第30話 エレノアへの返答
胸の奥で早鐘のように鳴る心臓の音を聞きながら、慎太郎は駅前から町外れへと続く道を駆け抜けた。
肺が焼けつくように熱い。シャツの背中は汗で完全に肌に張り付いている。すれ違う自転車や下校中の小学生が不思議そうに振り返ったが、他人の目などどうでもよかった。金曜日の午後。西に傾きかけた初夏の太陽が、アスファルトの上に慎太郎の不格好な影を濃く落としている。ただ、一刻も早く自分の目で確かめたかった。
やがて、住宅と小さな事業所が混在するエリアの一角に、色褪せたトタン屋根の建物が見えてきた。
入り口のシャッターの隙間から、甲高い研磨音と、金属が焦げる特有の匂いが漏れ出ている。慎太郎は乱れた呼吸を整えようと深く息を吸い込み、そっと中を覗き込んだ。
薄暗い工場の中には、古い扇風機が鈍い音を立てて回っていた。
みどりは保護メガネをかけ、汗だくになりながら旋盤と向き合っていた。男物の不格好な作業着に包まれた背中は、ひどく小さく見える。だが、コンクリートの床を踏みしめる油まみれの安全靴は、1ミリたりともブレることはなかった。火花が散るたびに、彼女の真剣な横顔が赤く照らし出される。
慎太郎は声をかけなかった。
ただ、彼女がそこで息をして、決して逃げ出さずに自分の戦場に立ち続けているという事実を、網膜の奥に焼き付けた。それだけで十分だった。胸の底でくすぶっていた得体の知れない焦燥感は、嘘のように消え去っていた。
★★★★★★★★★★★
実家に戻ると、見慣れない黒塗りのハイヤーが古い門柱の前に横付けされていた。
運転手が怪訝な顔でこちらを見ているのを横目に、庭に足を踏み入れる。飛び石の周りの伸び放題の雑草が、初夏の風に揺れていた。縁側に腰を下ろしていた長身の女性が、慎太郎の姿を認めてゆっくりと立ち上がった。
「ずいぶん走ったような顔をしているわね」
エレノア・ウォーカーは、洗練されたタイトなサマースーツ姿だった。彼女がそこにいるだけで、周囲の古びた日本家屋や手入れの行き届いていない庭の風景が、完全に別の空間に書き換えられてしまったかのような錯覚を覚える。
「……何の用だ。返事はまだと言ったはずだが」
「タイムリミットが近いのよ。それに、どうしてもあなたと直接話しておきたくて」
エレノアは縁側に置いてあった銀色の保冷バッグを、ピンヒールの先で軽く叩いた。
「シンガポールからの直行便よ。生きた上海蟹。鮮度が落ちる前に、あなたに調理してもらおうと思って」
「……俺はシェフじゃない」
「でも、私が知る限り最高のプロジェクトマネージャーよ。与えられた素材が何であれ、完璧に処理できるはずでしょう?」
挑発するような、確信に満ちた笑みだった。
慎太郎は短く息を吐き、無言で保冷バッグを手に取って台所へ向かった。背後からついてきたエレノアが、勝手知ったる様子で食卓のパイプ椅子に腰を下ろし、長い脚を組む。
保冷バッグを開けると、おが屑の中に青黒い甲羅を持った上海蟹が3杯、静かに泡を吹いていた。特有の川の泥と藻の匂いが、台所の空気に混ざる。
慎太郎はまず、中華鍋にたっぷりの湯を沸かし始めた。
流水とタワシを使い、蟹の甲羅や脚の関節に入り込んだ汚れを丁寧に、かつ素早く洗い落としていく。生きている蟹が暴れてハサミを振り上げるが、慎太郎は躊躇することなくその甲羅を押さえつけ、的確に処理していった。蒸し器の下段に張った湯が沸騰したのを確認すると、薄切りの生姜とネギの青い部分を無造作に放り込み、父親が買っていた安い料理酒を少し多めに注いだ。これで蟹特有の泥臭さを完全に消し飛ばせる。
