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金曜20時、高架下にて待ち合わせ。〜元ヤン幼馴染は18歳の母〜  作者: 伊達ジン


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第26話 それぞれの想い

 朱塗りの大きな寿司桶は、築40年の実家の古びた居間には、ひどく不釣り合いなオブジェのように見えた。

 日曜日の午後1時。開け放たれた縁側の向こうでは、初夏の強い日差しが庭の緑を白く飛ばしている。遠くの木立から聞こえる気の早い蝉の鳴き声と、首を振る古い扇風機の低い唸り音だけが、妙に張り詰めた室内において唯一のBGMだった。時折、通り抜ける風が網戸を揺らすが、部屋の温度を下げるには至らない。

 畳の上のちゃぶ台を囲むように座る、3人の女性。その誰1人として、まともに箸を進めていない。桶の中には、色鮮やかな中トロやウニ、イクラといった特上のネタが並んでいるが、室内の乾燥した空気の中で少しずつ瑞々しさを失いかけていた。実家の安っぽい湯呑みから立ち上る緑茶の湯気も、どこか所在なげに空中に消えていく。


「……遠慮しないで食べてくれ。親父が気を利かせて取ってくれたんだ。余らせると後でうるさい」


 少し離れた柱の前に座る慎太郎が、短くため息をついて言った。その声を受けて、瑞穂が申し訳程度に玉子を箸でつまんだ。醤油をつけることすら忘れ、ただ口に運んで機械的に噛んでいる。彼女の意識は目の前の寿司ではなく、斜め向かいに座るエレノアに完全に向けられていた。

 事の発端は、数10分前。実家を訪ねてきた瑞穂とカルメンが鉢合わせし、玄関先で奇妙な睨み合いを続けていたところに、黒塗りのハイヤーを乗り付けたエレノアが加わったことだった。3人の存在感があまりにも周囲の長閑な風景から浮き立っていたため、見かねた父親が「とりあえず上がれ」と強引に居間に通し、行きつけの老舗寿司屋に出前を1桶注文して、自分はそそくさと奥の部屋へ逃げ込んでしまったのだ。


 エレノアは、見事な箸使いで中トロを口に運び、静かに咀嚼した。彼女が纏うハイブランドのダークスーツは、安っぽい座布団の上に正座していても全くシワ1つ寄らず、その背筋は定規を当てたように美しく伸びている。


「お父様に感謝を。とても美味しいわ」


 エレノアが薄い緑茶で口を潤し、湯呑みを音も立てずにちゃぶ台に置いた。それから、真っ直ぐに瑞穂の方を見た。ミステリアスな瞳の奥に、静かだが圧倒的な自信の光が宿っている。


「あなたが、彼の元の職場の部下ね。岩崎さん、と言ったかしら」

「……はい」


 瑞穂は箸を小皿に置き、姿勢を正した。オフィスカジュアルの洗練されたブラウス姿は、この田舎の古い家屋の中ではひどく窮屈そうに見えた。彼女の大きな瞳には、かつてカルメンに向けたような明確な敵意と、優秀なビジネスパーソンとしてのプライドが張り詰めている。


「武田を休職に追い込んだ会社の体制については、いくらでも非難されるべきだと思うわ。でも、あなたが彼を迎えに来たこと自体は評価している。彼の能力を正しく理解している人間が、あの硬直した組織にも1人くらいはいたということだから」


 エレノアの口調は、ひどく穏やかだった。だが、そこに込められた上位者からの視線に、瑞穂の細い眉が微かに寄った。


「評価していただかなくても結構です。私は、武田さんの直属の部下として、彼が本来いるべき場所へ戻るサポートをしているだけですから」

「いるべき場所、ね」


 エレノアは艶やかな唇の端を少しだけ上げ、ふっと笑った。


「あなたが彼のために用意している『いるべき場所』とは、具体的にどの程度の裁量と権限が与えられたポストなの? 彼が再びすべてを1人で背負い込まずに済む、完全なバックアップ体制は構築できているのかしら」

