第36話 俺を頼れ
しゃくりあげるような小さな呼吸音が、無機質な白い病室に等間隔で響いていた。
みどりはベッドの上で身を丸め、両手で顔を覆ったまま、子供のように泣き続けていた。ずっと張り詰めていた糸が切れ、自分でも制御できないほどの感情が溢れ出しているようだった。点滴のチューブが繋がれた細い腕が、呼吸に合わせて小刻みに震えている。
窓のブラインドの隙間からは、朝の強い光が差し込み、空気中を舞う埃の粒を白く浮かび上がらせていた。微かに漂う消毒液の匂いが、ここが彼女の日常である油臭い町工場ではないことを冷たく主張している。
慎太郎はパイプ椅子に座ったまま、何も言わずにただその小さな背中の震えを見守っていた。
安易な慰めの言葉など、今の彼女には何の意味も持たない。18歳の細い肩に、父親の工場の存続、数千万の借金、そして愛する息子の未来という、あまりにも重すぎる現実が乗し掛かっているのだ。「大丈夫だ」と無責任に背中を撫でることなど、彼にはできなかった。
やがて、10分ほどが過ぎた頃。
みどりの嗚咽が徐々に小さくなり、鼻をすする音だけが残った。彼女はゆっくりと顔を覆っていた手を下ろし、手の甲で乱暴に目元を拭った。泣き腫らした大きな瞳は真っ赤に充血し、目元にはまだ疲労の隈が色濃く張り付いている。
石鹸でいくら洗っても落ちない爪の隙間の黒い油汚れが、真っ白なシーツの上でひどく不釣り合いに見えた。
慎太郎はゆっくりと立ち上がり、ベッドサイドの小さなテーブルに置いてあった使い捨てのおしぼりの封を切った。それをみどりに手渡す。
「……ありがと」
みどりは掠れた声で呟き、おしぼりで顔をごしごしと拭いた。
慎太郎は再びパイプ椅子に腰を下ろすと、自分が着てきたジャケットのポケットに手を入れた。
「少し、口を開けろ」
慎太郎が取り出したのは、透明な小さなビニール袋だった。中には、ゴツゴツとした不揃いな茶色い塊がいくつか入っている。
みどりが不思議そうに目を細めた。
「うちの親父が、俺が慌てて家を飛び出すのを見て持たせてくれた。沖縄の黒糖だそうだ。知人の土産らしいが、疲労回復に効くからと」
慎太郎は袋から黒糖の欠片を1つ取り出し、みどりの口元へ差し出した。
みどりは少し躊躇った後、素直に小さく口を開けた。
慎太郎の指先から、みどりの舌の上に黒糖が転がり落ちる。
みどりがゆっくりと口を閉じ、咀嚼した。
「……あまっ」
思わず漏れたみどりの声は、先ほどまでの張り詰めた悲痛さが嘘のように、微かな安堵を含んでいた。
口の中でほろほろと崩れた黒糖から、濃厚で野性味のある甘さが一気に広がる。ただ甘いだけではない。微かな塩気と、ミネラル特有の複雑な苦味が後を引く。精製された白い砂糖にはない、土と太陽の力強さをそのまま閉じ込めたような、素朴で深い味がした。
限界まですり減っていたみどりの脳と身体に、その純度の高い糖分が急速に染み渡っていく。冷え切っていた手足の指先に、じんわりと血の巡る熱が戻ってくるのがわかった。
みどりは小さく息を吐き、ベッドの背もたれに深く身体を預けた。
「……ごめん。なんか、急に糸が切れたみたいになって」
みどりは天井の蛍光灯を見上げながら、ぽつりとこぼした。
「親父、今ごろ工場で一人でパニックになってると思う。取引先の納期、絶対守らなきゃいけないのに。私が倒れてる場合じゃないのにさ」
「親父さんには、俺から連絡を入れてある。お前の状態も伝えた」
慎太郎の言葉に、みどりはハッと顔を向けた。
「今日の分の作業は、取引先に事情を説明して頭を下げて回るそうだ。……工場の状況についても、少しだけ聞いた」
みどりの表情がスッと硬くなった。唇を強く引き結び、視線をシーツの皺へと落とす。
「……聞いたんだ。みっともないでしょ。借金まみれで、首回んなくて」
「みっともなくはない」
慎太郎は即答した。
「だが、お前一人が寝ずに旋盤を回したところで、どうにかなるフェーズはとうに過ぎているはずだ」
冷徹な事実の指摘だった。みどりの肩が微かに跳ねる。
「……わかってるよ、そんなこと。でも、やるしかないじゃん。親父の工場なんだよ。湊のご飯、買わなきゃいけないんだよ。私がやるしかないんだよ……!」
再び感情が昂りそうになるみどりを制するように、慎太郎は静かに、だが一切のブレがない声で告げた。
「俺がやる」
病室の空気が、ピタリと止まった。
点滴の落ちる微かな水音だけが、耳元でやけに大きく響いた。
みどりは大きく目を見開き、信じられないものを見るように慎太郎を見つめた。
