第35話 怒り
薄暗い実家の台所に、電気ケトルの湯が沸く低い音が響いていた。
日曜日の午前6時。窓の外の空はまだ薄っすらと白み始めたばかりだが、湿気をたっぷり含んだ初夏の空気が、すでに網戸越しに家の中へと入り込んできている。昨夜降った通り雨のせいか、土の青臭い匂いが風に混ざっていた。
昨日の午後、実家に押し掛けてきた瑞穂やカルメンたちを見送った後に固めた決意が、慎太郎の腹の底に静かな熱として残っていた。今日、工場のシャッターを開け、彼女の目の前に立とう。自分が踏み込むことで彼女の日常を壊してしまうかもしれないという躊躇いは、もう捨てた。そう決めて、朝を迎えたところだった。
慎太郎は小さな哺乳瓶に粉ミルクをすりきりにして入れ、沸きたての湯を注いだ。軽く振り、シンクの流水に当てて人肌まで冷ましていく。
その甘く温かい匂いが空気の層を伝わったのか、居間の隅に置かれた段ボール箱から、カサカサと微かな音が聞こえた。
「ミィ」
かすれた、だがはっきりとした自己主張の声。
慎太郎が哺乳瓶を持ったまま居間を覗き込むと、古いタオルケットの海から、薄茶色の小さな毛玉が顔を出していた。嵐の夜に保護した子猫のムギだ。
ムギは小さなピンク色の鼻をスンスンとひくつかせ、空中に漂うミルクの匂いを懸命に探っている。まだ完全には開いていない青灰色の目をしばたたかせ、短い前足を段ボール箱の縁にかけた。
よっと、という声が聞こえそうな不器用な動作で縁を乗り越えると、ムギは畳の上へとコロンと転がり出た。すぐに体勢を立て直し、匂いの発生源である慎太郎の方へ向かって、短い足でよちよちと歩き始める。
まだ骨格がしっかりしていないため、歩幅はバラバラで、右へ左へとふらついている。それでも、ピンと真っ直ぐに立てた細い尻尾が、いっちょまえの決意を示していた。
慎太郎の足元までたどり着くと、ムギは靴下に小さな爪を立ててしがみつき、見上げるようにして「ミィ!」とひと際大きな声で鳴いた。早くよこせ、という明確な要求だ。
「待て。まだ少し熱い」
慎太郎が低く声をかけると、ムギは待ちきれないように慎太郎の足首をよじ登ろうとジタバタと身をよじる。そのあまりにも真っ直ぐで無防備な命の欲求に、慎太郎の口角が自然と緩んだ。
手首の内側に数滴垂らし、温度が適切であることを確かめる。あぐらをかいてムギを膝に乗せようとした、まさにその時だった。
居間のテーブルに置いていたスマートフォンが、無機質な振動音を立てた。
ブブッ、ブブッという音が、静かな朝の空気を鋭く切り裂く。
画面に表示された文字を見て、慎太郎の動きが止まった。
『松井のじいさん』
みどりの父親からだ。休日のこの時間に電話がかかってくることなど、過去に一度もない。
嫌な予感が背筋を駆け上がり、慎太郎は急いで通話ボタンを押した。
「……はい」
『慎太郎か……朝早くから、本当にすまねえ』
電話の向こうの父親の声は、ひどく掠れ、震えていた。背景からは、救急車のサイレンの音が遠ざかっていくのが聞こえる。
『みどりが、倒れた。今から、市民病院に運ばれる』
慎太郎の視界が、一瞬だけ真っ白に飛んだ。耳の奥で、自分の心臓の音がひどく大きく鳴り始めた。
『昨日から、あいつ一睡もせずに旋盤回してて……俺がウトウトしちまった隙に、工場からガシャンってでかい音がして。見に行ったら、機械の前で突っ伏して、意識が……っ』
父親の声が嗚咽に変わる。
慎太郎は哺乳瓶をテーブルに置き、立ち上がった。心臓が、肋骨を突き破るような勢いで早鐘を打っている。
「すぐに行きます。湊は?」
『家で、近所の奥さんに見てもらってる』
「わかりました。病院に着いたら、また連絡してください」
電話を切り、慎太郎は自室で寝ていた父親を叩き起こしてムギのミルクを託すと、財布だけを掴んで家を飛び出した。
★★★★★★★★★★★
市民病院の救急病棟の待合室は、消毒液の冷たい匂いと、蛍光灯の無機質な光に満ちていた。
日曜日の早朝の待合室には人気がなく、受付の看護師がキーボードを叩く乾いた音だけが響いている。自動ドアを抜けると、一番奥のパイプ椅子に深く身を沈め、両手で頭を抱えているみどりの父親の姿があった。
着の身着のままで救急車に飛び乗ってきたのか、不格好なジャージ姿のままだ。足元のサンダルは左右で色が違っており、その焦燥の深さを物語っていた。
「松井さん」
「……おお、慎太郎」
顔を上げた父親の目は、真っ赤に充血していた。深いシワが刻まれた顔は、数日前に実家で寿司桶を囲んだ時よりも、一回りも二回りも老け込んでしまったように見える。
「みどりは」
「……過労と、極度の睡眠不足に、栄養失調が重なってるそうだ。脱水症状もあって……今は点滴打って、眠ってる。命に別状はねえって、先生は言ってたが……」