「それは……現在、人事や役員と交渉を進めています。武田さんが戻ってくれさえすれば、私が責任を持って……」

「何も確約されていないということね」


 エレノアは冷徹な事実だけを切り出した。瑞穂の言葉が、喉の奥で詰まる。


「岩崎さん。彼の才能は、日本の硬直した組織構造の中ですり減らしていいものじゃないわ。私が彼に提示した舞台の規模と、用意した完全な裁量については、彼から聞いているかしら。あるいは、あなたの耳にもすでに入っているかもしれないわね」

「……ええ。シンガポールの、大規模なファンドの話は」

「なら話は早いわ。私は一切の社内政治を排除した、各分野のトップクラスの人材で固めた専用のチームを用意している。報酬は今の3倍。赴任の準備もすべて手配済みよ。あなたが会社側と交渉しているというポストは、それに匹敵する環境を彼に約束できるのかしら」


 エレノアの言葉は静かだったが、その内容は瑞穂の心臓を的確に抉り抜いた。

 エレノアの提示する環境は、瑞穂の想像をはるかに超える次元にあった。自分が人事や役員と必死に駆け引きをして、ようやく勝ち取れるかもしれない「配慮されたポスト」など、彼女が最初から用意している絶対的な権限の前では、あまりにも無力で矮小な枠組みに過ぎない。


「私ほど、武田さんの能力と背負うべき責任を理解している人間はいません」


 かつて自分が放ったその言葉が、鋭いブーメランとなって自身の胸に突き刺さる。

 瑞穂の唇が微かに震え、膝の上で両手を固く握りしめた。完璧に整えられたネイルが手のひらに深く食い込む。痛みが走るはずだが、瑞穂の思考は別の冷酷な事実によって麻痺していた。反論の言葉を探そうとしても、喉の奥がカラカラに乾いて張り付き、声にならない。自分が東京で必死に集めた手札が、ここでは全く意味を持たないおもちゃの紙切れだったと宣告されたようなものだ。瑞穂の視界がじわじわと狭まり、うつむいたまま身動きがとれなくなった。

 居間に、重く冷たい沈黙が落ちた。


「ねえ」


 その氷のような空気をあっさりと割ったのは、それまで退屈そうに胡座をかき、ウニの軍艦巻きをつついていたカルメンだった。

 彼女は箸をポンと小皿に放り出し、エレノアの方へと身を乗り出した。鮮やかな赤いワンピースの襟元がはだけ、琥珀色の瞳が強い光を放つ。その動作だけで、居間に漂っていた冷たい緊張感が別の種類の熱に塗り替えられる。


「あなた、さっきから権限とか裁量とか、難しいことばっかり言ってるけどさ」

「……何か間違ったことを言ったかしら」


 エレノアが微かに眉をひそめる。カルメンは鼻でふっと笑い、頬杖をついた。


「間違ってないからタチが悪いのよ。あのさ、いくら条件が完璧で、用意された椅子が最高でもさ」


 カルメンは視線をエレノアから外し、柱の前に座る慎太郎を真っ直ぐに指差した。


「当のタケダの顔、全然楽しそうじゃないじゃない。心が死んでるなら、どんなに凄いことしても意味がないわ」


 エレノアの表情が、わずかに硬直した。


「……これは彼自身の未来の可能性の話よ。感情論で片付けられる問題ではないわ。彼の才能を腐らせることは……」

「才能、才能って。あなたは彼を、すごく高性能な機械の部品としてしか見てない。それが少し壊れちゃったから、自分が用意したピカピカの新しい機械に組み込もうとしてるだけ。それって、彼を壊したそこの彼女の会社と、本質的には何も変わらないんじゃないの?」


 カルメンの言葉は、論理的な裏付けなど何もない、ただの直感だった。だが、その混じり気のない直感は、エレノアの構築した完璧な論理の鎧をいとも簡単に貫通し、一番痛いところを正確に突いていた。

 エレノアは少しだけ息を呑み、言葉を失った。


「……そろそろ、片付けるぞ」


 慎太郎が低く静かな声で言い、ゆっくりと立ち上がった。

 ちゃぶ台の上の寿司桶を持ち上げ、台所へと向かう。3人の視線がその背中を追うが、慎太郎は振り返らなかった。

 古いシンクに桶を置き、ヤカンに水を入れてガスコンロの火を点ける。チチチチ、ボッという青い炎の音が、静かな台所に響いた。

 棚からコーヒーミルを取り出し、焙煎された豆を計量して投入する。ゴリゴリとハンドルを回すたびに、深く香ばしい香りが立ち上り、居間の張り詰めた空気を少しずつ中和していくのを感じた。

