第29話 マヤからの卒業
初夏の強い日差しが、アスファルトの上に濃い影を落としていた。
金曜日の午後1時。慎太郎は、町外れの住宅街へと続く緩やかな坂道を歩いていた。
道の両脇に並ぶブロック塀からは、手入れの行き届いた植栽が顔を出し、青々とした葉を揺らしている。湿気を帯びた生温かい風が、首筋を通り抜けていく。
数週間前なら、この時間帯に外を歩くことなど考えられなかった。太陽の光は暴力的に網膜を焼き、すれ違う人間の視線は見えない刃のように感じられていた。遠くから聞こえる車の走行音さえ、自分の神経を逆撫でするノイズでしかなかった。
だが今は、黒いキャップのつばを少し上げ、正面を向いて歩くことができている。スニーカーの靴底が、硬いアスファルトを捉える感触がはっきりとわかる。足の裏から伝わる地面の反発を確かめるように、1歩1歩、踏みしめて歩いていた。
頭の芯を重く覆っていた、あの分厚い膜のようなものはもうない。
昨日の夕方。薄暗い神社の境内で、篤子がファインダー越しに切り取った写真を見た。そこに写っていた自分の姿を見た瞬間、胸の奥で長く燻っていた何かが、音を立てて崩れ落ちた。
そして気がつけば、写真を手にしたまま、みどりのいる町工場へ向かって無我夢中で走り出していた。肺が焼けつくような苦しさも、汗がシャツに張り付く不快感も気にならなかった。ただ、自分の足で走り、たどり着きたい場所があった。
あの時の荒い呼吸の余韻が、一晩明けた今も、確かな熱となって身体の奥底に残っている。
坂を登りきると、立派な木製の門柱が見えてきた。
マヤ・ヴァンスが買い取ったという、古い日本家屋。
開け放たれた門をくぐると、外の喧騒が嘘のように静まり返った。手入れの行き届いた青々とした苔が、飛び石の周りに敷き詰められている。庭の隅に植えられた紫陽花の葉が、初夏の日差しを弾いて瑞々しく光っていた。
縁側には、深いスリットの入った薄手のシルクのワンピースを着たマヤが座っていた。
彼女は片手に分厚いクリスタルグラスを持ち、もう片方の手で洋書のページをめくっている。グラスの中には、琥珀色の液体と丸い氷が浮かび、時折カランと涼しげな音を立てていた。
慎太郎の足音に気づくと、彼女は本を伏せ、ゆっくりと顔を上げた。
深く、濡れたような黒い瞳。周囲の空気を一瞬で自分の色に染め上げてしまうような、圧倒的な大人の余裕。
「あら」
マヤはグラスを縁側に置き、滑らかな動作で立ち上がった。
「いらっしゃい。今日は、少し足音が違うわね」
彼女の口元に、いつもの余裕のある微笑みが浮かぶ。近づいてくるマヤから、上質なアロマオイルのような深く甘い香りが漂ってきた。
慎太郎は庭の飛び石の上に立ったまま、短く息を吐いた。
「マヤ。……ここに来るのは、今日で最後にする」
慎太郎の言葉に、マヤの足が止まった。
彼女は驚いたような素振りは見せなかった。ただ、少しだけ目を細め、慎太郎の顔を頭の先からつま先まで、静かに観察した。
「そう」
マヤは短く応え、軽く肩をすくめた。
「もう少し、この退屈な庭の飾りに付き合ってくれるかと思っていたけれど」
「あんたが用意してくれたこの場所は、本当に心地よかった。誰の目も気にせず、ただ息をするだけで許される。今の俺にとって、これ以上ない最高の隠れ家だったよ」
慎太郎はマヤの黒い瞳を真っ直ぐに見返した。
「……甘い毒みたいにな」
その言葉に、マヤは艶やかな唇の端をふっと上げた。
「毒だなんて、人聞きの悪い。私はただ、機能不全を起こした哀れな迷子を、少しだけ休ませてあげたかっただけよ」
「わかってる。感謝してる」
慎太郎はゆっくりと首を振った。
「だけど、俺はもう、何もしないことで自分を守るのはやめる。壊れた機械として箱庭で眠り続けるには、どうやらまだ、少しばかり血の気が残っていたらしい」
マヤは腕を組み、庭の木々に視線を移した。
「エレノアのオファーを受ける気になったの? それとも、あの可愛い元部下と一緒に東京へ帰るのかしら」
「いや。どちらでもない」
慎太郎は即答した。
「俺は、自分の足で立てる場所で、不格好に踏ん張ってみるよ。誰かに決められた正解じゃなく、自分が選びたいもののために」
庭の木々を縫って、初夏の風が吹き抜けた。マヤの足元で、シルクのワンピースの裾が静かに揺れる。
数秒の沈黙の後、マヤは小さく息をつき、1歩だけ慎太郎との距離を詰めた。
彼女の白く細い指先が、スッと伸びてくる。
ひんやりとした滑らかな手のひらが、慎太郎の無精髭の伸びた頬にそっと触れた。