父親は両手で顔を覆い、絞り出すように言った。その分厚い手には、長年工場で油にまみれてきた落ちない黒ずみが染み付いている。
「俺が不甲斐ねえばかりに……あんな小さな体で、親父の借金まで背負わせて……俺が、あいつを殺しかけたようなもんだ。俺のせいだ……っ」
「……病室は、どこですか」
慎太郎の声は、自分でも驚くほど冷たく、低かった。感情の行き場を見失い、ただ目の前の事実だけを処理しようとする、かつてのシステム化された自分の防衛本能だった。
案内された個室のドアを、音を立てずに開ける。
白いカーテンで仕切られたベッドの上に、みどりがいた。
病院の薄い寝巻きに着替えさせられた彼女は、信じられないほど小さく見えた。いつも着ていたダボついた作業着がないせいだけではない。生命力そのものが削り取られたような頼りなさが、彼女の全身を覆っていた。
頬はこけ、目の下には濃い隈がどす黒く張り付いている。点滴の針が刺さった左腕は、折れてしまいそうなほど細い。シーツの上に投げ出された指先には、石鹸でいくら洗っても落ちない金属の黒ずみと、無数の小さな切り傷が痛々しく残っていた。
規則正しい電子音が、彼女が生きていることだけを無機質に証明している。
慎太郎はベッドの脇の丸椅子に腰を下ろし、その顔を見つめた。
数日前、瑞穂とカルメンの前で「お店が開ける」と笑ってくれた時の顔が、まるで幻のように思えた。彼女はあの時すでに、限界のラインをとうに超え、水面下で溺れながら笑っていたのだ。それを止めることもせず、ただ彼女の強さに寄りかかっていた自分の無神経さが、刃となって慎太郎の胸を抉った。
ふと、シーツの上の小さな手が微かに動いた。
みどりの瞼が震え、うっすらと開かれる。焦点の合わない瞳が天井をさまよい、やがてゆっくりと慎太郎の顔を捉えた。
「……しんちゃん……?」
掠れた、空気の漏れるような声だった。酸素マスクは外されているが、呼吸はまだ浅い。
「ああ。俺だ」
「なに、してんの……こんなとこで」
みどりは眉をひそめ、それから、弾かれたように病室の壁の時計を見た。秒針が、午前7時を回ったところを指している。
「……嘘でしょ。今、何時……?」
「朝の7時だ。寝てろ」
「7時……ダメだ、今日の昼までに、あと200個……」
みどりが顔を歪め、点滴の繋がれた腕で無理やり身体を起こそうとする。
慎太郎は立ち上がり、彼女の肩を両手で力強く押さえつけた。
「動くな。点滴が外れる」
「離してっ……! 親父一人じゃ絶対間に合わない……取引先、切られちゃう……っ」
みどりは慎太郎の腕を振り払おうと暴れたが、その力は驚くほど弱く、子供の抵抗のようだった。点滴のチューブが大きく揺れ、金属のスタンドがカチャカチャと頼りない音を立てる。
「私がやんないと……寝てる場合じゃないんだよ! 湊のご飯代が……っ」
「いい加減にしろ!!」
病室に、爆発するような怒鳴り声が響いた。
みどりがビクッと肩を跳ねさせ、目を見開く。
慎太郎自身、自分がこんなにも大きな、感情剥き出しの音を出せることに驚いていた。だが、一度決壊した感情のダムは、もう二度と元には戻らなかった。
「自分が何を守ってるつもりだ!」
慎太郎は、みどりの肩を掴んだまま、顔を近づけて怒鳴った。
「借金を返せばいいのか! 取引先を守ればそれでいいのか! お前が死んだら、誰が湊を抱きしめるんだ!!」
「……っ」
「母親がいなくなった世界で、あいつが笑って生きていけると本気で思ってるのか! 自分が壊れて消えることが、残された人間のためになるなんて、そんな甘ったれた勘違いをするな!!」
みどりの大きな瞳から、ぽろりと大粒の涙がこぼれ落ちた。
いつも強がって、決して人に弱みを見せなかった彼女が、子供のように顔をくしゃくしゃに歪める。
「……っ、じゃあどうすればいいのさ!」
みどりが叫び返し、慎太郎の胸倉を弱々しく掴んだ。
「私だって……どうすればいいかわかんないよ! 毎日怖いよ……っ。明日、工場がなくなったらどうしようって……湊に、何も買ってやれなくなったらどうしようって……っ」
嗚咽が混じり、言葉が途切れる。彼女は慎太郎の胸に顔を押し付け、声を上げて泣きじゃくった。
「誰も……誰も助けてくれないんだから……私が、やるしかないじゃんか……っ」
慎太郎は奥歯を強く噛み締め、彼女の背中に腕を回した。折れてしまいそうなほど細い背中が、呼吸のたびに激しく上下している。
窓の外から、遠くを走る車の音が微かに聞こえてくる。病室の中には、18歳の少女が堰を切ったように流す涙の音だけが、どうしようもない現実の重さを持って響いていた。
慎太郎は、彼女の震える背中を手のひらで包み込むように撫でた。
「俺がいる」
とだけ短く、絶対に揺るがない声で告げた。
慎太郎は、胸で泣きじゃくるみどりの小さな身体を、ただ強く抱きしめ続けた。




