第28話 篤子のファインダー
薄いカーテンの向こう側から、容赦のない木曜日の朝日が実家の畳に差し込んでいた。
少し開けた窓からは、昨夜の雨の名残である湿り気を帯びた土の匂いと、朝からやかましく鳴き立てる蝉の声が入り込んでくる。
慎太郎は冷めた麦茶の入ったグラスを片手に、部屋の隅に置かれた段ボール箱の中を静かに見下ろしていた。
敷き詰められた古いタオルケットの中央で、小さな茶色い毛玉が規則正しく上下している。拾ってから数週間が経つ子猫のムギは、すっかりこの箱を自分の安全圏として認識したようだった。今は、小さな両前足で自分の頭をギュッと抱え込むような、奇妙で愛らしい姿勢で眠りこけている。
小さなピンク色の鼻先が微かに震え、時折「ミィ……」と寝言のように小さな声を漏らす。耳だけが周囲の音に反応してピクリと動いた。その体はまだ驚くほど小さいが、拾った嵐の夜、泥にまみれて骨と皮だけだったあの消え入りそうだった頼りなさはもうない。規則正しい呼吸のリズムに合わせて小さな肋骨が膨らみ、指先で触れたときに伝わってくる温かい脈打ちは、ここにある確かな命の重さを静かに、しかし力強く主張していた。
慎太郎はグラスを畳に置き、そっと人差し指でムギの背中を撫でた。柔らかな毛並みの感触が、昨日から張り詰めていた神経を少しだけ解きほぐしてくれるような気がした。
ふと、頬骨のあたりに、まだ微かに鈍い痛みが残っているのを感じた。
無意識のうちに指先が頬に触れる。昨日の夕暮れ、奈緒子に平手打ちされた場所だ。
『今日、私の方を見て笑ってくれたみどりちゃんの顔、ひどかったよ。あんな作り笑い、今まで一度も見たことない』
奈緒子の震える声と、怒りに満ちた真っ直ぐな瞳が、脳裏に焼き付いて離れない。あんなにも真っ直ぐに、他人の痛みのために怒れる人間を、慎太郎は久しぶりに見た気がした。
瑞穂やエレノア、カルメンが実家に押し寄せたあの日曜日の午後。異常な熱量に包まれた居間で、自分はただ波風が立たないように嵐が過ぎ去るのを待っていた。それが最も合理的で、誰も傷つけない方法だと、無意識のうちに計算していたからだ。
だが、その沈黙は決定的な間違いだった。
自分と別世界の人間たちとの間に引かれた見えない境界線を前にして、みどりは作り笑いを浮かべるしかなかったのだ。油臭い作業着を着た自分が、ピカピカのハイブランドを着こなす彼女たちの隣にいる男と親しくしているなんて、不釣り合いだと。そうやって彼女に自嘲させてしまった。彼女が必死に守り、積み上げてきたささやかな日常に土足で踏み込み、彼女の心に一番冷たい影を落としたのは、他でもない自分自身だった。
「……俺は、何をやっているんだ」
ムギの小さな頭を撫でながら、慎太郎は短く息を吐き出した。
東京のオフィスで何十億という金を動かし、完璧なリスクヘッジを自負していたはずの自分が、たった一人の18歳の少女の感情すら、正しく見極めることができていない。
午後4時。
少し傾き始めた西日が畳の目を長く伸ばし始めた頃、スマートフォンの短い振動音が静かな居間に響いた。
画面を見ると、木下篤子からのメッセージだった。
『武田さん、今お時間ありますか。少しだけ、見ていただきたいものがあるんです』
昨日の夕方、廃線跡で別れて以来だ。あの時、彼女は腫れた頬を見て何か言いたげだったが、深くは追及してこなかった。
『ああ。どこに行けばいい』
短く返信すると、すぐに『裏の神社の境内にいます』と返ってきた。
慎太郎はクローゼットからシャツを取り出し、実家を出た。
苔むした長い石段を登り切り、少しだけひんやりとした空気が漂う境内に足を踏み入れると、手水舎の脇のベンチに篤子が座っていた。
学校帰りなのだろう。白いブラウスに紺のスカートという制服姿で、傍らにはいつも持ち歩いている大きなカメラバッグが置かれている。彼女の膝の上には、厚手の茶封筒が大事そうに抱えられていた。
砂利を踏む音で気づいたのか、篤子が顔を上げる。
「武田さん」
「待たせたな。学校帰りか」
「はい。……その、急に呼び出してしまってすみません」
篤子は立ち上がり、少しだけもじもじと身をよじった。普段から口数の少ない彼女だが、今日はいつも以上に緊張しているように見える。鹿のように澄んだ大きな瞳が、期待と不安の入り混じった色を帯びて慎太郎を見上げていた。
「どうしたんだ。見てほしいものがあるって」
慎太郎が尋ねると、篤子は小さく深呼吸をしてから、膝の上に抱えていた茶封筒を慎太郎に向かって両手で差し出した。
「これ……県の写真コンクールに出したんです。そうしたら、特選に選ばれて」
「特選? それはすごいじゃないか」
慎太郎は驚いて声を上げた。写真の良し悪しなど素人の慎太郎にはわからないが、彼女が普段からどれほど真剣にファインダーと向き合っているかは知っている。
「おめでとう。自分のことみたいに嬉しいよ」
素直な称賛の言葉を向けると、篤子は顔を真っ赤にして、「ありがとうございます」と消え入りそうな声で呟いた。
「でも、入賞したのも嬉しいんですけど……武田さんに、一番にこの写真を見てほしかったんです。だから」