「……いい顔になったわね」
慈しむような、そして少しだけ寂しさを孕んだような、ハスキーな声だった。
「私が拾った時は、今にも水に溶けて消えてしまいそうな目をしてたのに。すっかり、いい男になっちゃって」
「あんたのおかげだ」
「おだてないで。私はただの、暇を持て余した魔女よ」
マヤは頬から手を離し、ふわりと微笑んだ。その笑顔には、もう彼をこの庭に引き留めようとする引力は一切残っていなかった。
「行きなさい。あなたの行く世界が、少しでも温かい場所であることを祈っているわ」
「ああ。世話になった」
慎太郎は短く頭を下げ、踵を返した。
門へ向かう背中に、マヤの静かな声が追いかけてくることはなかった。
来た道を戻る足取りは、驚くほど軽かった。
背中から首筋にかけてへばりついていた、目に見えない重石のようなものが、きれいに消え去っている。肺に吸い込む空気が、隅々まで酸素を行き渡らせていくのがわかった。
坂を下りきり、駅前の通りへ向かって歩いていると、腹の底から、きゅう、と間の抜けた音が鳴った。
強烈な空腹感だった。
時計を見れば、時刻は午後2時半を回っていた。
慎太郎は大通りから1本裏の路地に入り、見覚えのある古い蕎麦屋の前で立ち止まった。
藍色の暖簾には、白抜きで『生そば』と書かれている。風に揺れる暖簾の隙間から、鰹出汁と醤油の甘辛い匂いがふわりと漏れ出し、鼻腔をくすぐった。
引き戸をガラガラと開けて店内に入る。昼のピークをとうに過ぎた店内には、壁際の席でスポーツ新聞を広げている初老の男性客が1人いるだけだった。厨房の方からは、換気扇の低い唸り声と、食器がぶつかる微かな音が聞こえてくる。壁に掛けられた古い振り子時計の音が、静かな店内にカチカチと等間隔で響いていた。
パイプ椅子のテーブル席に腰を下ろし、壁の短冊メニューを見上げた。
「いらっしゃい。お決まりですか」
割烹着姿の年配の女将が、冷たい麦茶の入ったコップをことりと置いた。
「……鴨南蛮を。それと、小ライスも」
「はいよ。鴨南蛮に小ライスね」
女将が奥の厨房へ声をかける。
コップの麦茶を半分ほど一気に飲み干した。冷たい液体が乾いた喉を潤し、胃に落ちていく感覚が心地よい。
待つこと10分ほどで、盆に乗せられた大きなどんぶりが運ばれてきた。
「お待ちどおさま」
立ち上る湯気とともに、濃厚な出汁と脂の香りが顔を包み込んだ。
濃いめの醤油ツユの表面には、鴨肉から溶け出した良質な脂が、キラキラと細かい光の膜を作って浮いている。その脂をたっぷりと吸った分厚い鴨肉が5枚。そして、こんがりと焦げ目のついた斜め切りの長ネギが、どんぶりを覆い隠すように乗せられていた。添えられた柚子皮の黄色が、彩りのアクセントになっている。
慎太郎は割り箸を割り、卓上の七味唐辛子を軽く振った。
まずはレンゲでツユをすくう。
熱い。
鰹出汁の強烈な風味と、醤油のキレ。そこに鴨の野性味のある濃厚な旨味と脂の甘さが加わり、舌の上を支配した。熱い液体が食道を滑り落ち、胃の底にずしりと着地する。
箸で蕎麦をたぐり、一気にすする。
少し柔らかめに茹でられた蕎麦が、鴨の脂を含んだツユをたっぷりと持ち上げてくる。噛むごとに、蕎麦の香りと出汁の旨味が混ざり合う。
続いて、鴨肉を口に運んだ。
厚みのある肉は、噛みしめるとムギュッとした強い弾力があり、中からジュワリと肉汁が溢れ出す。臭みは全くない。焦がしネギの甘さと香ばしさが、鴨の脂の重さを絶妙に中和してくれた。時折香る柚子の風味が、濃厚な味わいの中に爽やかな余韻を残す。
慎太郎は無心で箸を動かした。
蕎麦をすすり、ネギをかじり、鴨肉を頬張る。合間にツユを飲み、また蕎麦をすする。額にはうっすらと汗が滲み始めていたが、拭うのももどかしかった。
麺をすべて食べ終えた後、残ったツユに小ライスを投入した。
レンゲを使って、ツユを吸ったご飯を口に運ぶ。出汁と鴨の旨味を余すところなく吸い込んだ米粒が、胃袋をしっかりと満たしていく。
一粒残らず平らげ、どんぶりを空にする。最後にコップに残っていた冷水を一気に飲み干した。
大きく息を吐き出すと、腹の底に確かな重みと熱があった。
会計を済ませ、店を出る。
路地裏に差し込む日差しは、まだ夏の強さを保っていたが、風にはほんの少しだけ夕方の気配が混じり始めていた。
今日は金曜日だ。
20時になれば、高架下の赤提灯に明かりが灯る。
慎太郎はキャップを深く被り直し、ゆっくりと歩き出した。




