第37話 反撃の狼煙
真っ白なA4用紙の中央に印字された「退職届」という黒い文字を、慎太郎は無言で見下ろしていた。
月曜日の午前8時。実家の自室には、開け放たれた窓から朝の涼しい空気が流れ込んでいる。遠くで聞こえる通学の自転車のブレーキ音や、近所の犬の鳴き声が、今日の始まりを告げていた。
机の上に置かれた万年筆を手に取り、キャップを外す。日付と自分の名前をゆっくりと書き入れ、最後に朱肉をつけた印鑑を力強く押した。
紙の表面に、赤い丸が定着する。10年間、自分の時間を捧げてきた場所との決別だった。
3つ折りにした書類を白い封筒に入れ、糊付けして封をする。
その時、机の上に置いていたスマートフォンが短く振動した。画面には「岩崎瑞穂」の名前が表示されている。
慎太郎は小さく息を吐き、通話ボタンを押した。
「……おはようございます。武田さん」
電話の向こうの瑞穂の声は、いつものような張り詰めたものではなく、どこか諦めを含んだような、静かな響きだった。
「おはよう。朝早くからどうした」
「いえ……先ほど、人事部のアドレス宛に武田さんから退職手続きの申請メールが届いたと、耳に挟みまして。本当に、辞めてしまうんですね」
慎太郎の視線が、糊付けされたばかりの白い封筒に向いた。
「ああ。今日付けで書類を郵送する。お前には、一番迷惑をかけた。引き継ぎの資料は、共有フォルダの奥に全部残してある」
「そんなの、とっくに確認済みです。私が武田さんの仕事をどれだけ完璧にカバーしてきたと思ってるんですか」
瑞穂は少しだけ強がって鼻で笑い、それから、ふっと息の音を漏らした。
「……エレノアさんのオファーも蹴って、元の会社にも戻らない。武田さんらしい、一番損で、一番馬鹿な選択です」
「そうだな」
「でも」
瑞穂の声がわずかに潤んだように聞こえた。
「私が一番尊敬していた武田慎太郎は、そういう人でした。……そっちの仕事、絶対に失敗しないでくださいよ。東京から、私の作ったデータが役に立っているか監視してますから」
「ああ。頼りにしてる」
通話が切れ、静寂が戻る。
慎太郎はスマートフォンを机に置き、封筒を鞄にしまった。
自室を出て、玄関でスニーカーの踵を潰さないように指を入れて履く。居間からは、父親が観ている朝のニュース番組の音声が聞こえていた。出勤の準備をするような時間帯に靴を履く息子を見て、父親は「出かけるのか」と短く声をかけた。
「ああ、ちょっとそこまで」
慎太郎はそれだけ返し、引き戸を開けた。
初夏の日差しが、アスファルトを白く照らしている。駅前の通りにある赤い郵便ポストまで、ゆっくりとしたペースで歩く。すれ違う近所の住人たちとすれ違いながら、自分の足音が硬い地面を叩く感覚を確かに感じ取っていた。
少し色褪せた赤いポストの硬い金属の口に、白い封筒を滑り込ませた。コトン、と底に落ちる微かな音が響く。
慎太郎は小さく息を吐き、元来た道へと歩き出した。
★★★★★★★★★★★
木曜日の午後1時。
初夏の強い日差しが、トタン屋根を容赦なく照らし付けている。
油と鉄粉の匂いが染み付いた松井製作所の事務所で、慎太郎は古いパイプ椅子に座り、持ち込んだ自分のノートパソコンのキーボードを猛烈な速度で叩いていた。
「……マジで、なにそれ」
背後から、呆れたようなみどりの声が聞こえた。
日曜日から4日間の入院を経て昨日退院したばかりの彼女は、まだ顔色に少しだけ青白さを残していた。しかし、安静にするという約束は守られず、いつもの作業着姿で事務所の入り口に立っている。その瞳の奥の光は、確かな力強さを取り戻していた。
慎太郎は画面から目を離さず、机の上に山積みにされた油まみれの請求書と納品書の束を片手でめくりながら答えた。
「この4日間の休業で出た遅れを取り戻さなきゃならないんだろう。なら、俺がやれることをやるだけだ」
画面上のスプレッドシートには、工場のお金の流れが恐ろしいスピードで数値化され、グラフが形成されていく。エンターキーをターン、と強く叩き、慎太郎はみどりの方を振り返った。
「結論から言う。現状のままなら3ヶ月で資金ショートだ。親父さんのどんぶり勘定も限界にきている」
「……」
みどりが無言で作業着の裾を握る。
「だが、手がないわけじゃない。この『Dパーツ』の受注、単価設定が完全におかしい。材料費の高騰と工数を計算すれば、作れば作るほど赤字になる構造だ。なぜこんなものを受け続けている」
「それは……昔から世話になってる親会社の担当者に泣きつかれて。うちがやらないとラインが止まるって言うから」
みどりが気まずそうに視線をそらす。
