第25話 みどりの決意
鉄を削る甲高い研磨音が止むと、町工場の中は古びた扇風機の低い唸り声と、外を走るトラックの遠い走行音だけになった。
みどりは油で黒ずんだ保護メガネを外し、首に巻いたタオルで額の汗を乱暴に拭った。初夏の日差しが薄いトタン屋根を容赦なく焼き、工場内は息が詰まるほど蒸し暑い。旋盤の前に立ちっぱなしだった足が、鈍く重い。
作業台の上の金属片を片付けようとした時、入り口のシャッター付近の空気が、不自然なほど静まり返っていることに気づいた。
逆光の中に、1つの影が立っていた。
背が高い。足元は土埃と鉄粉が舞うコンクリートだというのに、彼女が履いているピンヒールには1点の曇りもなかった。
「突然押しかけて悪かったわね。松井みどりさん」
流暢な、だが明確な意志を持った日本語だった。
逆光から足を踏み入れたその女性を見て、みどりは無意識のうちに息を呑んだ。
エレノア・ウォーカー。慎太郎の周りに現れたというイギリス人の女。遠目で見たことはあったが、至近距離で対峙するのは初めてだった。
180センチ近い長身を包むのは、この寂れた地方都市には不釣り合いなほど洗練されたハイブランドのスーツ。艶やかなダークスキンと、彫りの深い顔立ち。そして何より、彼女のミステリアスな瞳の奥にある、底知れない知性と自信の光。
彼女がそこに立っているだけで、みどりの見慣れた町工場が、まるで安っぽい映画のセットのように小さく、みすぼらしく見えた。みどりの着ている分厚い作業着から漂う機械油の匂いが、彼女から発せられる微かな、だが圧倒的に上質な気配に飲み込まれていくようだった。
「……何の用?」
みどりは顔をこわばらせ、声の震えを隠すように低くぶっきらぼうに答えた。
エレノアは工場の中をぐるりと見渡し、乱雑に積まれた鉄パイプや古い工作機械を順番に目で追い、最後にみどりの油まみれの作業着へと視線を戻した。その視線に蔑みや同情の色は一切なかった。ただ、事実を観測するような極めてフラットな目だった。
「昨日、彼にオファーを出したわ。シンガポールを拠点にする、インフラ投資の新しいファンド。年俸は今の3倍。彼に完全な裁量を与えるという条件で」
エレノアは静かに口を開いた。みどりの顔からスッと血の気が引くのがわかった。
「でも、彼は断った。自分に期待するな、と」
みどりはポケットの中で、油汚れの染み付いた両手を固く握りしめた。
慎太郎がそんな凄い話を持ちかけられていたことも、それを彼が断ったことも知らなかった。自分が金曜の夜に1杯のビールを奢って「逃げて正解だった」と笑い飛ばしていた裏で、彼はそんな途方もないスケールの選択を迫られていたのだ。
彼が本当に背負ってきたものの重さを、自分は何もわかっていなかったのではないかという気後れが、みどりの胸をチクリと刺した。
「……私に言われても、知らないよ。しんちゃんが自分で決めたことなら」
「彼がここから動かない理由は、自分の心が完全に治ったという確証が持てないからだと言っていたわ。でも、本当はそれだけじゃない」
エレノアは1歩、みどりへ近づいた。香水とは違う、圧倒的な『本物』のオーラがみどりの肌を粟立たせた。
「傷ついて逃げ出した彼を、この町は否定せずに受け入れた。彼にとって、それは必要な治療だったはずよ。特に、あなたの存在は彼にとって大きな救いになっている。それは否定しない」
エレノアの言葉は感情的ではなく、極めて論理的だった。責められているわけではない。ただ、逃げ場のない真実を冷徹に突きつけられている。だからこそ、みどりは何も言い返せなかった。
