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金曜20時、高架下にて待ち合わせ。〜元ヤン幼馴染は18歳の母〜  作者: 伊達ジン


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第34話 お節介な大人たち

 あの日から六日が過ぎた、土曜日の午後。


 使い込まれた古い木製のまな板の上で、包丁が等間隔の軽快な音を立てている。

 実家の台所には、開け放たれた小窓から初夏の生温かい風が入り込んでいた。慎太郎は袖を捲り上げたリネンシャツ姿で、無心で食材と向き合っていた。


 ボウルの中には、あらかじめ冷水に放ってシャキッとさせたグリーンリーフとルッコラがたっぷりと入っている。そこに、鮮やかな赤と黄色のパプリカの薄切り、水にさらして辛みを抜いた紫玉ねぎ、半分にカットした艶やかなミニトマトを加える。さらに、ピーラーで薄くリボン状に削ったきゅうり、硬めに塩茹でしたブロッコリーとスナップエンドウ、そして種抜きのブラックオリーブを散らす。これでちょうど十種類。


 よく冷やしたガラスの大きな器に色鮮やかな野菜をふんわりと盛り付け、最後に薄切りのイタリアン・サラミを何枚も重ねて乗せる。自家製のドレッシングは、上質なエキストラバージン・オリーブオイルに白ワインビネガー、海塩、粗挽きの黒胡椒を乳化するまでしっかりと混ぜ合わせただけのシンプルなものだ。


 サラダを冷蔵庫で休ませている間に、隣のコンロではミートソースの仕上げが佳境を迎えていた。

 手軽なパスタとはいえ、慎太郎の調理工程に妥協はない。まず、玉ねぎ、人参、セロリを極限まで細かい微塵切りにし、オリーブオイルで水分が飛ぶまでじっくりと炒め、ソフリットを作る。野菜の甘みを限界まで引き出したところで、別のフライパンで焦げ目がつくほど強火で焼き付けた合い挽き肉を投入する。肉汁がこびりついたフライパンには少量の赤ワインを注ぎ、旨味をこそぎ落としてから鍋に合流させる。

 ホールトマトを手で潰しながら加え、ローリエを一枚。隠し味に少量の醤油を垂らし、弱火でコトコトと煮込んで水分を飛ばしていく。台所全体に、トマトの酸味と肉の濃厚な脂、そしてハーブの香りが複雑に絡み合った、洋食屋のような匂いが充満していた。


 ふと、背後の居間から、不規則な音が聞こえてきた。


 タタタタタタッ、ターン。

 高速で叩かれるキーボードの鋭いタイピング音。


 それと交差するように、ふんふんと機嫌の良さそうな鼻歌と、画用紙の上を色鉛筆が滑るシュッシュッという軽やかな摩擦音が響いている。


 慎太郎は味見用の小皿に取ったソースの塩気を確かめながら、短く息を吐いた。


 居間のちゃぶ台を占領しているのは、岩崎瑞穂とカルメン・ガルシアだった。


 数時間前、突然実家に押しかけてきたこの二人は、慎太郎の部屋の机に広げられていた書類の束を目ざとく見つけた。それは、みどりの父親の工場である『松井製作所』の過去数年分の財務データと、主要取引先との契約内容を記したコピーだった。

 倒産の危機に直面し、一人で全てを抱え込もうとするみどりを前にして、ただ手をこまねいているわけにはいかなかった。日曜日に過労で倒れたみどりを休ませたあの日の夕方、慎太郎は工場の古参職人であるゲンさんに頭を下げ、機密にあたる書類の束を密かにコピーさせてもらったのだ。よそ者の、しかも休職中の男の勝手な真似だと門前払いされる覚悟だったが、油まみれの分厚い手で図面を引いていたゲンさんは、ただ一言「お嬢を、助けてやってくれ」と深く頭を下げてくれた。


 その重い事実が詰まった書類を、瑞穂は「貸してください」と有無を言わさずに奪い取り、自分のノートパソコンを開いた。カルメンも「彼らが何を作っているか見せて」と工場のパンフレットを手に取り、勝手にスケッチブックを広げ始めたのだ。


 沸騰したたっぷりの湯に塩を加え、一・六ミリのスパゲッティを扇状に広げて入れる。タイマーを規定時間より一分短くセットし、慎太郎は居間へと足を向けた。


「武田さん。このB社からの受注案件ですが、完全に切るべきです」


 画面から目を離さず、瑞穂が淡々と言った。彼女の膝の上にはタイトなスカートが上品に収まり、背筋はピンと伸びている。


「材料費の高騰を完全に下請けに丸投げしています。これ、やればやるほど赤字が膨らむ悪魔の契約ですよ。どうしてこんな条件で飲み続けていたんですか」

「……以前はまともな単価だったらしいが、数年前に担当者が変わってから押し切られたと聞いた」

「典型的な下請けいじめですね。それに、借入金の金利も地銀の言い値のままです。無駄な経費や赤字案件の洗い出しは終わりました。エクセルにまとめておきましたよ」


 瑞穂はそう言って、画面上の無駄のないリストを指し示した。東京の第一線で何十億という数字を動かしてきた彼女の指先は、迷いなく最後のエンターキーを叩いた。


「ここから先の再建スキームを組むのは、武田さんの仕事です」

「ミズホの数字遊びは退屈ね」


 畳の上に寝転がり、足をパタパタとさせながらスケッチブックに向かっていたカルメンが、顔を上げて笑った。


「無駄を削っても、新しいものが生まれなきゃ人は死んだままよ。問題は、彼女たちが削っている鉄を、どうやって生き返らせるかじゃない?」

「生き返らせる?」

「そう。タケダ、彼女の工場の技術は素晴らしいわ。金属の削り出しの精度も、溶接の無骨さも。でも、作っているのが誰の目にも触れない機械の内部パーツだけなんて、もったいない」