「は……? しんちゃん、何言って……」
「実は昨日、東京から来た瑞穂に手伝わせ、工場の財務データの洗い出しはある程度終わっている。無駄な経費や赤字案件の状況は把握した」
慎太郎はみどりの目を真っ直ぐに見据えたまま、淀みない口調で言葉を継いだ。
「だが、より確実な再建スキームを組むためには、もう少し詳細な裏付けがいる。追加で必要な書類を親父さんに用意させろ。直近3期分の決算書、月次の資金繰り表。それから金融機関との金銭消費貸借契約書、工場の土地と建物の登記簿謄本だ。現在の全取引先との契約状況と、設備のリース契約の一覧もいる」
滑らかに紡がれる専門用語の羅列に、みどりは瞬きを忘れ、ただ慎太郎の顔を見つめていた。
一切の感情を排し、目の前の膨大な情報を処理し、最も合理的で確実な解答を導き出そうとする、刃のように鋭く冷たい目。
みどりは完全に言葉を失っていた。
「……ダメだよ」
数秒の沈黙の後、みどりは我に返ったように首を横に振った。
「しんちゃんは、病気を治すためにこっちに帰ってきてるんでしょ。東京の凄い人たちが、しんちゃんの帰りを待ってるって、あの女の人たちも言ってた。うちのこんな泥舟に巻き込んだら、しんちゃんまでダメになっちゃう。迷惑かけられないよ」
「迷惑じゃない。俺がやりたいからやるんだ」
慎太郎はパイプ椅子から立ち上がり、ベッドの脇に立った。見下ろす形になるが、その視線に威圧感はなく、ただ静寂を保ったままみどりの瞳を捉えていた。
「俺は、何十億、何百億という単位で企業を査定し、生殺与奪の判定を下してきた。数字の裏にあるリスクを洗い出し、一番血が流れない最適解を導き出すのが俺の仕事だ」
その言葉には、一切の誇張も虚勢もなかった。ただ、彼が積み上げてきた圧倒的な実績という事実だけが、確かな質量を持って病室の空気を満たしていた。
「お前の親父さんの工場の規模なら、俺が数日ですべての数字を洗い出し、現状を整理できる。事業を継続するにせよ、手仕舞いにするにせよ、どの選択肢が一番お前たち家族に傷を残さないか、俺が確実な答えを出す」
「でも……っ」
反論しようとするみどりの言葉を、慎太郎は強い語気で遮った。
「もう一人で抱え込むな。俺を頼れ」
静かだが、腹の底に直接響くような重い声だった。
「……っ」
みどりの瞳から、再び大粒の涙が溢れ落ちた。
「……しん、ちゃん……」
みどりは両手で顔を覆い、しゃくりあげた。
慎太郎はそっと手を伸ばし、彼女の赤みがかった髪を一度だけ、不器用に撫でた。
「寝てろ。後のことは、全部俺が引き受ける」
数分後。
泣き疲れて再び眠りに落ちたみどりの規則正しい寝息を確認し、慎太郎は病室を後にした。
廊下に出ると、彼は迷うことなく自分のスマートフォンの連絡先を開いた。
スクロールする指先に、躊躇いは一切ない。
『岩崎瑞穂』
発信ボタンを押す。
コール音は2回しか鳴らなかった。
『……はい、武田さん』
電話の向こうから、凛とした瑞穂の声が聞こえる。
「瑞穂。俺だ。朝早くからすまない」
『いえ、ちょうどホテルの部屋で目を覚ましたところです。昨夜はあまり眠れませんでしたから。……何か動きがありましたか』
「ああ。昨日お前がまとめてくれたデータの件だが、追加で頼みたいことがある」
慎太郎は病院の冷たい窓ガラスに映る自分の顔を見据えながら、早口で指示を出した。
「あの工場の保有する特許技術の価値査定と、同業他社とのM&Aの可能性も含めた市場調査だ。急ぎで頼めるか」
数秒の沈黙。
そして、電話の向こうの瑞穂の吐息が微かに震え、すぐにプロフェッショナルのそれへと切り替わった。
『……ついに、やる気になったんですね。わかりました。対象技術の特許番号と詳細をテキストで送ってください。今日の夕方までに、一次レポートを上げます』
「助かる。今の俺は社内データベースにアクセスできない。お前の持っているリソースが頼りだ」
『お任せください。……少しは、私のお節介も役に立ちましたか?』
瑞穂の声には、昨日のような刺々しさはなく、どこか誇らしげな響きがあった。
「ああ。お前が昨日データを洗い出しておいてくれたおかげで、話が早かった」
『……ふふ。よかったです。では、テキストをお待ちしています』
通話を切り、スマートフォンをポケットにしまう。
窓の外には、薄雲を突き抜けた初夏の太陽が、容赦ない光を町全体に投げかけていた。
慎太郎は短く息を吐き、病院の長い廊下を力強い足取りで歩き出した。




