第32話 一人で抱え込む少女
薄暗い実家の台所。午前5時。
スマートフォンのアラームが鳴る数分前に、慎太郎は自然と目を覚ましていた。
窓の向こうはまだ薄暗く、空気が夜の冷気を微かに保っている。部屋の隅に置かれた段ボール箱の奥から、「ミィ、ミィ」と微かな声が聞こえてきた。
慎太郎は手早く電気ケトルのスイッチを入れ、小さな哺乳瓶に粉ミルクをすりきりにして入れる。沸きたての湯を注いで軽く振り、シンクの流水に当てて人肌まで冷ました。手首の内側に数滴落として温度を確かめてから、段ボール箱の中を覗き込む。
古いタオルケットの中央で、小さな薄茶色の毛玉がもぞもぞと動いていた。慎太郎がそっと両手ですくい上げると、ムギはまだ半分も目が開いていない寝ぼけ眼のまま、小さなピンク色の鼻をスンスンと鳴らして乳の匂いを探し始めた。
あぐらをかいた膝の上にムギを乗せ、口元に哺乳瓶の乳首を運んでやる。ムギは小さな口を精一杯開けて吸い付いた。
ちゅうちゅうと必死に吸い込む音が、静かな台所に響く。小さな両の前足が、慎太郎の指先をリズミカルに、しかし力強く押し込んでくる。目を半分閉じたまま、喉をゴロゴロと鳴らし、ただ己の命を繋ぐためだけに、一心不乱にミルクを飲み下していく。
手のひらに伝わってくるのは、驚くほど熱く、直感的な命の重さだった。頼りなく小さな体だが、そこには生きようとする強烈な意志が詰まっている。
その鼓動を感じながら、慎太郎の脳裏には、昨日の午後、工場のトタン壁越しに聞いたみどりの悲鳴のような声が反響していた。
『私が働くから! 昼も夜も、旋盤回すから!』
18歳の少女が、家族を、従業員を、そして自分の愛する小さな命を守るために、たった一人で背負い込もうとしている重さ。
慎太郎は哺乳瓶をそっと外し、口の周りを湿らせたガーゼで拭ってやった。ムギは満足そうに小さくあくびをし、再びタオルケットの上で丸くなってあっという間に眠りに落ちた。
慎太郎は立ち上がり、洗面所で冷水を顔に浴びた。
鏡の中の自分の目は、冷たく、はっきりと冴え切っている。数日前まで胸の奥で燻っていた、何者かにならなければならないという焦燥感は、今はもう微塵もなかった。
★★★★★★★★★★★
午前10時。
初夏の容赦ない日差しが、色褪せたトタン屋根を暴力的に焼き付けていた。
日曜日で周囲の事業所が静まり返る中、松井の町工場の中だけは、すでに息が詰まるほどの熱気がこもり、金属を削る甲高い研磨音が鳴り響いていた。焦げた切削油の匂いと、鉄粉の混ざった空気が粘り気を帯びて漂っている。壁際に置かれた古い扇風機が首を振るたびに、生温かい風が重くまとわりついてきた。
みどりは油で黒ずんだ保護メガネの奥で、充血した目を痛そうにしばたたかせた。瞬きをするたびに、視界の端がぐらりと歪む。
昨夜から、一睡もしていなかった。
父親は朝早くから、親しい同業の町工場や、昔から付き合いのある知人のツテを当たって、なんとか急ぎの仕事を回してもらえないかと頭を下げに回っている。日曜日に動いたところでどうにかなる保証はどこにもなかったが、じっとしていることなどできないのだろう。
広い工場に残っているのは、みどりと、奥の作業場で静かに部品のバリ取りをしている古参の職人のゲンさんだけだった。
「みどりちゃん」
コンクリートの床を踏む足音とともに、背後からゲンさんが心配そうに声をかけてきた。手には古いノギスが握られている。
「少し機械止めて、お茶にしろ。顔色悪いぞ。おやっさんが戻ってきたら、俺が怒られちまう」
「平気。このロット、午前中に終わらせないと間に合わないから」
みどりは顔も向けず、無理に声のトーンを上げて旋盤のハンドルを握り直した。
「でもよ、日曜だぞ。そんなに根詰めなくたって……」
「ゲンさんはあっちの検品進めてて。私、まだまだやれるから」
取り付く島もないみどりの態度に、ゲンさんは困ったように首を捻り、重い足取りで持ち場に戻っていった。
みどりは奥歯を強く噛み締めた。
大手取引先の撤退。それは、この小さな町工場にとって死刑宣告に等しかった。
昨日の午後、父親は「母さんの実家に行け」と言った。工場を畳み、借金を背負い、家族がバラバラになることを覚悟している顔だった。
ふざけるな、と思った。
みどりにとって、ここは父親が人生をかけて守ってきた場所であり、自分と湊の生活のすべてだ。ここで旋盤を回して鉄を削り続けていれば、湊にミルクを飲ませ、あたたかい布団で寝かせることができる。
(もっと数を作ればいい。単価が安いなら、夜通し数を作ればいいだけだ)
視野が極端に狭くなっていることは、自分でもわかっていた。だが、そうやって体を動かし、うるさい機械音で思考を塗りつぶしていないと、恐ろしい現実に今すぐ押し潰されそうだった。
