第33話 重なる過去
午後1時。薄い雲を突き抜けた初夏の強い日差しが、工場の色褪せたトタン屋根を容赦なく照らし付けていた。
油と鉄粉の匂いが染み付いた、四畳半ほどの小さな事務所。古い壁掛け時計の秒針が、カチカチと規則正しい音を刻んでいる。
年代物の黒い革張りソファの上で、みどりは小さな身体を丸くして眠っていた。彼女の肩には、慎太郎が着ていたネイビーのカーディガンがかけられている。
規則正しい寝息に合わせて、油汚れで黒ずんだ作業着が微かに上下する。目元には拭い切れない濃い隈が張り付き、唇は血の気が引いてひどく乾燥していた。眠っていてもなお、彼女の眉間には薄い皺が刻まれたままで、時折何かを堪えるように小さく身じろぎをする。
慎太郎は少し離れたパイプ椅子に腰掛け、コーヒーメーカーが立てるくぐもった音を聞きながら、その無防備な寝顔をただ静かに見つめていた。
数時間前の、彼女の悲痛な声がまだ鼓膜の裏側にへばりついている。
『私が、親父と湊を、守らなきゃいけないのに……っ』
涙と汗で顔をぐしゃぐしゃにしながら、彼女はそう叫んだ。誰の助けも求めず、工場の倒産危機も、数千万円という借金も、愛する息子の未来も、すべてを18歳の細い腕で抱え込もうとしていた。
その姿は、かつて東京で一人で全てを背負い込み、心を壊した自分自身と残酷なほどに重なっていた。
助けを求めることは無能の証明だと思い込み、一人で限界まで背負い続けた、あの時の自分と。
だが、慎太郎とみどりには決定的な違いがあった。
慎太郎には「逃げる場所」があった。田舎の実家というシェルターがあり、何も聞かずに受け入れてくれる父親がいた。会社というシステムから脱落しても、明日食べるものに困るわけでも、命まで取られるわけでもないという安全網が確かに存在していた。
しかし、彼女にはそれがない。
彼女が倒れれば、この工場は完全に終わり、長年働いてきた従業員は路頭に迷う。そして何より、あの小さな湊の明日を繋ぐものが消滅してしまう。背水の陣どころではない、逃げ場のない崖っぷちで、彼女はただ歯を食いしばって強風に耐えているのだ。
「……武田さん」
不意に事務所の引き戸が静かに開き、工場の年配の職人が顔を出した。手には汚れたウエスが握られている。ソファで眠るみどりと、見慣れない慎太郎の姿を見て、職人は少し驚いたように目を丸くした。
慎太郎は音を立てずに立ち上がり、短く会釈をした。
「少し、休ませてやってください。肉体的にも精神的にも、限界を超えています」
「あ……はい。わかりました。社長も奥で落ち込んじまってて、みどりちゃんには、本当に無理させてしまって……」
職人は申し訳なさそうに視線を落とし、深々と頭を下げた。
「私からは何も言えませんが……午後はいったん、機械を止めておきます」
「ありがとうございます」
それだけ告げると、慎太郎はみどりの寝顔をもう一度だけ確認し、静かに事務所を後にした。
★★★★★★★★★★★
実家に戻ると、時計の針は午後2時を回ろうとしていた。
玄関の引き戸を開け、靴を脱いで居間へ向かうと、部屋の隅に置かれた段ボール箱の奥から「ミャァ、ミャァ」という細いがはっきりとした鳴き声が聞こえてきた。
「わかってる。すぐ行く」
洗面所で手を洗い、箱の中を覗き込む。ムギが前足を箱の縁にかけて、必死に背伸びをしながら慎太郎の顔を見上げていた。
拾った嵐の夜の、あの骨と皮だけで消え入りそうだった姿はもうない。薄茶色のトラ模様は艶を帯びてふっくらと柔らかく、青灰色の瞳はしっかりと焦点が合っている。
「今日は出かけるぞ」
慎太郎は、数日前にホームセンターで買ってきた布製の小さなキャリーバッグを開いた。ムギは新しい空間に警戒したのか、慎太郎の手に小さな爪を立ててしがみつこうとする。
「痛い。……大丈夫だ、すぐ終わるから」