 カルメンが立ち上がり、スケッチブックを慎太郎の目の前に突きつけた。


 そこに描かれていたのは、金属の質感を活かした、モダンなインテリア雑貨のデザインだった。

 旋盤で削り出された美しい波紋のような模様を持つ一輪挿し。幾何学的に切り出された金属板を組み合わせた、間接照明のランプシェード。インダストリアルでありながら、どこか温かみを感じさせる洗練されたデザインが、色鉛筆の鮮やかなタッチでいくつも描かれている。


「ただの鉄の塊が、光や花と組み合わさることで芸術になるの。最近はこういうインダストリアルデザインがヨーロッパでも高く売れるわ。彼女の技術があれば、絶対に形にできる」

「BtoC向けのオリジナルプロダクトの開発ですか……」


 瑞穂が手を止め、カルメンのスケッチを興味深そうに覗き込んだ。


「悪くありませんね。利益率も格段に跳ね上がりますし、クラウドファンディングを使えば初期費用を抑えつつテストマーケティングが可能です。プレスリリースの打ち方次第では、十分な資金調達が見込めます」


 つい先日までバチバチと火花を散らしていた二人が、まるで長年組んできたプロジェクトチームのように、少女の工場を救うためのパーツを次々とテーブルに並べていく。


 慎太郎は、二人の顔を交互に見つめた。


「……お前たちには、関係のないことだぞ」


 慎太郎が低く言うと、瑞穂はパタンとノートパソコンを閉じ、大きな瞳で慎太郎を真っ直ぐに見据えた。


「関係大有りです。武田さんがこんな地方の町工場のことで足踏みして、無駄に心をすり減らしているなんて、私の計画に支障が出ます。さっさと片付けて、早く東京に戻る準備をしてもらわないと困るんです」


 憎まれ口を叩きながらも、その声には、かつて東京で部下として共に戦っていた頃の、揺るぎない信頼が滲んでいた。


「私は、彼女の目が好きなだけよ」


 カルメンは色鉛筆を箱にしまいながら、琥珀色の瞳を細めた。


「あの油まみれの作業着の中で、誰にも頼らずに立っている彼女の瞳。すごく強くて、綺麗だった。あんな美しいものが、つまらないお金のことで濁ってしまうのは、絶対に許せないの」


 ピピピピピ。

 台所から、パスタの茹で上がりを知らせるタイマーの音が鳴った。


「飯にするぞ。机の上を片付けてくれ」


 慎太郎が声をかけると、二人は素直にちゃぶ台の上を片付け始めた。


 茹で上がったパスタをフライパンに移し、少量の茹で汁とともにミートソースに絡める。火を止め、エキストラバージン・オリーブオイルをひと回しして乳化させ、パルミジャーノ・レッジャーノをたっぷりと削りかける。

 白い大きな平皿に高さを出して盛り付け、彩りにパセリを散らす。冷蔵庫から取り出した十種の野菜のサラダと共に、ちゃぶ台へと運んだ。


「うわぁ……」


 瑞穂が目を丸くし、小さく歓声を上げた。


「これ、本当に武田さんが作ったんですか? 丸の内のイタリアンランチで出てきてもおかしくないレベルですよ……」

「ボーノ! サラミの塩気と野菜のバランスが完璧ね。タケダ、あなた明日からシェフになれるわ!」


 フォークにパスタを巻きつけ、熱々のソースを口に運んだ二人の顔から、先ほどまでの鋭い仕事人の表情が消え、年相応の無邪気な笑顔がこぼれる。


 慎太郎は自分の分のパスタを静かに咀嚼しながら、目の前の二人を見つめた。

 彼女たちのお節介は、ひどく強引で、乱暴だ。だが、慎太郎の胸の奥には、確かな温かさが広がっていた。


 食後、慎太郎は湯を沸かし、コーヒー豆を挽いた。

 ドリッパーに粉をセットし、細口のポットから糸のように湯を落とす。粉がふわりとドーム状に膨らみ、深く苦い香りが居間に満ちていく。マグカップに注がれた琥珀色の液体をテーブルに置くと、瑞穂とカルメンは満足そうに息を吐き、カップを両手で包み込んだ。


「武田さん」


 瑞穂が、プリントアウトした数十枚の分析資料を、クリアファイルに入れて慎太郎の前に差し出した。その上には、カルメンが描いたデザイン画のコピーが乗せられている。


「あとは、武田さんの仕事です」


 瑞穂の目は、もう部下のものではなく、かつての上司に最大の期待を寄せる鋭い光を放っていた。


「私たちはあくまで外野です。でも、武田さんは違いますよね。……あの子のところへ、行ってあげてください」


 カルメンもコーヒーを一口飲み、小さくウインクをした。


「最高の武器は用意したわ。あとは、あなたがどう使うかよ」


 慎太郎は無言でクリアファイルを受け取り、その重みを両手で確かめた。

 みどりが一人で抱え込んでいる暗闇。そこへ踏み込むことは、中途半端な覚悟では許されない。だが、今の自分の手には、彼女の現実を切り開くための確かな刃が握られている。


「……ああ」


 慎太郎はコーヒーの香りを深く吸い込み、低く、しかし確かな声で応えた。


「ありがとう。明日、行ってくる」


 窓の外では、夕暮れが近づく初夏の風が、庭の木々を力強く揺らしていた。

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