分厚い安全靴の中で、足の指先が痺れている。何十時間も立ち続けているふくらはぎは石のように硬く張り詰め、油の染み込んだ軍手越しの指先も、微かな震えが止まらない。
新しい金属棒をチャックに固定し、刃を当てようと手を伸ばした。
焦りから、ハンドルの送りがほんの少しだけ強くなる。本来ならスルスルとカール状になって出てくるはずの削り屑が、ブツブツと不格好に千切れ、キーッという不快な異音が鳴った。
それでもみどりは、強引に刃を押し込もうとした。
その時。
背後から伸びてきた腕が、旋盤の主電源スイッチを容赦なく叩き切った。
ヒュウゥゥ……という音を立てて、モーターの回転が急速に落ちていく。
突然の沈黙に、みどりは弾かれたように振り返った。
「何す……」
怒鳴り声を上げようとしたみどりの言葉が、途中で切れた。
そこに立っていたのは、キャップを目深に被り、無精髭をうっすらと生やした慎太郎だった。彼の手には、水滴のついたスポーツドリンクのペットボトルが二本握られている。
「しん、ちゃん……?」
「休憩だ。外の風に当たれ」
慎太郎の声は低く、ひどく静かだった。
「ちょっと、勝手なことしないでよ! 今、手離せないって言ってるでしょ!」
みどりは慌てて電源を入れ直そうとしたが、慎太郎の大きな手がその前にスイッチのパネルを完全に覆い隠した。
「邪魔しないで! これ、急ぎの仕事なの!」
「刃の送りが一定じゃなかった。あのまま続けていれば、数分以内にバイトが欠けるか、お前の指が持っていかれるかのどちらかだ」
感情を交えない、事実だけを端的に指摘する冷徹な声。
みどりはハッとして、自分の手元を見た。確かに、焦るあまりにハンドルの操作が雑になり、切削面に無理な力がかかった痕跡がはっきりと残っていた。
「……関係ないでしょ。しんちゃんには」
みどりは視線を逸らし、震える手で保護メガネを外した。
「帰ってよ。ここは、しんちゃんのいる場所じゃない」
「お前、昨日から何時間寝てない」
慎太郎はみどりの拒絶を意に介さず、一歩距離を詰めた。
彼女の目の下には濃い隈が張り付き、唇は血の気が引いてカサカサに乾いている。ダボついた作業着は汗で重く肌に張り付き、いつもは気の強い大きな瞳が、今は焦点が定まらずに危うく揺れていた。
「……平気だよ。昔、単車で夜通し走ってた時の方がキツかったし」
虚勢を張って笑おうとするが、口角がうまく上がっていない。
「嘘をつくな」
慎太郎はペットボトルのうち一本を、みどりの油まみれの手のひらに無理やり押し付けた。冷蔵庫から出されたばかりの冷たい感触に、みどりの肩がビクッと跳ねる。
「人間は機械じゃない。油も差さずに限界を超えて回し続ければ、必ず焼き切れる」
「焼き切れたっていいんだよ!」
みどりの声が、不意に工場の中に鋭く響き渡った。
奥で作業していたゲンさんが、驚いて顔を上げる。
みどりは冷たいペットボトルを両手で握りしめたまま、ギリッと唇を噛み、慎太郎を睨みつけた。
「私が止まったら、全部終わるんだよ……! 親父も、湊も、ゲンさんたちも、みんな路頭に迷うんだよ! 東京のエリートだったしんちゃんには、こんな底辺の生活なんてわかんないだろうけど!」
感情に任せた、八つ当たりのような言葉。
言い放った直後、みどりの顔にハッとしたような後悔の色が浮かんだ。慎太郎の傷をえぐるようなことを言ってしまったという自覚が、彼女の顔をさらに歪ませる。
だが、慎太郎の表情は一ミリも動かなかった。怒ることも、傷ついたような素振りを見せることもなかった。ただ、その深く静かな瞳で、ギリギリで立っている少女を真っ直ぐに見据えていた。
「ああ、俺は東京のエリートだった」
慎太郎は淡々と答えた。
「お前は強い。だが、スーパーマンじゃない」
慎太郎は静かに言い、みどりの頭を覆っていたタオルを軽く引っ張った。
「飲め。そして15分でいいから、座って目を閉じろ。それ以上逆らうなら、親父さんを電話で呼び戻して、強制的にこの工場のシャッターを閉めるぞ」
脅しではなく、本気で実行するという明確な意志がその目に宿っていた。
みどりは何か言い返そうと口を開いたが、喉の奥から出たのは、ヒッ、というかすれたしゃくり上げの音だった。
張り詰めていた糸が、ぷつりと切れた瞬間だった。
彼女はペットボトルを握りしめたまま、その場にがっくりと膝をついた。コンクリートの床に、膝当てが鈍い音を立てる。
「……どうすれば、いいのさ」
汗と油にまみれた頬を、大粒の涙が白い筋を作って落ちていく。
「私が、やらなきゃいけないのに……。私が、親父と湊を、守らなきゃいけないのに……っ」
誰にも見せなかった弱音が、堰を切ったようにこぼれ落ちる。
慎太郎は何も言わず、ただ彼女の隣にしゃがみ込んだ。
遠くで、バイパスを走る大型トラックの走行音が、くぐもって響いていた。




