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金曜20時、高架下にて待ち合わせ。〜元ヤン幼馴染は18歳の母〜  作者: 伊達ジン


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第31話 工場経営の危機

 初夏の強い日差しを遮るように張られた真っ白なパラソルの下で、グラスの氷がカランと涼しげな音を立てた。


 町外れから車で30分ほど走った高台にある、海を見下ろすフレンチレストランのテラス席。土曜日の午後とはいえ、客は慎太郎とマヤ・ヴァンスの二人だけだった。


「たまには私とデートしてくれない?」


 数時間前、実家の前に左ハンドルのクラシックカーで乗り付けてきたマヤの唐突な誘いに、今の慎太郎は断る理由を持っていなかった。美しい流線型のボディを持つその車は、静かな田舎町の風景にはひどく不釣り合いだったが、マヤがハンドルを握ると映画のワンシーンのように風景に馴染んだ。助手席に乗り込み、海沿いの緩やかなカーブを抜けてここまで来る間、彼女は多くを語らなかった。ただ、カーステレオから流れる古いジャズの音色と、開け放たれた窓から入り込む潮の香りが、慎太郎のささくれ立った神経を少しずつ解きほぐしてくれていた。


 テーブル越しに座るマヤは、つばの広いストローハットに、深いネイビーの上質なシルクのワンピースという出で立ちだった。彼女が少し動くたびに、潮風に乗って彼女特有の甘く深いアロマの香りがふわりと鼻をかすめる。眼下には太陽の光を反射して眩しく輝く海が広がり、遠くから聞こえる規則的な波の音だけが、二人の間の空間を満たしていた。


 マヤは細い指でシャンパングラスのステムを持ち上げ、静かに一口飲んだ。グラスの縁についた僅かな水滴が、陽光を受けてキラリと光る。彼女はグラスをテーブルに戻すと、真っ直ぐに慎太郎の目を見つめた。


「憑き物が、綺麗に落ちた顔をしているわね」


 彼女の濡れたような黒い瞳には、全てを見透かすような大人の余裕があった。穏やかな声の響きの中に、確かな労わりの色が混じっている。


「……わかるか」

「ええ。初めて私の家の庭先で会った時は、まだ自分が壊れた部品だと思い込んで、システムに戻らなきゃって焦っていたもの。あの時のあなたは、呼吸をするのも苦しそうだった」


 マヤは両肘をテーブルにつき、組んだ手の上にゆっくりと顎を乗せた。


「エレノアの誘い、断ったのね」

「ああ」


 慎太郎は短く答え、目の前のペリエのグラスに口をつけた。炭酸の冷たい刺激が喉を通り抜けていく。数日前までなら、氷の冷たささえも内臓を重くするだけだったが、今ははっきりと、心地よい刺激として身体に行き渡るのがわかる。


「何十億のファンドを動かすより、目の前の人間の日常を守りたい。……そう言ったら、彼女は少しだけ怒って、でも最後は呆れたように笑って帰っていったよ」

「そう。優秀なヘッドハンターを泣かせたわね」


 マヤはくすくすと笑い、それから少しだけ真剣な色を帯びた眼差しを向けた。


「でも、わかるわ。私も昔、ウォール街で何百億という数字を右から左へ動かしていたけれど、ある日突然、その数字がただの無機質な記号の羅列にしか見えなくなった。モニターの中で増減する桁数のために、巨大な歯車の一部として完璧に回ることに、自分の命の時間を削る価値を見出せなくなったの」


 マヤは視線を外し、眼下に広がる青い海へと向けた。日差しを反射してキラキラと輝く水面を、彼女はどこか遠い過去を懐かしむような、それでいて全く未練を感じさせない澄んだ目で眺めていた。潮風が彼女のハットのつばを揺らし、幾筋かこぼれた黒い髪が白い頬にかかる。


「降りるのには、勇気がいるわ。自分が今まで積み上げてきた有能さや、他人の期待、社会的な価値。それを一度全て手放すことになるから。世界から取り残されるような恐怖と戦うことになる。でも、あなたは自分の足で地面に立ち、自分の意思で『ここ』を選んだ」


