第38話 新しい販路
空調の効いた応接室には、分厚いファイルのページを捲る乾いた音だけが等間隔で響いていた。
地元の中堅産業機械メーカー。その購買部が使用する会議室の長机で、50代の購買担当者が手元の資料と、テーブルの中央に置かれた金属の小さなテストピースを交互に見比べていた。
担当者の指先で転がされる金属部品は、窓から差し込む初夏の日差しを反射して鈍く光っている。精密に削り出された表面には、肉眼で確認できるような傷や歪みは一切ない。
「……確かに、不良品率が極めて低いのは魅力です。過去のデータを拝見しても、松井さんの工場の技術力は疑っていません。うちの技術部の人間も、このテストピースの仕上がりには舌を巻いていました」
担当者は顔を上げ、慎太郎とみどりの二人を見た。その表情には、好意的な評価と、それゆえの悩ましさが同居している。
「ただ、うちの希望する単価より、ロットあたり10円高い。現在発注している海外の工場と比べると、どうしてもコスト面で折り合いがつきません。部品一つ一つの価格差は小さくても、年間で数万個、数十万個となれば、経営に与えるインパクトは無視できないんです。御社で、もう少し単価を下げる余地はありませんか?」
予想通りの反応だった。慎太郎は表情を変えず、手元のタブレット端末を操作し、画面を反転させて担当者の前に滑らせた。画面には、昨夜遅くまでかかって作成したシミュレーションデータが表示されている。
「おっしゃる通り、初期の調達コストとしては10円の開きがあります。ですが、こちらのグラフをご覧ください。御社が現在発注されている海外工場の直近三年の納品遅延率と、それに伴うライン停止の損害額。そして、納品後の全数検品に割いている人件費の概算です」
慎太郎の低く落ち着いた声が、静かな室内に響く。
「当社の歩留まりの良さと、絶対に納期を割らないという実績を掛け合わせ、トータルコストで比較した場合、年間で約200万円のコストダウンに繋がります。不良品発生による再発注の手間や、ライン稼働率の低下による機会損失を防ぐことができます。部品の単価だけでなく、御社のラインを止めない『安定性』を買っていただきたいのです」
担当者の視線が、タブレットの画面に釘付けになる。
彼自身も、海外工場のルーズな納期管理と品質のバラツキには日々頭を悩ませているはずだ。その隠れたコストを、慎太郎は容赦なく数字として可視化してみせた。
「……理屈はわかります。確かに、この数字通りなら御社にお願いするメリットは大きい。ですが、今回の特殊合金の切削はかなりシビアです。テストピースではなく、量産体制に入っても、本当に公差プラスマイナス0.05ミリを維持できるんですか。素材の硬度が高い分、刃の摩耗も早く、歩留まりが悪化するリスクがあるはずです」
担当者の疑念のこもった視線が、慎太郎の隣に座るみどりへと向けられた。
現場の技術的な懸念に対しては、職人が直接答えるのが最も説得力を持つ。慎太郎は黙って隣のみどりに視線を促した。
アイロンがかけられた清潔な作業着姿のみどりは、真っ直ぐに担当者の目を見返した。膝の上で軽く握られた彼女の拳には、石鹸でいくら洗っても落ちない黒く染み付いた油汚れが微かに残っている。
「維持できます」
みどりの声は、驚くほど澄んでいて、力強かった。
「この合金の特性は、うちの工場でも十分にテストを重ねました。確かに硬度は高いですが、刃の送り速度と、冷却液の温度管理を徹底すれば、熱膨張による誤差は完全に抑え込めます。お渡ししたテストピースは、職人が手作業で特別に仕上げたものではありません。実際の量産ラインと同じ工程、同じ設定で削り出したものです。1万個削っても、あの精度をお約束します」