指に絡みつく小さな抵抗を優しく解き、バッグの底に敷いたタオルの上に座らせた。ファスナーを閉めると、中から不満げな鳴き声が漏れてくる。
徒歩で15分ほどの場所にある、地元の小さな動物病院。
アスファルトからの照り返しが厳しく、キャリーバッグを持つ手にじわりと汗が滲んだ。時折、バッグの中からモゾモゾと動く微かな振動が伝わってくる。その度に慎太郎は歩調を緩め、網目越しに声をかけた。
待合室には、小型犬を抱えた老婦人が一人いるだけだった。
「武田さーん、ムギちゃん。診察室へどうぞ」
看護師に呼ばれ、慎太郎はキャリーバッグを持って診察室に入った。
ステンレス製の冷たい診察台の上に置かれると、ムギは身を低くして小刻みに震え出し、バッグから出まいと底のタオルを必死に引っ掻いた。
「ほら、頑張れ」
慎太郎がそっと抱き上げると、ムギは慎太郎のシャツの胸元に顔を埋め、両前足で生地をギュッと掴んで離さなくなった。その小さな心臓が、トクトクと異常な速さで脈打っているのが胸越しに伝わってくる。
「ああ、すっかりお父さんにべったりですね」
初老の獣医師が微笑みながら、ムギの背中を撫でた。
「体重、測りますね……うん、400グラム。拾われた時が200グラムちょっとでしたから、順調に育ってますよ。目ヤニも完全に治まりましたね」
「そうですか」
「今日は1回目のワクチンを打ちます。少しチクッとしますから、しっかり押さえていてくださいね」
慎太郎が両手でムギの小さな体を包み込むように固定する。ムギは不安そうに鳴きながら、慎太郎の親指に顔を擦り付けた。
獣医師が首の後ろの柔らかい皮膚を少しつまみ、素早く注射針を刺した。
「ミャッ!」
ムギが短く悲鳴のような声を上げ、慎太郎の指にチクリと爪が食い込んだ。生き物としての純粋な生存本能の表れだった。
「はい、終わりましたよ。よく頑張りました」
診察台から下ろすと、ムギは逃げ込むようにキャリーバッグの中へ飛び込み、一番奥で丸くなってこちらをジッと見つめていた。
「武田さんが、夜中も起きてミルクをあげてくれたおかげですよ」
獣医師がカルテに書き込みながら言った。
「小さな命っていうのは、大人が思っている以上に脆いんです。ほんの少し目を離した隙に、簡単に手のひらからこぼれ落ちてしまう。ここまで育ったのは、あなたがこの子のために時間と体力を削って、責任を果たしたからです」
責任。
その言葉が、慎太郎の胸の奥に静かに、だが確かな重さを持って響いた。
自分はここ数ヶ月、その言葉の重圧に耐えかね、すべてを放り出してこの町へ逃げ込んだ。東京での重いタスクや部下たちへの責任を放棄し、実家の縁側でただ時間が過ぎるのを待っていた。
だが、みどりは違う。
彼女は、一回りも二回りも大きな命の重圧を、あの小さな肩に背負っている。湊という存在と、工場で働く人々の生活。誰にも助けを求めず、たった一人で。
そして彼女は、そんな切羽詰まった状況にありながらも、逃げ込んできた慎太郎を「逃げて正解だったんじゃないの」と笑って肯定し、隣に座ることを許してくれたのだ。
動物病院を出ると、午後の日差しはさらに強さを増していた。
実家への帰り道。
キャリーバッグの中で静かになったムギの微かな重みと息遣いを感じながら、慎太郎はアスファルトの上に落ちる自分の不格好な影を見つめていた。
腹の底が、奇妙なほどに冷たく、そして静かに澄み渡っているのを感じた。迷いや焦燥感は、もうどこにもない。
あの不格好な作業着を着た少女が、明日も笑って湊を抱きしめられるように。
彼女の小さな世界を守り抜くために、自分が持っているすべての力を使う。
慎太郎は足を止め、空を見上げた。
初夏の眩しい太陽が、ジリジリと肌を焼く。
その光を真っ向から見据え、慎太郎はゆっくりと、力強く歩き出した。