 彼女は再び慎太郎に向き直り、艶やかな唇を綻ばせた。


「あなたが選んだのなら、それが正解よ。……よく決断したわね、シンタロウ」


 その言葉は、休職という事実に対して常に後ろめたさを抱えていた慎太郎の胸の奥に、確かな重さを持って染み込んでいった。誰かに評価されるためでも、期待に応えるためでもなく、自分が選んだ道を、この世界を知り尽くした女性が静かに肯定してくれた。


「感謝する。……あんたがいてくれて、少し救われた」

「あら、少しだけ?」


 マヤは悪戯っぽく目を細め、それから短く息を吐いた。


「いい男になったわね。……私が甘やかしてあげる隙は、もうなさそう」


 どこか寂しげに響いたその言葉に、慎太郎は返す言葉を見つけられなかった。ただ、目の前の美しい女性が自分に与えてくれた静かなモラトリアムの時間が、確かに終わりを告げたことだけは理解できた。海から吹き上がってきた風が、パラソルの白い布をバタバタと大きくはためかせた。


★★★★★★★★★★★


 夕方。マヤの車で駅前まで送ってもらい、彼女と別れた慎太郎は、西に傾きかけた太陽を背に受けながら歩いていた。


 昨日の夜、金曜日の20時。慎太郎はいつものように鳥寅へ向かったが、みどりは姿を見せなかった。

 紫煙と焦げた醤油の匂いが立ち込める店内で、空になった彼女の定位置を見つめながら、慎太郎は薄暗いカウンターで一人、ビールを飲んだ。喧騒の中で、自分の周りだけが奇妙に静まり返っているようだった。彼女が来なかった理由はわからない。湊の体調が優れなかったのか、工場の仕事が長引いたのか、あるいは何か別の事情があったのか。グラスについた水滴が滑り落ちるのを見つめながら、様々な憶測が頭を過った。だが、すっぽかされたという事実が、かえって慎太郎の中の「伝えたい」という意思を研ぎ澄ませていた。


 昨日言えなかった言葉が、喉の奥底で形を成し、今か今かと吐き出されるのを待っている。

 東京には戻らないこと。この町で、新しく生き直すつもりであること。

 だから今日こそ、彼女の目を見てはっきりと自分の口から伝えよう。


 慎太郎の足は、自然とみどりの実家である町工場の方向へと向かっていた。西日が街路樹の影を長く伸ばし、オレンジ色に染まったアスファルトの上を歩く。吹き抜ける風には、初夏特有の少し青臭い匂いが混じっていた。


 しかし、工場の敷地に近づいた時、慎太郎の足は不自然に止まった。


 いつもなら、土曜日の夕方であっても、甲高い研磨音と金属が焦げる匂いが周囲に立ち込めているはずだった。だが、今日は異様なほど静かだった。機械の駆動音も、ラジオの音も、パートの女性たちの話し声も聞こえない。

 色褪せたトタン屋根の工場。その入り口のシャッターは、なぜか半分だけ下ろされていた。


 慎太郎は訝しげに眉を寄せ、足音を殺してシャッターの隙間に近づいた。油の匂いに混じって、冷たい空気の塊が淀んでいるのがわかる。薄暗い工場の中から、重苦しい声が漏れ聞こえてきた。


「……今月末で取引を全て打ち切るというのは、どういうことですか。来月以降の部品の納入計画も、そちらの指示通りにラインを組んだばかりだ」


 みどりの父親の、低く押し殺したような声だった。


「急な話で申し訳ありません、松井社長」


 答えたのは、感情の起伏を完全に削ぎ落とした、事務的な若い男の声だった。


「親会社の経営方針が変わりまして。来期から、この規格の部品加工は全て海外の自社工場へ集約することになったんです。国内の下請け様との契約は、全て今月末をもって白紙に戻すよう指示が出ておりまして」

「白紙って……おたくの新しい規格に合わせるために、うちは去年の秋に銀行から借金して新しい旋盤を入れたばかりなんだぞ! それを今更、海外に切り替えるから終わりだなんて、そんな無茶苦茶な話が通るわけないだろう!」


 父親の怒声が響いた。だが、スーツを着た男の声は一切の動揺を見せなかった。分厚いマニュアルの向こう側から話しているような、血の通っていない冷ややかなトーンが続く。


「お気持ちはお察しします。ですが、これは決定事項でして。契約書にも、発注元の都合による契約解除の条項は記載されております。これまでのご尽力には感謝いたしますが、どうかご理解いただきたい」

