンが当てられており、姿勢は真っ直ぐに伸びていた。


 今の慎太郎の顔には、静かで確かな熱が宿っていた。その顔を見た瞬間、瑞穂の胸の奥で燻っていた最後の未練のようなものが、音を立てて消え去った。


「……悔しいくらい、いい顔してますね」


 瑞穂の口から、ふっと溜息のような声が漏れた。


 慎太郎は何も言わず、ただ静かに彼女の言葉を待った。


「東京にいた頃の武田さんより、ずっと……今の武田さんの方が、かっこいいです。ちょっとムカつきますけど」


 瑞穂は小さく鼻で笑い、ヒールを鳴らして一歩だけ慎太郎に近づいた。


「完全に、吹っ切れちゃったんですね」

「ああ」


 慎太郎は短く答えた。その声に迷いは一切なかった。


「……悪い。結局、お前が用意してくれた道には戻れなかった。引き継ぎもろくにせず、尻拭いばかりさせて、本当に申し訳ないと思っている。お前の有能さに、俺はずっと助けられてきた」


 慎太郎が深く頭を下げようとすると、瑞穂は慌ててそれを手で制した。


「やめてください。武田さんにそんな顔で謝られたら、私が今まで追っかけてきたのが馬鹿みたいになるじゃないですか」


 彼女は少しだけ目を伏せ、自分の足元を見た。それから、深く息を吸い込み、もう一度顔を上げて破顔した。勝ち気で、小悪魔的で、そして誰よりも有能だった彼女本来の、美しい笑顔だった。


「今まで、本当にありがとうございました。武田さんの下で戦えたこと、私の誇りです。……でも、私の負けですね。あの油まみれの女の子には、どうやったって勝てない」

「瑞穂」

「次は私が、武田さんよりずっといい男を見つけますから。東京のピカピカのビルで、誰よりも出世して、武田さんが後悔するくらい大きな仕事をしてやります」


 瑞穂はキャリーケースのハンドルをしっかりと握り直した。


「絶対に、幸せになってくださいね」

「お前もな。……気をつけて帰れよ」

「はい」


 瑞穂は踵を返し、改札機に切符を通した。


 一度も振り返ることはなかった。コンコースの奥へ向かう彼女の背筋はピンと伸び、その足取りには何の迷いも感じられなかった。やがてエスカレーターを下り、その姿が完全に人混みに紛れて見えなくなるまで、慎太郎は立ち尽くして見送っていた。


★★★★★★★★★★★


 日曜日、午前11時。


 初夏の強い日差しがアスファルトを白く照りつける中、慎太郎は実家の古いセダンを駅前の市営駐車場に停め、運転席でエンジンを切らずに待っていた。


 カーステレオから流れる低いラジオの音声と、エアコンの吹き出し口から出る風の音だけが車内を満たしている。ダッシュボードの時計を見やりながら、慎太郎は無意識のうちにハンドルを指先で軽く叩いていた。


 誰かと待ち合わせをして、車で出かける。そんな当たり前の行為すら、今の自分にとってはひどく新鮮で、ほんの少しだけ心拍数が上がっているのがわかる。


 やがて、駐車場の入り口付近に人影が見えた。


 慎太郎は目を細め、その姿を確認すると、小さく息を吐いて助手席のロックを解除した。


 ドアが開き、みどりが乗り込んでくる。


「……待った?」


 その瞬間、車内の空気が一変した。いつもの鉄粉や機械油の匂いは一切ない。ほんのりとしたシャンプーの甘い香りと、日焼け止めの清潔な匂いが広がった。


 慎太郎は、思わず言葉を失い、彼女の姿をまじまじと見つめてしまった。


 みどりは、いつも着ているダボついた作業着でも、公園にいる時のラフなTシャツ姿でもなかった。薄いブルーのノースリーブのワンピースに、白い薄手のカーディガンを羽織っている。赤みがかったウェーブヘアは綺麗に整えられ、足元は履き潰した安全靴ではなく、つま先の開いたサンダルだった。