担当者は再びルーペを手に取り、金属の表面をじっくりと確認した。数秒の沈黙の後、小さく息を吐いてルーペを置く。
「……わかりました。まずは1ロット。トライアルで発注を出しましょう。この1ロットで御社の言う『安定性』を証明していただければ、来期からの本契約を前向きに検討します」
「ありがとうございます」
慎太郎とみどりは揃って深く頭を下げた。
★★★★★★★★★★★
「はぁぁぁ……っ、疲れた!」
工場の名前がペイントされた年季の入った軽トラに乗り込むなり、みどりはハンドルに突っ伏して大きなため息をついた。
助手席に座った慎太郎は、シートベルトを引き出しながら短く笑う。
「お疲れ。完璧だったぞ」
「マジで手震えるかと思ったし。あんな立派な会議室で、偉そうな人の前で喋るなんて、私の人生にないイベントだからね」
みどりはシートに背中を預け、車の天井を仰いだ。大きく息を吸い込み、そしてゆっくりと吐き出す。
「堂々としたものだった。お前の提示した技術的な根拠が、最後のひと押しになったんだ。自信を持て」
慎太郎が言うと、みどりは顔を向け、少しだけ誇らしげに口角を上げた。
「でも、しんちゃんのあの数字の詰め方、えげつなかったね。相手、ぐうの音も出てなかったじゃん。トータルコストがどうとか、検品の人件費がどうとか、あんなの、私や親父じゃ絶対に思いつかないよ。うちがやってきたのは、言われた図面通りに削って、言われた値段で納品するだけだったから」
「相手の抱えている課題をリサーチして、そこに自社の強みをぶつけただけだ。パズルと同じだよ。相手が欲しがっているピースを見極めて、的確にはめ込む。お前たちの技術が、その最強のピースになる」
「パズルか……。やっぱ、すげえ世界で戦ってたんだね。しんちゃんは」
みどりはキーを回し、軽トラのエンジンをかけた。ガタガタと古い車体が振動し、エアコンの吹き出し口から生温かい風が流れ出してくる。
退院してからの数週間。彼女の顔から、以前のような悲壮感は消えていた。
「次、30分後に隣町のバルブメーカーだ。行くぞ」
「りょーかい。営業本部長」
みどりがアクセルを踏み込むと、軽トラは初夏の乾いた風を切って走り出した。開け放たれた窓から入り込む風が、彼女の赤みがかった髪を大きく揺らす。ラジオからは、気の抜けたローカルCMの音声が流れていた。
★★★★★★★★★★★
日曜日。13時。
慎太郎は、スマートフォンに送られてきた位置情報を頼りに、町外れの海沿いにある古い倉庫街を歩いていた。
『日曜日、13時に指定の場所へ。デートよ』
昨夜、カルメンから送られてきたメッセージは、相変わらず有無を言わさぬものだった。
潮の香りが混じった生温かい風が吹き抜ける中、指定されたレンガ造りの建物の前に到着する。かつては海運倉庫として使われていたようだが、今は外壁が白く塗られ、大きなガラス戸がはめ込まれたモダンなギャラリーに改装されているようだった。建物の前には、サビを活かした鉄製の看板が出ている。
ガラス戸を開けて中に入ると、高い天井から自然光が降り注ぐ広々とした空間が広がっていた。壁には現代アート風の絵画が掛けられ、フロアには立体作品が点在している。
「オラ、タケダ。時間ぴったりね」
フロアの奥から、鮮やかな黄色のサマードレスに身を包んだカルメンが歩いてきた。足元は軽やかなサンダルで、彼女が動くたびに、大ぶりのシルバーのイヤリングがシャラシャラと音を立てる。
「……デートと聞いていたが、ここは?」
「私の新しいアトリエ。と言っても、大学の友人たちと間借りしてるだけのスペースだけどね。ここで次の展示会の準備をしているの」
カルメンは慎太郎の腕を引き、ギャラリーの中央に設置された白い展示台へと案内した。
そこには、いくつかの一風変わったオブジェが並べられていた。