貴重な蟹味噌が熱で流れ出さないよう、蟹は腹を上にして蒸し器に並べた。蓋をして強火にかける。タイマーはきっちり15分にセットした。
蟹を蒸している間に、主食となるものを用意しなければならない。だが、今の冷蔵庫にあるのは、スーパーの特売品のミックス野菜、使いかけのベーコンブロック、そして3食入りの安価な焼きそば麺だけだった。
慎太郎はためらうことなく、まな板にベーコンを乗せた。
拍子木切りにしたベーコンを、まだ冷たい状態のフライパンに並べてから極弱火にかける。チリチリという静かな音が響き始める。焦がさないようにじっくりと時間をかけて熱を入れ、豚の脂を極限まで引き出していく。
その間に、別のコンロの火をつけ、焼きそばの麺の袋に少しだけ穴を開けて電子レンジで30秒ほど加熱した。こうすることで麺が内部からほぐれやすくなり、炒める時間を短縮しつつ食感を保つことができる。
「手際がいいのね。無駄な動きが一つもないわ」
背後から、エレノアが興味深そうに声をかけた。
慎太郎は振り返らず、フライパンの中でベーコンから十分な脂が出たのを見計らい、火力を一気に最大まで引き上げた。
ミックス野菜を投入し、中華鍋を煽る。キャベツ、モヤシ、人参。安い市販品だが、高温の豚の脂で一気にコーティングすることで、水分を逃がさずシャキッとした食感を残す。
ほんの数秒煽っただけで、温めておいた麺を投入。あえて水を差さず、酒を少しまわしかけて蒸気を立たせる。粉末ソースは使わず、鶏ガラスープの素、オイスターソース、少量の醤油を鍋肌から回し入れて焦がし、香りを立たせた。最後に黒胡椒を強めに振り、全体を均一に絡め合わせる。
皿に盛りつけると、油が爆ぜる音とともに、オイスターソースと豚の脂の濃厚な香りが立ち上った。
同時に、蒸し器のタイマーが鳴る。
蓋を開けると、もうもうと立ち上る白い湯気の中から、鮮やかな朱色に染まった上海蟹が姿を現した。
★★★★★★★★★★★
慎太郎は黒酢に千切りの生姜を落としたタレを作り、上海蟹と焼きそばをちゃぶ台に並べた。
「……ジャンクな麺料理に、最高級の上海蟹。奇妙な組み合わせね」
「冷蔵庫にこれしかなかった。文句があるなら残して構わない」
「いただくわ」
エレノアは一切躊躇することなく、箸を取った。
まずは焼きそばを一口食べる。彼女の細い眉が、ピクリと動いた。
ゆっくりと咀嚼し、飲み込んだ後、彼女は箸を置き、小さく息を吐いた。
「……見事ね」
たった一言だった。長々とした感想など必要なかった。チープな食材が、計算し尽くされた火入れと調味によって完璧な一皿に仕上がっていることを、彼女の洗練された味覚は一瞬で理解していた。
エレノアは器用に蟹の甲羅を外し、黄金色の濃厚な蟹味噌をスプーンですくって口に運んだ。黒酢と生姜のタレが、蟹の甘みを極限まで引き出している。満足げに目を細め、彼女は静かに食事を続けた。
換気扇の低い唸り声と、時計の秒針の音だけが響く中、2人はしばらく無言で食事を進めた。
やがて、エレノアがナプキンで口元を拭い、真っ直ぐに慎太郎を見据えた。
「で? 結論は出たかしら。私のファンドに来てくれるんでしょうね」
彼女の瞳には、圧倒的な自信と、慎太郎への絶対的な信頼があった。かつての慎太郎なら、その期待に応えることこそが自分の存在証明だと信じて疑わなかっただろう。
慎太郎は箸を置き、お茶の入った湯呑みを両手で包み込んだ。
頭の芯は驚くほどクリアで、迷いの入り込む隙は1ミリもなかった。