 素材の良さと、18歳という若さのハリが、そのシンプルな服装によって残酷なほど際立っている。同年代の少女たちに比べて大人びた顔立ちが、今日は少しだけ緊張しているのか、微かに硬かった。


「なんだよ。ジロジロ見んな」


 みどりがシートベルトを引き出しながら、少し拗ねたように口を尖らせた。


「……いや。珍しい格好だなと思って」

「親父がさ、たまには息抜きしてこいってうるさいんだよ。湊も今日は一日見ててやるから、羽伸ばしてこいって。……服だって、奈緒子ちゃんがわざわざ家まで来て、これ着てけって五月蠅くて。断るの面倒だっただけだし」


 みどりは照れ隠しのように早口で言い訳を並べながら、窓の外へ顔を背けた。その耳たぶが、ほんのりと赤く染まっているのが見えた。


「そうか。……似合ってる」


 慎太郎が短く言うと、みどりは「ばか」と小さく呟き、カーディガンの裾をぎゅっと握った。


 ギアをドライブに入れ、駐車場を出る。


 向かったのは、町外れからさらに車で40分ほど走った場所にある、海沿いのドライブウェイだった。


 休日の道路は比較的空いており、古いセダンは滑らかに海沿いの緩やかなカーブを抜けていく。少しだけ開けた窓から、潮の香りを孕んだ風が車内に流れ込んでくる。右側の窓の向こうには、太陽の光を反射して白く輝く海がどこまでも広がっていた。上空では数羽の海鳥が、強い風に乗って円を描くように飛んでいる。


「瑞穂が東京に帰ってから、もう数週間経つな」


 海岸線を走りながら、慎太郎が静かに切り出した。


「そ」


 みどりの反応は短かった。驚く様子もなく、ただ流れる景色を見つめたままだった。


「会社の退職手続きも完全に完了して、正式にフリーになった。俺はもう、あの会社には戻らない」

「うん」

「これからは、お前の親父さんの工場の顧問として、正式に動く。銀行への追加融資の事業計画も、大枠はまとまった。お前たちの技術と、新しい販路があれば、確実に立て直せる数字だ。……もう、どこにも逃げない」


 交差点の信号で車が停まる。


 慎太郎が助手席を見ると、みどりは膝の上に置いた自分の両手を見つめていた。爪の隙間には、いくら石鹸で洗っても落ちない金属の黒ずみが微かに残っている。


 みどりはゆっくりと顔を上げ、慎太郎を見た。


「しんちゃん」

「何だ」

「私といると、しんちゃんまで泥だらけになるよ。借金まみれの工場の手伝いなんて、お金の計算ばっかで、ちっとも面白くないよ」


 慎太郎はハンドルを握ったまま、正面の信号機を見据えて答えた。


「東京のオフィスで、何百億って実体のない数字を動かしてた時より、今の方がよっぽど息ができている。俺が自分の足で立って、自分の頭で考えていると実感できるのは、お前の工場の数字を計算している時だけだ」


 慎太郎はそこで言葉を区切り、ちらりとみどりの方を見た。


「俺は、俺がやりたいからここにいる」


 信号が青に変わる。アクセルを踏み込むと、潮風を孕んだ空気が車体を滑っていく。


 みどりはそれ以上反論しなかった。ただ、膝の上で固く握られていた両手の力が、ゆっくりと解けていくのがわかった。


「……腹減ったな」


 しばらくして、慎太郎が言った。


「うん。ちょっと減った」

「この先に、美味い海鮮を食わせる定食屋がある。観光客向けの小綺麗な店じゃない。地元の漁師が行くような、床もベタベタの小汚い店だが、味は間違いない。そこでいいか」


 みどりが、ふっと噴き出した。


「初デートで小汚い定食屋選ぶとか、しんちゃんマジでセンスないね」

「文句があるなら引き返すぞ」

「うそ。……海鮮丼、大盛りで食う」


 みどりは窓枠に肘をつき、海からの風に目を細めながら、本当に楽しそうに笑った。


 やがて車は、小さな漁港のすぐ脇に建つ、トタン屋根の平屋の前に停まった。


 色褪せた藍色の暖簾には、白抜きで『大漁食堂』と染め抜かれている。入り口の引き戸は開け放たれ、中からは醤油と出汁が焦げるような強烈に美味そうな匂いが漂ってきていた。