「理解できるか! うちみたいな小さな工場が、おたくからの仕事だけでどれだけ回ってると思って……! これじゃあ首を括れって言われてるようなもんだぞ!」


 そこから先は、言葉にならなかった。

 パイプ椅子が乱暴に倒れる鈍い音と、スーツの男たちが淡々と書類を置いて帰っていく足音が聞こえた。彼らには、目の前で一つの家族の生活が崩れ落ちたことに対する感傷など一切ない。ただ、組織の決定を末端に伝達するだけの、完璧な歯車としての役割を果たしただけだ。


「失礼いたします」という定型句とともに、男たちの革靴の音が敷地の外へと消えていく。慎太郎は工場の壁に背中を預けたまま、息を潜めていた。背中越しに伝わるトタンの冷たさが、現実の厳しさを物語っているようだった。


 工場の中は、古い扇風機が首を振る音だけが空虚に響いていた。


「父ちゃん……」


 みどりの、ひどく掠れた声が聞こえた。


「……みどり」


 父親の声は、先ほどの怒りが嘘のように、すっかり老け込んでしまっていた。


「湊ば連れて、少しの間、母さんの実家にでも行け」

「……何言ってんの」

「ここはもう、ダメかもしれん。……銀行への返済も、来月からどうにもならん」

「ダメって……父ちゃん、簡単に言わないでよ!」


 みどりの声が、悲鳴のように跳ね上がった。


「私が働くから! 昼も夜も、旋盤回すから! 他の下請けの仕事、回してもらえるように私が頭下げて回るから!」

「バカ言え! お前一人が寝ずに働いてどうにかなるような額じゃねえんだ! 借金だけじゃない、材料費も電気代も、パートのおばちゃんたちの給料も払えなくなる! お前たちの人生まで道連れにできるか!」

「じゃあどうすんのさ! ここがなくなったら……私と湊、どうやって生きていくの! 父ちゃんと母さんが残したこの工場を、簡単に諦めないでよ!」


 どん、と、みどりが作業台を強く叩く音が響いた。金属の鈍い反響音が、工場の高い天井に吸い込まれて消える。


 慎太郎は目を閉じ、強く拳を握りしめた。


 爪が手のひらに食い込む。

 シャッターの向こう側で、18歳の少女が今、人生の底が抜けるような絶望の淵に立たされている。


 頭の中で、かつて東京のオフィスで数百億のプロジェクトを回していた「武田慎太郎」の回路が、急速に音を立てて接続されていくのを感じた。

 取引先への依存度。債務の額。工場の月間ランニングコスト。契約解除の法的な妥当性。新たな販路開拓の可能性。

 感情を排した冷徹なアルゴリズムが、自動的に問題解決へのフローチャートを弾き出し始める。何百というケーススタディ、融資の借り換え、助成金の活用、下請けネットワークの再構築。無意識のうちに脳が回転し、膨大な情報から最適解を抽出しようとしている。ここ数ヶ月、封印してきたあの研ぎ澄まされた思考が、かつてないほどの精度で稼働し始めていた。


 だが、それを実行に移すには、今の自分はただの「無職の男」でしかなかった。何の権限も、立場もない。工場に立ち入る口実すら持ち合わせていない。


『私が働くから!』


 みどりのその切実な叫びが、慎太郎の鼓膜にこびりついて離れない。


 圧倒的な現実の重圧の前に、たった一人で全てを背負い込もうとするみどりの姿。あの時の自分には、手を差し伸べてくれる人間はいなかった。誰にも頼れず、頼る方法すらわからず、ただ一人で暗闇の底へと沈んでいった。だが今は違う。

 自分はもう、暗闇の中でうずくまっているだけの人間ではない。マヤが、エレノアが、瑞穂が、そして何よりみどりが、自分を再び地上へと引き上げてくれたのだから。


 慎太郎はゆっくりと目を開け、薄暗い工場のシャッターを見つめた。

 腹の底で、長く眠っていた強烈な熱が、黒い炎となって静かに燃え上がり始めていた。

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