第27話 奈緒子の怒り
タブレット端末の滑らかなガラスの表面で、無機質な数字の羅列が静かに明滅していた。
エレノア・ウォーカーが置いていった、シンガポール拠点のインフラファンドに関する事業計画書。100億円単位の膨大な資金の流れと、数年先まで綿密に計算された利回りのシミュレーション。かつての自分であれば、画面をスクロールさせただけでそのスキームの美しさにアドレナリンを分泌させていただろう。
だが今の慎太郎の網膜には、その完璧な数字の羅列の上に、どうしても別の映像が重なってしまっていた。
土曜日の夕食。自分が台所で作った唐揚げを口に運び、破顔したみどりの顔。
そして翌日の日曜日、瑞穂やカルメン、エレノアという非日常の存在が実家の居間を埋め尽くした時の、どこか遠くを見るような彼女の静かな横顔。
水曜日の午後。実家の縁側に座り、生温かい風に吹かれながら、慎太郎はタブレットの電源ボタンを短く押し、画面を暗転させた。
黒く沈んだガラス面に、無精髭の伸びた自分の顔が映り込んでいる。
瑞穂やエレノアが提示する世界は、自分が本来機能すべき場所だ。彼らの期待に応え、システムの一部として完璧に回ること。それが「武田慎太郎」という人間の本来の用途であるはずだった。
ここに留まり、18歳の少女のささやかな日常に中途半端に介入し続けることは、彼女の現実をいたずらにかき乱すだけではないのか。東京からの声に応え、自分がこの町から退場すれば、彼女はまた自分の足だけでしっかりと立って生きていけるはずだ。
冷たい麦茶の入ったグラスに手を伸ばしかけた時、畳の上に放り出されていたスマートフォンが短く震えた。
画面に表示された名前に、慎太郎はわずかに眉を寄せた。通知をタップすると、短いメッセージが表示される。
『武田さん、今すぐ中央公園の時計台の下に来てください。至急です』
野村奈緒子からだった。普段の絵文字に溢れたメッセージとは違う、ひどく事務的で切羽詰まった文面に、慎太郎はグラスから手を離し、立ち上がった。
太陽が西に傾き始め、公園の芝生には木々の長い影が落ちていた。
指定された時計台の下に向かうと、ベンチに腰掛ける奈緒子の姿があった。その横には見覚えのあるベビーカーが置かれ、日除けの下で湊がスースーと規則正しい寝息を立てている。
「野村さん。どうしたんだ、こんな時間に」
慎太郎が近づくと、奈緒子は顔を上げ、立ち上がった。いつも彼女の顔にある、太陽のような悪戯っぽい笑顔はどこにもなかった。
「武田さん」
奈緒子の声は、ひどく硬かった。彼女は眠っている湊を起こさないよう、声を抑えながらも、明確な棘を含んだ視線を慎太郎に向けた。
「今日、お昼寝の時間に湊くんがずっとぐずってて。全然寝付けないみたいだったから、少し早めに工場の方へ様子を見に行ったんです」
慎太郎は黙って奈緒子の次の言葉を待った。
「みどりちゃん、おかしいですよ」
奈緒子はベビーカーの持ち手を強く握りしめた。
「顔色は真っ青で、目の下にはひどいクマができてて。お爺さんにこっそり聞いたら、日曜の午後からずっとあんな感じで、まともにご飯も食べてないって。休憩も取らずに、ずっと旋盤の前に張り付いてるらしいです。私が見た時も、手が微かに震えてました」
心臓の奥を、冷たい手で鷲掴みにされたような感覚があった。
「……」
「武田さん、みどりちゃんに何か言ったんですか。それとも、日曜日に来たっていう東京の人たちが、何かしたんですか」
慎太郎の脳裏に、油にまみれた重い作業着と、すり減った安全靴が浮かんだ。ただでさえ息の詰まるような蒸し暑い工場の中で、今の彼女はどれほどの負荷を自分に強いているのか。
「……俺が、あいつを焦らせているんだ」
気づけば、慎太郎の口からそんな言葉が漏れていた。
「焦らせてる?」
「俺には今、東京から復職の打診が来ている。海外のファンドからも声がかかっている。あいつは、そういう状況を全部知ってるんだ」
慎太郎は視線を足元の芝生に落とし、自分の内側で組み上げた理屈を口にした。
「俺がこの町にいることが、彼女に余計なプレッシャーを与え、ペースを乱している。……だから、俺がここから消えるのが一番いいんだ。俺が元の世界に戻れば、あいつも、もう無理をして背伸びをする必要はなくなる」
パァン!