「でも、治りかけた鳥を、いつまでも小さな鳥籠の中に入れておくのは、愛情ではなくただのエゴよ。彼が本来背負うべき責任と、彼にしか見られない景色がある」
エレノアはみどりの目から視線を逸らさなかった。
「彼の翼を折らないでちょうだい。彼は、この小さな空で終わる人間じゃないわ」
それだけを言い残し、エレノアは踵を返した。
工場の外に停まっていた黒塗りのハイヤーが、音もなく彼女を乗せて走り去っていく。
残されたみどりは、ただその場に立ち尽くしていた。
反論の言葉は、1つも浮かばなかった。エレノアの言ったことが、残酷なまでに正しいと、みどり自身が1番よく分かっていたからだ。
★★★★★★★★★★★
夕暮れ時。慎太郎の実家の古い台所には、油の爆ぜる小気味良い音が響いていた。
「急にごめんね。晩ご飯のおかず、作りすぎちゃったから」
玄関先に立っていたみどりは、タッパーの入ったビニール袋を差し出した。湊は父親に預けてきたという。
「いや、ちょうど良かった。親父が急に釣り仲間と飲みに行ってしまってな。こっちも作りすぎて持て余していたところだ。上がっていけ」
慎太郎がそう言うと、みどりは小さく頷き、靴を脱いで上がり込んだ。
古い木造の家屋に足を踏み入れると、すでに台所からは食欲を刺激する強烈な香りが漂っていた。居間のちゃぶ台にはいくつかの皿が並べられ、慎太郎は首に手拭いを巻いてコンロの前に立っていた。
「座っててくれ。すぐ出す」
慎太郎は中華鍋を再び火にかけ、手早く油をなじませた。
まな板の上には、水気をしっかり切った緑鮮やかな豆苗が山になっている。熱した油に微塵切りにしたニンニクと生姜を落とすと、一気に香りが立つ。そこに、干し貝柱や干しエビの旨味が凝縮されたXO醤を加え、油と絡ませる。
パチパチと音が弾けた瞬間、慎太郎は豆苗を1気に鍋へ投入した。
ジャアアッという激しい音とともに、白い煙が立ち上る。慎太郎の腕が滑らかに動き、重い中華鍋が宙を舞う。強火でわずか十数秒。豆苗のシャキシャキとした歯ごたえを残したまま、鮮やかな緑色の豆苗のXO醤炒めが皿に盛り付けられた。
振り返ると、横のコンロでは揚げ物が完成を迎えようとしていた。
慎太郎は温度の違う2つの鍋を同時に操っていた。低温の油でじっくりと中まで火を通した鶏肉を、隣の高温の油へ移す。パチパチという音が1段と高くなり、衣の表面の水分が完全に飛んで黄金色に変わる。外はカリッと、中は肉汁が溢れる完璧な2度揚げの唐揚げだ。
さらに、その横ではキツネ色に揚がった小判型のコロッケが、油切り網の上でサクサクと衣を立てている。
「熱いうちに食おう」
最後に、火から下ろしていた竹の蒸籠の蓋を開ける。ふわりと白い湯気が上がり、薄い皮から豚肉の脂とエビの赤みが透けて見える、手包みのシューマイが顔を出した。
昆布と鰹の合わせ出汁から丁寧に引いた、豆腐とワカメのみそ汁をお椀に注ぎ、すべての料理がちゃぶ台の上に並べられた。
無駄な動きが1つもない。プロの料理人が作ったと言われても疑わないほどの、完璧な手際と仕上がりだった。みどりは、彼が料理をする背中を見つめながら、その計算され尽くした動きの連続に圧倒されていた。
「……いただきます」
みどりは箸を取り、まずはコロッケを1口齧った。
サクッという小気味良い音の直後、滑らかに裏ごしされたジャガイモの甘みと、炒めたひき肉の旨味が口いっぱいに広がる。油の温度管理が完璧な証拠だった。
唐揚げを口に運べば、薄い衣が弾け、熱い肉汁が舌を火傷しそうなほど溢れ出す。豆苗のXO醤炒めは、絶妙な火当てで繊維のシャキシャキ感が完全に残っており、高級中華料理店のような複雑で深いコクがあった。シューマイの肉々しい弾力と甘み、そして、料亭のように澄んだみそ汁の出汁の香り。