「行かない」
静かに、だが一切の濁りがない声だった。
エレノアの表情から、わずかに余裕が消えた。
「……なぜ? 条件に不満があるなら……」
「そうじゃない。お前の用意してくれた舞台は、俺にとって完璧すぎるほどだ。感謝している」
慎太郎は湯呑みから手を離し、エレノアのミステリアスな瞳を見返した。
「俺は、世界を動かすような数百億のファンドや、社会の大きな歯車の一部として回ることに、もう価値を見出せないんだ」
「価値を見出せない? あなたほどの才能が、こんな地方都市で腐っていくというの? それは世界の損失よ」
「才能なんて大層なものじゃない。俺はただ、与えられたタスクをこなすためのアルゴリズムを回していただけだ」
慎太郎の脳裏に、数時間前にシャッターの隙間から見たみどりの姿が蘇る。初夏の熱気がこもる薄暗い作業場で、彼女は不格好な作業着に身を包み、油にまみれながら懸命に鉄を削っていた。数十円の単価を積み重ねるために汗を流し、その泥臭い日常の先に、彼女の愛する小さな湊の命を繋いでいる。
「俺の世界は、もっと小さくて温かい場所でいい」
慎太郎の口から出た言葉は、自分自身でも驚くほどすんなりと空気に馴染んだ。
「何十億の数字を動かすよりも、目の前にいる人間が今日一日を笑って過ごせるようにすること。不恰好に転んだ時に、手を差し伸べられる距離にいること。……俺は、その小さな世界を守るために、自分が持っているものを使いたい。評価も、名声も、莫大な報酬もいらない。自分の両手が届く範囲にある、小さくて脆いものを、ただ確実に守り抜く。それが今の俺にとって、何よりも価値のあるプロジェクトなんだ」
エレノアは何も言わず、慎太郎の目をじっと見つめ返した。その瞳がわずかに細められ、何かを探るように視線が動く。数秒の重い沈黙が、ちゃぶ台の上に落ちた。
やがて、彼女は深くため息をつき、長い脚を組み替えた。
「……本当に、もったいない男ね」
彼女の言葉には、明確な諦めの色が混じっていた。投資家として、勝算のない交渉にこれ以上時間を割くつもりはないのだろう。だが同時に、慎太郎の決断を尊重するような、微かな温かさもあった。
「でも、忘れないで。私は今でも、あなたが世界で一番優秀なプロジェクトマネージャーだと思っているわ」
「過大評価だ」
「私に審美眼がないと言うつもり? 失礼ね」
エレノアはふっと笑い、立ち上がった。
「ごちそうさま。完璧な焼きそばと蟹だったわ。その代わりと言っては何だけど、あなたをこの町に置いていく」
彼女はバッグを肩にかけ、振り返ることなく玄関へと向かった。
慎太郎はその後ろ姿を、無言で見送った。
黒塗りのハイヤーがエンジン音を立てて遠ざかっていく。
台所には、オイスターソースと蟹の微かな香りが残っていた。慎太郎は残った焼きそばの皿をシンクに下げながら、壁掛け時計を見上げた。
時刻は午後6時を回っていた。
今日は金曜日だ。
あと少しすれば、高架下のあの小さな居酒屋に赤提灯が灯り、油まみれの作業着を着た彼女がやって来るはずだ。今夜は、ただ無言でビールを注がれるだけじゃない。自分から彼女に、伝えなければならないことがあった。
慎太郎は大きく息を吸い込み、首筋に張り付いた汗を洗い流すために、洗面所へと向かった。シャワーの蛇口を捻ると、冷たい水が一気に全身の熱を奪っていく。
窓の外からは、夕暮れの空気を震わせるように、遠くのローカル線が鉄橋を渡る轟音が聞こえてきた。それは、数時間後に自分が行くべき場所へと真っ直ぐに繋がっている音だった。