「情で会社は回らない。明日、その担当者をここに呼べ。俺が単価交渉をする。適正価格に応じないなら、この案件は切る。その分のリソースを、利益率の高いA社の部品生産に集中させれば、半年で営業利益は黒字に転換できる」
慎太郎は画面のグラフを指差し、淡々と告げた。
「借金のリスケジュールは、俺が銀行と直接交渉して返済計画を引き直す。だからお前は、金のことや納期のプレッシャーは一切忘れて、現場の人間として品質だけを担保しろ。カルメンが言っていた工場のリブランディングも、止血が終われば視野に入れられる」
みどりは目を丸くし、慎太郎の顔と、画面上の緻密なデータとを交互に見比べた。
「……なんか、本当にコンサルタントみたいじゃん」
「それが俺の仕事だからな」
慎太郎が微かに口角を上げると、みどりは「ふん」と鼻を鳴らし、少しだけ嬉しそうに目を細めた。
「手加減しないでよね。うちの親父、金のことになるとすぐ逃げるから。ガンガン詰めてやって」
「言われなくてもそうする。数字は嘘をつかないからな」
慎太郎が再びキーボードに向き直ると、みどりは少しだけ肩の力を抜き、「お茶、淹れてくる」と小さな声で言って事務所の奥へ引っ込んだ。
遠くで、古い扇風機が首を振る鈍い音が響いていた。
★★★★★★★★★★★
週末の土曜日。
町外れにある海沿いのダイナーのテラス席で、慎太郎は目の前に置かれた巨大なハンバーガーをどうやって食べるべきか、思案していた。
分厚いビーフパティに、とろけるチェダーチーズ、はみ出したレタスとトマト。バンズにはこんがりと焼き目がついている。潮の香りを孕んだ風が、テラス席のパラソルをバタバタと揺らしていた。
「ほら武田さん、口の周り汚れるの気にしてちゃダメですよ! ハンバーガーは両手で持って、ガブっといくんです!」
向かいの席で、野村奈緒子が口の端にマヨネーズをつけながら満面の笑みで言った。
彼女は体にフィットした白いノースリーブに、ダメージの入ったショートパンツという出で立ちだ。健康的に日焼けした長い手足と、隠しきれない女性らしいプロポーションが、太陽の光を弾いて眩しいほどの存在感を放っている。
昨日、保育園へ湊を迎えに行った際、「みどりちゃんが退院した快気祝いの前借りです!」という全く意味の分からない理由で、奈緒子に強引にこのランチに誘い出されたのだった。
「お前な……俺は今、工場の再建計画で頭がいっぱいなんだが」
「知ってますよ。湊くんのお迎え、最近ずっと武田さんですし。みどりちゃんちの工場に毎日入り浸ってるんでしょ?」
奈緒子はハンバーガーを紙ごとテーブルに置き、ストローでアイスティーを啜りながら、じっと慎太郎の顔を見た。
その少し悪戯っぽい、だがよく人を見ている大きな瞳。
「でも、安心しました」
「何がだ」
「今の武田さんの顔、すごくいいからです」
奈緒子はふふっと笑い、頬杖をついた。
「初めて会った時の、あの深海魚みたいな顔はもうどこにもないですね。ちゃんと地面に足がついて、前を向いてる男の人の顔になってます。湊くんも、お迎えに武田さんが来るとすっごく嬉しそうに走っていくんですよ」
「……」
「みどりちゃんのこと、よろしくお願いしますね。あの子、ずっと一人でギリギリのところで立ってたから。武田さんが一緒にいてくれたら、きっと大丈夫です」
太陽のような明るい声。だが、その響きの中に、ほんの数滴だけ、微かな寂しさが混じっているように慎太郎には聞こえた。
奈緒子はストローの先を指で弾き、空を仰いだ。
「あーあ。私じゃ、ダメだったんですねえ」
独り言のような、冗談のような響き。波の砕ける音が、二人の間の短い沈黙を埋めた。
慎太郎が言葉に詰まっていると、奈緒子はすぐに視線を戻し、「あははっ!」と声を上げて笑った。
「冗談ですよ! いやー、でもちょっと悔しいな。私が一番最初に声かけたのになー、なんて! 武田さん、真に受けないでくださいよ!」
彼女は照れ隠しのように手で顔を仰ぎ、残っていたポテトを口に放り込んだ。
その裏表のない、決して相手に負担をかけまいとする健康的な優しさに、慎太郎は救われる思いだった。
「……ありがとう。奈緒子」
慎太郎が真っ直ぐに目を見て言うと、奈緒子は一瞬だけ動きを止め、それから少しだけ頬を赤くして「どういたしまして」と笑った。
波の音が、遠くで静かに響いていた。
慎太郎は自分の両手でハンバーガーをしっかりと掴み、大きく口を開けてかぶりついた。
焼けた肉の香ばしさと、溶けたチーズの塩気が口の中に広がる。噛み締めるたびに、肉汁とソースの味が舌の上から胃へと、確かな重みを持って落ちていった。
吹き抜ける海風がパラソルを揺らす音を聞きながら、慎太郎は無言で咀嚼を繰り返した。