篤子の言葉に促されるように、慎太郎は封筒を受け取った。
少し厚みのある、大判の写真用印画紙。
「見てもいいか」
篤子が無言で小さく頷くのを確認し、慎太郎は封筒からゆっくりと写真を引き出した。
その瞬間、慎太郎の周囲の音が、完全に消失した。
手水舎から落ちる水音も、風が木々の葉を揺らす音も、自分の呼吸音すらも。
ただ、目の前にあるA4サイズの四角い枠の中の世界だけが、圧倒的な質量を持って眼球に飛び込んできた。
写真の端には、コンクールの応募票のコピーがクリップで留められていた。
画題『無防備』。
撮影者、木下篤子。
写真は、モノクロームだった。
場所は、初夏の公園。背景には、少しボケた遊具と、柔らかな光を反射する木漏れ日。
そのタイトル通り、画面の中央に写っていたのは、慎太郎自身だった。
彼は、宙に浮き上がるような高さで、小さな男の子を抱え上げている。1歳半の湊だ。湊は顔をくしゃくしゃにして笑い、短い両腕を伸ばして慎太郎の顔に触れようとしている。
何よりも慎太郎を釘付けにしたのは、そこに写る「自分の顔」だった。
無精髭が伸び、シャツの袖は無造作に捲り上げられ、首筋には汗が光っている。東京のオフィスで完璧に武装していた「武田慎太郎」の面影など微塵もなかった。
だが、写真の中の男は、腹の底から湧き上がるような、一切の計算も防壁もない、心底幸せそうな笑顔を浮かべていた。湊が小さな手で慎太郎の鼻をペチリと叩いた、あの一瞬だ。
目尻には深い皺が寄り、口は大きく開かれている。誰かにどう見られるかという自意識も、抱え込んでいる責任の重圧も、過去への後悔も。すべてのノイズが剥げ落ちた、ただの無防備な一人の人間の姿が、そこに定着されていた。
「武田さん」
沈黙に耐えかねたように、篤子が小さな声で呼んだ。
「勝手に撮ってしまって、本当にごめんなさい。何週間か前の休日に、公園で偶然武田さんを見かけて……。レンズを向けた時は、まだシャッターを切るつもりはなかったんです」
篤子は両手を前で固く握りしめ、言葉を探すように視線を彷徨わせた。
「でも、ファインダー越しに武田さんの顔を見た時……すごく、息をしているように見えたから」
息をしている。
その言葉が、写真という客観的な事実とともに、慎太郎の胸の奥に深く突き刺さった。
自分は壊れた機械であり、早く機能するように修復しなければならない。有能な人間として、誰かの期待に応え、システムの一部として完璧に回ること。それこそが自分の存在価値だと、ずっとそう思い込んでいた。だからこそ、東京からのオファーや、かつての部下の涙を前にして、ひどく心が揺さぶられていた。
だが、手の中の写真で笑っている男は、誰の期待にも応えていない。何の成果も生み出していない。ただ、一つの小さな命の純粋な肯定を受け入れ、自分の内側から湧き上がった感情のままに笑っているだけだ。
この無防備な笑顔を引き出してくれたのは、洗練されたオフィスでも、何十億という巨大なプロジェクトでもない。
油まみれの作業着を着て、自分の傷を隠しながら必死に生きている、あの18歳の少女と、彼女の愛する小さな命が作り出す、ささやかで温かい空間だった。
慎太郎の視界が、不意に滲んだ。
慌てて瞬きをして、写真から目を逸らす。鼻の奥がツンと痛み、喉の奥から熱い塊が込み上げてくるのを、必死に飲み込んだ。
「……怒りましたか?」
篤子が、不安そうに慎太郎の顔を覗き込んだ。
「いや」
慎太郎は掠れた声を出し、喉を軽く咳払いで整えた。
「怒ってない。ただ……驚いただけだ。自分が、こんな顔をして笑う人間だったなんて、知らなかったから」
慎太郎が顔を上げると、篤子は少しだけホッとしたように肩の力を抜き、それから、彼女自身もひどく柔らかく、美しい笑みを浮かべた。
「とても、綺麗な写真だと思います。武田さんも、湊くんも」
「そうだな。……お前が切り取ってくれたおかげだ。ありがとう、篤子ちゃん」
慎太郎は写真を丁寧に封筒に戻し、深く息を吸い込んだ。
境内の木立を抜けてくる風が、頬に残っていた痛みの熱を優しく冷ましていく。
腹の底にずっと居座っていた、冷たく重い泥のような感覚が消えていた。背中を丸め、常に他人の評価と責任の重圧に耐えるように歩いていた自分の身体が、今は驚くほど軽く、自然に真っ直ぐに立っている。
「武田さん……?」
不意に表情が変わった慎太郎を見て、篤子が不思議そうに首を傾げた。
「悪い、篤子ちゃん。俺は、行かなきゃならない場所ができた」
慎太郎は手の中の茶封筒をしっかりと握りしめ、篤子に向かって短く頭を下げた。
「この写真、もらってもいいか」
「はい、もちろん。そのために現像したんですから」
「ありがとう。本当に、感謝する」
慎太郎は振り返り、石段に向かって歩き出した。
鳥居の向こうに広がる町並みを見下ろす。太陽はすでに西の空に傾き、連なる屋根をオレンジ色に染め始めている。
腕時計に目をやった。時刻は午後4時半を回ったところだ。
今から走れば、彼女の工場の終業時間には間に合う。
慎太郎は手に持った茶封筒の感触を確かめると、一段飛ばしで石段を駆け下り始めた。