 車を降りると、強い潮風が二人の髪を揺らした。みどりは少し歩きにくそうにサンダルで砂利道を踏みしめながら、暖簾をくぐった。


 店内は、慎太郎の言葉通りだった。


 長年染み付いた油と潮気で床は少しベタつき、壁には日焼けして変色した大漁旗が貼られている。不揃いなパイプ椅子と、傷だらけの長机。しかし、昼時とあって地元の漁師や作業着姿の常連客でほぼ満席だった。


「いらっしゃい! そこの空いてる席、適当に座って!」


 ねじり鉢巻をした恰幅の良い店主が、厨房の奥から威勢のいい声を張り上げる。


 慎太郎とみどりは、入り口近くの小さなテーブル席に向かい合って腰を下ろした。


「すごい活気だね」


 みどりが店内を見渡しながら、感心したように呟いた。


「メニューは壁の短冊だけだ。何にする」


 慎太郎が促すと、みどりは壁一面に貼られた手書きのメニューを真剣な顔で吟味し始めた。


「うーん……でも、やっぱり最初は海鮮丼かな。しんちゃんは?」

「俺はアジフライ定食にする。ここのは身が分厚くて美味いんだ」


 慎太郎が厨房に向かって声をかけ、注文を通す。


 冷たい麦茶が入ったプラスチックのコップを傾けながら、慎太郎は目の前のみどりを見た。


 ワンピース姿の彼女が、こんな飾り気のない大衆食堂のパイプ椅子に座っているアンバランスさが、妙に可笑しかった。だが同時に、彼女の存在が周囲の空気に自然に溶け込んでいるようにも感じられる。高級フレンチのテーブルよりも、こちらのほうがはるかに彼女らしい。


 10分ほどして、料理が運ばれてきた。


「お待ち! 海鮮丼の大盛りと、アジフライ定食ね!」


 ドン、と無造作に置かれた海鮮丼を見て、みどりの目が輝いた。丼からはみ出すほどに盛られた新鮮な刺身の数々。マグロ、ハマチ、イカ、そしていくら。


「うわ、すっごい! いただきます!」


 みどりは両手を合わせると、早速割り箸を割り、大きな口を開けて海鮮丼をかき込み始めた。行儀が良いとは言えないが、その食べっぷりには見ているこちらまで気持ちよくなるような、生命力に溢れた勢いがあった。


 慎太郎も、揚げたてのアジフライにソースをかけ、箸を進めた。サクサクとした衣の食感と、ふっくらとしたアジの旨味が口いっぱいに広がる。


「……んんっ、おいしい!」


 みどりが頬を膨らませたまま、目を丸くして言った。


「だろ。この辺りじゃ一番だ」

「マジで最高。しんちゃん、よくこんな店知ってたね」

「高校の頃、たまに親父に連れてこられてたんだ。東京に行ってからはすっかりご無沙汰だったが」


 慎太郎が答えながらアジフライを一口かじると、みどりがふっと笑みをこぼした。


「なんかさ」

「ん?」

「こうやって、明るいところでおいしいご飯食べてるの、変な感じ」


 みどりは割り箸を持ったまま、少しだけ目を細めた。


「夜会う時はいっつも、この世の終わりみたいな顔してビール飲んでたのにね」

「……余計なお世話だ」


 慎太郎がわざと顔をしかめると、みどりは楽しそうに声を上げて笑った。


 窓の外では、夏の太陽が容赦なく漁港のアスファルトを照りつけている。


 金曜20時の、あの薄暗い高架下の赤提灯でしか会えなかった二人が、今、白昼堂々と太陽の下で同じテーブルを囲んでいる。


 慎太郎は麦茶で口の中の油を流し込みながら、目の前で美味そうに海鮮丼をかき込む彼女の姿を、ただ静かに見つめていた。

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