第24話 最強の矛と盾
「年俸は、今の会社の3倍。赴任の準備はすべてこちらで手配するわ。……どう?」
エレノア・ウォーカーの静かで、しかし一切のブレがない声が、フレンチレストランの個室に落ちた。
テーブルの中央に置かれたキャンドルの火が微かに揺れ、磨き上げられたシルバーのカトラリーにオレンジ色の光を反射させている。重厚な扉に閉ざされたこの空間には、地方都市の喧騒は一切届かない。ただ、低く設定された空調の音だけが、慎太郎の鼓膜を等間隔で叩いていた。
慎太郎の喉が、ひどく乾いた音を立てた。
無意識のうちに、テーブルクロスの上に置いた両手にじわりと汗が滲むのを感じる。
エレノアのオファーは、あまりにも魅力的だった。ただの好条件というだけではない。彼女の目は、慎太郎の能力と価値を1ミリの疑いもなく信じ切っている。東京のオフィスで不格好に逃げ出し、自分自身の存在意義すら見失いかけていた慎太郎にとって、彼女のその眼差しは、猛烈な引力を持っていた。
その手にすがりつけば、自分は再び「必要とされる人間」に戻れる。壊れた部品が新しい機械に組み込まれ、再び激しく、だが完璧な精度で回り始める感覚。腹の底から、かつて世界を相手に戦っていた時の、あの血が沸き立つような熱が微かに蘇ってくるのがわかった。
「俺は……」
慎太郎が掠れた声で口を開きかけた、まさにその時だった。
コン、コン。
控えめだが、はっきりとしたノックの音が個室のドアを叩いた。
エレノアがわずかに眉をひそめる。コース料理のデザートを運んでくるには、明らかにタイミングが早すぎた。
「失礼いたします」
重い木製のドアが静かに開き、黒服のホテルスタッフが困惑しきった顔で姿を見せた。彼が何かを言い訳しようと口を開きかけた直後、その後ろから滑るような足取りで1人の女性が室内へと入ってきた。
「素敵なディナーの最中に、お邪魔するわ」
滑らかで、それでいて芯のある声が個室の空気を一変させた。
深いボルドーレッドのシルクワンピースに身を包んだマヤ・ヴァンスだった。彼女の豊満なプロポーションに合わせて上質な生地がしなやかに揺れる。彼女から漂う、深く甘いアロマの香りが、室内に満ちていた洗練されたフレンチの匂いと空中でぶつかり合った。
「……知り合いかしら」
エレノアはミステリアスな瞳を微かに細め、目の前に現れた女を上から下まで値踏みするように見つめた。
マヤは戸惑うスタッフに「下がっていいわよ」と優雅な手振りで示し、ドアを閉めさせた。そして、ゆっくりとした足取りでテーブルへと近づき、慎太郎の横にすっと並び立った。
「このホテルのバーで飲んでいたのだけれど、随分と面白い匂いがしたから寄ってみたのよ。ロビーに停まっていた黒塗りのハイヤーの運転手は、ずいぶんと退屈そうだったわ」
マヤは艶やかな唇の端を上げ、エレノアの完璧なスーツ姿を一瞥した。
「でも、彼をそんな息の詰まる世界に連れ戻そうとしているのなら、少し見過ごせないわね」
「お邪魔しているのはそちらの方よ。申し訳ないけれど、席を外していただけないかしら。今、彼とは今後のキャリアに関わる重要な話をしているの」
エレノアの声は丁寧だが、明確な拒絶と冷たさを孕んでいた。
「重要な話?」
マヤはテーブルの上のグラスを横目で見て、ふう、と短く息を吐いた。
「彼に完全な裁量を与えるということは、裏を返せば、眠る時間も、息抜きをする時間もすべて奪い取って、24時間、世界中のタイムゾーンに合わせて彼の神経をすり減らさせるってことでしょう。3倍の年俸? 安すぎるわ。彼の残りの寿命を買い取る値段としてはね」
エレノアの表情から、ピタリと余裕が消えた。
突然現れた謎の女の口から、ファンドの構造と、そこに潜む残酷さを一瞬で見抜く言葉が出てきたからだ。エレノアの鋭い眼光が、マヤの余裕に満ちた表情を射抜くように睨みつける。
「……あなた、ただの素人じゃないわね。何者かしら」
「昔の話よ」
マヤは小さく肩をすくめた。
「でも、人がどうやって壊れていくかは、嫌というほど見てきたわ。膨大な数字と重圧に押し潰され、ある朝突然、靴紐を結ぶことすらできなくなる人間をね。……彼には、もうそんな場所は必要ないわ」
「必要ない?」
エレノアの低い声に、明確な怒りの色が混じった。
「彼の才能を腐らせていいと思っているの? 浅瀬で生温かい水に浸かっていても、深海で生きる生き物は窒息するだけよ。私は彼を、本来いるべき海に帰してあげたいの。傷ついた人間を甘やかして、自分の手元で飼い殺しにするつもり?」