透明なアクリル樹脂のキューブの中に、螺旋状の金属の削り屑が美しく封じ込められたペーパーウェイト。工業用の無骨な歯車を磨き上げ、重厚なウォールナット材と組み合わせたブックエンド。鈍く光る真鍮の端材を幾何学的に組み合わせた、モダンなデスクライト。そして、鉄の廃材を溶接して作られた、一輪挿しの花器。
「……これは」
慎太郎はペーパーウェイトを手に取った。樹脂の中で、金属の削り屑が光を乱反射し、まるでひとつの小宇宙のように輝いている。滑らかなアクリルの表面越しに見る金属のねじれは、確かに工業製品にはない有機的な美しさを持っていた。
「ミドリの工場から出たゴミよ。旋盤で削ったときに出る、ただの鉄屑」
カルメンは悪戯っぽく笑い、慎太郎の顔を覗き込んだ。
「先日、彼女の工場に遊びに行ったときにもらってきたの。彼女たちはあれを、ただのゴミとして処分業者にお金を払って引き取ってもらっているんでしょ?」
「ああ。産業廃棄物だからな。鉄屑はキロ単位で安く引き取られるのが関の山だ」
「ナンセンスね。あんなに美しい曲線を描いて削り出されたものが、ゴミだなんて」
カルメンは展示台に両手をつき、真っ直ぐに慎太郎を見た。
「タケダ。あなたたちは今、必死にBtoBの営業に回って、コストと機能で勝負している。もちろんそれは正しいわ。でも、それだけじゃ、いつかまた大きな資本に買い叩かれる日が来る。価格競争の波に飲まれれば、結局は体力勝負になる」
彼女の琥珀色の瞳が、真剣な光を帯びていた。
「ミドリたちの技術は、ただの『部品』を作るだけじゃない。鉄を削るという行為自体が、すでに完璧で美しいのよ。だったら、その美しさにデザインという魔法をかけて、直接、それを欲しいと思う人たちに届ければいい。アートやライフスタイルの文脈で再定義するの」
慎太郎は手の中のペーパーウェイトを見つめた。
下請けとしての大量生産による利益確保。それは工場の存続に不可欠な土台だ。だが、それとは別に、自社ブランドとしての付加価値の高い小ロット製品の販売ルートを確立できれば、価格競争に巻き込まれない新たな柱になる。
原価率、ターゲティング、販売チャネル、ECサイトの構築、初期投資額。工場の稼働率の推移と、アイドルタイムにおけるリソースの配分。テストマーケティングをクラウドファンディングで行う場合のPR戦略と、目標金額の設定。
猛烈な勢いで計算式が回り始め、慎太郎の脳が心地よい熱を帯びていくのを感じた。
「……面白い」
慎太郎の口から、自然と笑みがこぼれた。
「工場の廃材と空き時間を使えば、原価は極限まで抑えられる。職人の技術力は既に担保されているから、あとはデザインと見せ方の問題だ。廃棄される鉄屑が数千円のインテリア雑貨に化けるなら、利益率は信じられないほど高くなる。クラウドファンディングでテストマーケティングをかければ、在庫リスクも回避できる。インダストリアルデザインを好む層には確実に刺さるはずだ。まずはこのペーパーウェイトとブックエンドの試作品を量産できるか、みどりに確認して……」
事業計画書の目次を組み上げ、今後のタイムラインを弾き出している慎太郎を見て、カルメンは満足そうに目を細めた。
彼女は慎太郎に一歩近づき、その端正な顔を見上げた。甘く情熱的な香水が鼻をかすめる。
「その顔。……何かに夢中になって、頭の中をフル回転させている時のあなたの目、すごくセクシーね」
カルメンはそっと手を伸ばし、慎太郎の頬に触れた。
「少しは、私とのデートの気分になった?」
「……営業本部長としては、これ以上ないほど有益な時間だ」
慎太郎が苦笑しながら答えると、カルメンは「ロマンチックじゃないわね」と肩をすくめ、小さく息を吐いてから笑った。