乾いた、しかし重い破裂音が、静かな公園に響き渡った。
頬に走った強烈な痛みと熱に、慎太郎の視界がぐらりと揺れた。
何が起きたのか理解するより早く、目の前の奈緒子の怒声が耳に叩きつけられた。
「馬鹿じゃないの!」
奈緒子の右手は宙に浮いたまま、微かに震えていた。彼女の大きな瞳には、明確な怒りの炎が燃えている。
「頭いい人って、なんでそうやって勝手に理由つけて逃げるの! プレッシャー? 背伸び? そんなの、みどりちゃんが1言でも口にした!?」
「あいつは、口には出さなくても……」
「出さないからって、あんたが勝手に決めていい理由にはならないでしょ!」
奈緒子は1歩踏み出し、慎太郎の胸ぐらを掴むような勢いで顔を近づけた。
「みどりちゃんが今、どうしてあんなに必死に自分を追い込んでると思ってんの。あんたが遠くに行っちゃうかもしれないって、不安で押し潰されそうだからでしょ! なのにあんたは、自分が傷つきたくないからって、みどりちゃんを理由にして逃げようとしてるだけじゃない!」
「……っ」
「あんたの本当に大事なものは何!」
奈緒子の瞳が、真っ直ぐに慎太郎を射抜く。
「東京だか何だか知らないけど、あんたが本当に戻りたい場所はそこなの!?」
頬の痛みが、神経をヒリヒリと焼いている。
何も言い返せなかった。奈緒子の直情的な怒りは、慎太郎自身が見ないふりをしてきた核心を容赦なく突いていた。
「……ごめん。手を出したことは謝る」
数秒の沈黙の後、奈緒子はフッと息を吐き、宙に浮いていた手を下ろした。彼女の目には、怒りとは違う、少しだけ潤んだような光があった。
「今日、私の方を見て笑ってくれたみどりちゃんの顔、ひどかったよ。あんな作り笑い、今まで1度も見たことない」
奈緒子はそれだけ言うと、ベビーカーの向きを変え、振り返らずに歩き出した。
夕日を背にして遠ざかる彼女の背中を、慎太郎はただ立ち尽くして見送ることしかできなかった。
★★★★★★★★★★★
午後6時。
強い日差しはすっかり影を潜め、町外れの山間部には、青紫色の夕闇が静かに降りてきていた。
かつて木材を運んでいたという、今は使われていない貨物線の廃線跡。赤錆に覆われたレールが、夏草を掻き分けるようにして真っ直ぐに伸びている。
頬の鈍い痛みを引きずったまま、慎太郎は腐りかけた枕木の上を歩いていた。
数歩先を、木下篤子が歩いている。彼女は大きな一眼レフカメラを両手で大事そうに抱え、時折立ち止まってはファインダーを覗き込んでいた。休日に少し遠出をして写真を撮りたいという彼女の希望で、昨日から約束していた場所だった。
「……武田さん」
不意に篤子が立ち止まり、振り返った。彼女の鹿のように澄んだ大きな瞳が、慎太郎の顔をじっと見つめている。
「顔、赤いです。少し腫れてる……?」
「ああ。……ちょっと、虫に刺されてな」
慎太郎が苦し紛れに顔を背けると、篤子は少しだけ首を傾げた。
「手首くらい大きい虫ですね」
一切の表情を変えずに放たれた静かな指摘に、慎太郎は思わず小さく咳き込んだ。篤子はそれ以上追及することはなく、再び前を向いてカメラを構えた。
カシャッ、と、乾いたシャッター音が静寂に吸い込まれる。
「武田さんは、ずっと遠くを見ていますね」
ファインダーを覗いたまま、篤子がぽつりと言った。
「遠く?」
「はい。目は開いているのに、ここにはいないみたいです」
篤子はゆっくりとしゃがみ込み、枕木の隙間から顔を出している、名も知らない小さな白い花にレンズを向けた。
「……俺は、遠くの景色に戻るべきなのかもしれない」
慎太郎の口から、自分でも驚くほど弱々しい声が漏れた。
「俺には、扱うべき数字があって、果たすべき役割がある。そこに戻れば、すべてが正しく機能する」
誰に言い訳をしているのか、自分でもわからなかった。だが、篤子は否定も肯定もしなかった。ただ、もう1度シャッターを切る。
「私は、遠くの景色より、足元にあるもののほうが好きです」
篤子は顔を上げ、夕闇に沈みかけた空ではなく、目の前の小さな花を見つめた。
「遠くのものは綺麗ですけど、触れないし、匂いもわかりません。でも、これは……」
彼女はそっと手を伸ばし、花びらに触れた。
「ちゃんと生きていて、土の匂いがします」
その言葉が、静かに、だが確かな重さを持って慎太郎の胸の奥に落ちた。
遠くの世界。エレノアが語った数百億のインフラ。瑞穂が待つ六本木のオフィス。それは確かに眩い光を放っているが、手触りも匂いもない、ただの概念と数字の集合体だ。
『あんたの本当に大事なものは何!』
奈緒子の声が、もう1度耳の奥で響いた。
慎太郎は立ち止まり、振り返って、自分が歩いてきた廃線跡のレールを見た。錆びついて、どこにも繋がっていないその道は、今の自分の歩幅と確かに重なっていた。
「……そうだな」
慎太郎は深く息を吸い込んだ。夕暮れの湿った土の匂いが、肺の奥まで満ちていく。
「俺も、足元にあるものの方が、好きだ」
篤子は立ち上がり、初めて少しだけ口角を上げて、柔らかく微笑んだ。