「海? 血の匂いが充満したサメの生簀の間違いじゃないかしら」
マヤはエレノアの怒りを全く意に介さず、静かに微笑み返した。
「才能があるからといって、死ぬまで戦い続けなければいけない義務なんてないわ。彼はもう、十分に走ったのよ。だから、今はただ息をして、静かに生きているだけで完璧なの。それを、壊れかけたエンジンに再びニトロを注ぎ込んで、完全に焼き切るつもり?」
極限まで合理と成果を追求し、慎太郎の能力を誰よりも信じるエレノア。
かつてその頂点を極め、すべてを捨てて究極の逃避と肯定へと辿り着いたマヤ。
2人の圧倒的な存在感が、キャンドルの火を挟んで激しく衝突していた。
エレノアの言う通り、自分は戦場でしか生きられない生き物なのかもしれない。マヤの言う通り、自分はもう戦場に戻れば完全に焼き切れてしまうのかもしれない。
相反する2つの強烈なベクトルが、慎太郎の身体を真っ二つに引き裂こうとしていた。胃の奥で、鉛のような重さが再び鈍く痛み始める。
「……2人とも、やめてくれ」
低く、だがはっきりとした声で、慎太郎は言った。
個室の空気が止まった。エレノアとマヤの視線が、同時に慎太郎へと向く。
慎太郎はテーブルクロスに置いていた手をゆっくりと引き、自分の膝の上でしっかりと握りしめた。少しだけ貧血のような眩暈がしたが、両足で床を強く踏みしめる。
「エレノア。俺の能力を誰よりも高く評価し、最高の舞台を用意してくれていることには、心から感謝する。お前のオファーは、今の俺にとって、喉から手が出るほど欲しい特効薬に見える」
「なら……」
「だが、俺は今、自分が本当に何をしたいのかすら、うまく判断できない状態なんだ。自分が完全に壊れているのか、それとも治りかけているのか、それすらもわからない」
慎太郎はエレノアの目を真っ直ぐに見返した。
「お前の期待に応えられるという確証が、自分自身で持てない。そんな無責任な状態で、お前のファンドに加わることはできない」
「だから、私が保証すると言っているのよ。あなたの能力は私が……」
「それは俺の責任だ。誰かに保証してもらうものじゃない」
慎太郎の言葉に、エレノアは小さく息を呑んだ。
常に他人の評価や期待に応えることで自分を保ってきた慎太郎が、「自分の責任」として明確に線を引いた。それは、会社から逃げ出して以来、彼が初めて見せた、かつてのエリートとしての確固たる自我だった。
エレノアは数秒間、その憂いを帯びた瞳をじっと見つめていたが、やがて小さく肩をすくめ、短く息を吐いた。
「……相変わらず、面倒で、最高に頑固な男ね」
彼女のシャープな骨格に、ふっと柔らかい笑みが浮かぶ。
「わかったわ。今すぐここでサインしろとは言わない。私だって、壊れたままの部品をファンドに組み込むような素人じゃないもの」
エレノアはハンドバッグを手に取り、滑らかな動作で立ち上がった。
「でも、諦めたわけじゃないわ。明日の夜、少し時間をちょうだい。こんな窮屈な個室じゃなくて、もっとあなたの血が騒ぐような場所を用意する。……返事を聞くのは、それからよ」
有無を言わさぬ口調。エレノアはマヤの方を一瞥し、「お邪魔したわね」とだけ言い残し、ヒールを鳴らして個室を去っていった。
重い木製のドアが閉まる音が響き、室内に再び静寂が戻る。
慎太郎は大きく息を吐き出し、椅子の背もたれに深く体を預けた。シャツの背中には、びっしょりと冷たい汗をかいていた。
隣で、マヤが慎太郎のグラスに残っていた水を自分のグラスに移し、ゆっくりと口に含んだ。
「強引なお姫様ね」
マヤは面白そうにクスクスと笑った。先ほどまでの、射抜くような鋭い気配は完全に消え失せ、再び怠惰で甘やかな空気を纏っている。
「彼女の言う通りよ。行きたいなら、行ってみればいいわ。自分が本当にエラ呼吸の生き物なのか、それとも肺呼吸になったのか、確かめてみるのも悪くない」
マヤはゆっくりと手を伸ばし、慎太郎の汗ばんだ前髪を、指先でそっと撫でた。
「でも、もし息ができなくなったら、いつでも私の庭に戻ってきなさい。あなたの居場所は、ちゃんと用意してあるんだから」
彼女の指先の微かな冷たさと、深く甘い香りが、張り詰めていた慎太郎の神経をゆっくりと麻痺させていく。
明日の夜。
エレノアとの約束が、頭の片隅で警鐘のように鳴り続けていた。