美味しい。
信じられないほど美味しい。
だが、みどりは料理を口に運ぶたびに、胃の奥に冷たい石が溜まっていくような錯覚を覚えた。
(……なんで、こんな完璧に作れるのさ)
ただの家庭料理のはずだ。それなのに、野菜の切り方1つ、火の通し方1つとっても、どこにも隙がない。
みどりは唐揚げを飲み込み、そっと息を吐いた。
この人は、きっと何をやらせてもこうなのだ。目の前にあるものを正確に見極め、1番正しい手順で、絶対に失敗しない答えを叩き出す。東京のピカピカのオフィスで、自分には想像もつかないようなデカい仕事を引き受けていた時も、きっとこの人は、今みたいに涼しい顔で全部こなしていたに違いない。
だからこそ、あんなに凄い人が、彼を迎えにきたのだ。
昼間、工場に現れたエレノアの言葉が脳裏に蘇る。
『彼の翼を折らないでちょうだい』
みどりは膝の上に置いた自分の手元を見た。爪の隙間には、石鹸でいくら洗っても落ちない黒い油汚れが染み付いている。手のひらは硬く、いくつもの小さな擦り傷がある。
自分の生きる世界は、この油臭い町工場と、泣き喚く1歳半の息子と、日々の数十円の節約の中にある。
彼が生きるべき世界は、ここじゃない。
「どうした? 味、濃かったか」
黙り込んだみどりを見て、慎太郎が心配そうに尋ねた。
「……ううん。すっごい美味しい。しんちゃん、お店開けるよ、マジで」
みどりは顔を上げ、無理に口角を上げて笑ってみせた。
食事を終え、食器を下げた後、慎太郎は鉄瓶で沸かした湯を急須に注いだ。
湯呑みから、ほのかに甘い日本茶の香りが立ち上る。
テレビもついていない静かな居間に、柱時計の秒針の音だけが響いていた。
みどりは両手で湯呑みを包み込み、その温かさを手のひらで確かめながら、じっと茶柱のない水面を見つめていた。指先が微かに震えそうになるのを、湯呑みを強く握ることでごまかす。
しばらくの沈黙の後、みどりは顔を上げずに口を開いた。
「ねえ、しんちゃん」
「ん?」
「私さ、もう金曜の夜は、あの店に行けない」
慎太郎がお茶を飲もうとしていた手が、ピタリと止まった。
「親父の工場のことで、ちょっと新しい取引先探さなきゃいけなくてさ。夜もいろいろ動くことになったんだわ」
嘘だった。そんな予定はどこにもない。工場にそんなツテもないし、新しく営業をかける余裕もない。
慎太郎は何も言わず、ただ静かにみどりの言葉の続きを待っていた。
みどりは小さく息を吸い込み、湯呑みをテーブルに置いた。
そして、顔を上げて慎太郎の目を真っ直ぐに見た。
「それに……しんちゃんも、そろそろ帰りなよ。東京に」
「みどり」
「あんたの居場所、こんなところじゃないでしょ」
みどりの声は、自分でも驚くほど乾いていて、平坦だった。
「凄え人たちが、しんちゃんの能力を欲しがって、待ってくれてるじゃん。何十億とか、世界がどうとか、私には全然わかんないけどさ。あんたは、そういう場所で生きる人間だよ」
慎太郎の眉間がわずかに寄り、口を開きかけた。だが、みどりはそれを遮るように続けた。
「私の暇つぶしに付き合うのは、もう終わりでいいよ」
みどりはニッと笑った。18歳の少女が、無理をして大人の顔をする時の、あの不器用で強がりな笑顔だった。目線を合わせれば、すぐに泣き出しそうだったから、みどりは必死に口角を上げた。
「あんたの翼、こんな狭い空で折っちゃ駄目だ」
慎太郎の眉間がわずかに動いたが、声は返ってこなかった。ただ、痛みを堪えるような瞳でみどりを見つめているだけだった。
静まり返った居間で、湯呑みから立ち上る冷めかけた日本茶の湯気だけが、2人の間でゆっくりと揺れて、消えた。