 沸騰した湯を細口のポットに移し、ドリッパーにセットした粉の中心に、糸のように細く湯を落とす。粉がふわりとドーム状に膨らみ、さらに濃厚な香りが広がる。この単調な作業の繰り返しだけが、今の慎太郎の精神を一定の温度に保ってくれていた。


 ドリッパーから琥珀色の液体がぽたぽたと落ちるのを見つめながら、慎太郎は小さく息を吐いた。

 背中越しに、3人のひりつくような沈黙が伝わってくる。つい数十分前まで、自分はどうにかしてこの異常な状況を収拾しなければと焦っていたはずだった。東京から自分を追ってきた瑞穂。圧倒的な条件を用意したエレノア。そして直感だけで生きるカルメン。彼女たちが発する強烈な熱に当てられ、息苦しさすら覚えていた。

 だが、不思議なことに、今は腹の底が奇妙なほど凪いでいる。

 誰の言葉が正しいのか。誰の提案が最適解なのか。これまでの自分なら、無意識のうちに頭の中でエクセルシートを展開し、メリットとデメリットを比較し、最も合理的な結論を導き出そうとしていただろう。

 だが、その計算式を回そうとしても、頭の芯が酷く冷めていて、どうしてもそこに乗っかる気になれなかった。


 昨日の夜。

 目の前で自分が作った唐揚げを食べながら、みどりは笑っていた。「しんちゃん、お店開けるよ」と。

 だが、その笑顔の奥に、ほんのわずかに諦めのような、自分と明確な線引きをするような寂しさが混じっていたのを、慎太郎は見逃さなかった。

 思えば、夜の工場から帰宅した直後から、彼女の様子はどこかおかしかった。「親父の工場のことで、ちょっと新しい取引先探さなきゃいけなくてさ」と視線を逸らしながらこぼした言葉は、あきらかに自分から何かを隠すための不器用な嘘だった。

 自分が台所に立ち、唐揚げを揚げる後ろ姿を、みどりはただ黙って見つめていた。その瞳の奥にあったのは、手の届かない別の世界の人間を見つめるような、静かな諦観だった。彼女は、慎太郎には踏み込めない場所で、1人で何か重いものを飲み込もうとしているように見えた。

 唐揚げを口に運ぶみどりの指先には、石鹸でいくら洗っても落ちない金属の黒ずみが深くこびりついていた。不器用で、意地っ張りで、それでも自分の両足で泥だらけの現実を踏み締めている彼女の強さと脆さ。それを思い出すだけで、胸の奥がキュッと締め付けられるような物理的な痛みを感じる。


 3つのマグカップに丁寧にコーヒーを注ぎ分けた。

 慎太郎は、自分の手を見つめる。ミルを回し、湯を注いだこの手。つい昨晩、みどりのためにネギを刻み、中華鍋を振るった手。

 世界を動かすような莫大な数字を叩き出すことは、今の自分にはできない。だが、目の前の人間のために温かい食事を作り、不格好な小さな命にミルクを与えることはできる。そして何より、そのささやかな温度のやり取りの中でだけ、自分は確かに呼吸ができていると感じられた。

 マグカップをトレイに乗せ、慎太郎は居間へと戻った。


「……飲んでくれ」


 ちゃぶ台にコーヒーを置く。それぞれが黙ってカップを手に取り、口をつけた。


「エレノア」


 慎太郎は自分の席に座り直すと、真っ直ぐに彼女のミステリアスな瞳を見据えた。


「オファーは、光栄だ。瑞穂も、遠いところを何度もすまない。カルメン、お前の言う通りかもしれない」


 慎太郎は3人の顔を順番に見渡し、そして、静かに告げた。


「だが、俺の人生の価値をどこに置くかは、俺自身が決める。もう少しだけ、時間が欲しい」


 それは逃げではなく、確かな意志を持った言葉だった。

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